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2009年9月13日のブックマーク (8件)

  • 【写真・アンコール遺跡】トマノンとチャウ・サイ・テボーダ〈前〉 - 窪橋パラボラ

    →【カンボジア旅行 目次】 遺跡を歩いていると、足場が組まれた作業現場にたくさん出会います。修復工事の現場です。アンコール遺跡は、浸や風化による損壊が進む一方で、次々に再建されていく、今も変化をし続けている遺跡なのだなあ、という印象を受けました。 ↑遺跡の中に設置された看板。国旗は、遺跡修復に携わった国・団体のもの。赤と青の国旗はカンボジア国旗です。絵柄はアンコール・ワット。かっちょいい。 ◇◇◇◇◇ アンコール遺跡群で近代的な修復活動が始まったのは1908年、フランス極東学院によるものでした。以来100年近く、保存作業は試行錯誤を繰り返しながら続けられています。技術や修復思想、修復資材は、時代によって移り変わってきました。 現在は、世界各国の研究団体が集まって、発掘調査や遺跡修復/保護活動をしています。アプサラ機構*1のような全体をとりまとめる機構はありつつも、各プロジェクトは独立して

    【写真・アンコール遺跡】トマノンとチャウ・サイ・テボーダ〈前〉 - 窪橋パラボラ
  • 革命的非モテ同盟跡地

  • 月面は「マグマの海」だった…かぐやが観測 : ニュース : 宇宙 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    月の地下は、マグマが冷えてできた「斜長岩」の層が広がっていることが、宇宙航空研究開発機構の探査機「かぐや」による観測で分かった。 誕生後間もないころの月が、マグマの海に覆われていたことを裏付ける有力な証拠になるという。英科学誌ネイチャーに発表した。 今年6月まで月を周回していた「かぐや」が調べたのは、隕石(いんせき)が月に衝突して地表がえぐれているクレーター内の丘69か所。特定の波長の光を月に当て、その反射光を分析して岩の組成を調べた。 その結果、直径30キロ・メートル以上ある、深くえぐれた大型のクレーターの中心部ではすべて、純度100%近い斜長岩が露出していた。地下約4〜30キロ・メートルの深さで、月全体に斜長岩が広がっているらしい。 「マグマの海」説は、アポロ宇宙船が持ち帰った岩石の分析などから提唱されたが、採取場所は地球から見える月の表側の数か所に限られていた。

  • 世界が誇る歴史的建造物の数々を、600万本のつまようじで再現する男 : ひろぶろ

    2009年09月12日18:00 画像ネタアート 世界が誇る歴史的建造物の数々を、600万のつまようじで再現する男 38歳で元TVアナウンサーのStan Munroさんが、6年の歳月と600万の爪楊枝、170リットルの接着剤を使って作った、様々な建築物の再現作品です。再現されているのは世界遺産として指定されている歴史的建造物や近代の高層ビル群、都市の風景など、多岐にわたります。 ニューヨーク市のセント・パトリック大聖堂 。 彼のつまようじ作品は全て1/164スケールで再現されています。下の写真に写っているのはNYのクライスラービル(319m)、マレーシアのペトロナスツインタワー(452m)、中国の台北101(509.2m)など。 シドニー・オペラハウス。周りの水もつまようじです。 トルコのスルタンアフメト・モスク。 カタールはドーハのアスパイア・タワー(318m)。

  • 秀吉の威勢、聚楽第行幸の屏風…上越で発見 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第(じゅらくだい)に招いた際の光景を描いた一対の屏風(びょうぶ)が新潟県上越市で見つかり、市立総合博物館で12日、一般公開が始まった。 「御所参内・聚楽第行幸図屏風」(各高さ約1・6メートル、幅約3・6メートル)は、右に天皇が乗った輿(こし)の行列が聚楽第に向かう様子が、左に秀吉の牛車の列が聚楽第から御所に向かう様子が、それぞれ描かれている。 聚楽第は、秀吉が現在の京都市上京区周辺に築いた豪邸で、「聚楽第行幸」(1588年)によって自らの威勢を天下に示したとされる。しかし、建物は完成からわずか8年で解体された。 同館によると、聚楽第を描いた屏風は3例確認されているが、秀吉の御所参内と行幸の光景がそろったものが発見されたのは初めて。 秀吉の死後、慶長年間に制作されたとみられ、上越市の個人が所蔵し、昨年11月、同館に鑑定を依頼した。花岡公貴・主任学芸員は「聚楽第を研究

  • 夏の終わりのサマーウォーズ(つづき・ネタバレ有): たけくまメモ

    昨日のエントリの続きですが、実はコメント欄で俺が書きたかったことはほぼ書いてしまいました。以下に採録しますが、盛大にネタバレを含みますのでご注意ください。 http://www2.atchs.jp/test/read.cgi/takekumamemo/195/26-29 (以下採録。一部文章を訂正してあります) 26 : たけくま ★    2009/09/12(土) 01:23:08   ID:??? 俺が最初エントリで書こうとしたのは、「俺が監督だったらこうする」というものでした。創作に正解はないので、あくまでも「自分なら」ですけどね。 俺が作るとしたら、たとえば田舎の大家族のドラマと、電脳世界の出来事を、はじめは全然関係ないパラレルな出来事として描いていく。田舎の90歳のおばあちゃんを中心にした旧家の大家族の儀式(犬神家みたいな)と、それとは関係なく電脳世界の出来事が進んでいて、そっ

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  • 旧暦2033年問題 - Wikipedia

    の公的なカレンダーや暦書などでは、1873年(明治6年)1月1日にグレゴリオ暦への改暦が行われて運用されているが、この日以降であっても、従前の太陰太陽暦(天保暦、いわゆる旧暦)による日付を必要とするさまざまな用途や慣習のために、補助的に収載して使われている。この天保暦による月名の決め方、特に閏月の置き方(置閏法)が、将来に不都合が生じることが明治の改暦以降に明らかになった。 日の暦においては、定気法の二十四節気が天保暦とともに1844年(天保15年)に導入されたが、その結果、太陰暦のひと月の間に中気が2つ入ってしまう事態が起こりうるようになり、それに伴って月名や置閏に関して特別な調整を行う必要が生じた。そのために、「冬至を含む暦月は11月、春分を含む暦月は2月、夏至を含む暦月は5月、秋分を含む暦月は8月となるように調整する」[1]というルールが設定されていた。 1912年(明治45年