枯れ鉢

Nさんの家には二階にサンルームがある。Nさんの両親は園芸が趣味で、鉢植えの植物がそこに所狭しと並んでいる。
ところがその一画に、なぜか何も植えていない空の鉢が常に置かれている。使っていない鉢をまとめて置いておく場所は他にあるのに、それとは別に空の鉢をひとつだけ、常に同じ場所に置いてあるのだ。
Nさんは小学生の頃にそのことが気になって、鉢植えの世話をしている最中の父親に尋ねた。
そこに置いておくとな、なんか元気なくなるんだよなあ。何度かそれで枯らしちゃったから、そこに鉢植えを置かないように、植木鉢だけ置いとくんだ。
父は首を傾げながらそんなことを言った。
日当たりがそこだけ悪いわけでもなく、両隣の鉢植えは元気なのに、そこに置いた鉢植えだけがどういうわけかすぐに枯れてしまうのだという、
それを聞いたNさんは試みにその空の鉢を持ち上げて、その下の台を撫でてみたものの特に変わったところはない。そこに置いた鉢植えが何度も枯れたのは単なる偶然なのかもしれないが、気分の問題としてそこに鉢を置きたくなくなるのもわかる。


それからしばらく経ったNさんが高校生の頃のこと。
Nさんは当時付き合っていた彼氏とひどい別れ方をした。同じ学校に通うその彼氏が他の女の子と二股をかけていたことが発覚し、大喧嘩の末に破局したのだ。
それはもう大きなショックを受けたNさんは、部屋にあった彼氏とのツーショット写真の数々をビリビリに破ったがそれでも腹の虫がおさまらない。
そこでなぜか思い出したのが例の鉢植えが枯れる場所のことだ。園芸に興味のないNさんはサンルームにあまり目を向けることはなくなっていたが、今でもまだあの場所は空の植木鉢が置かれているのかと気になった。
行ってみると小学生の時と同様に、空の鉢が置かれている。
そこでNさんは破り散らした写真の破片から彼氏の顔だけが残っているものをひとつ拾い上げると、サンルームの例の場所の空の鉢に放り込んだ。
お前みたいなやつは枯れてしまえばいいんだ。そんな恨みを込めて。
その後、どういうわけか元彼氏は学校を休みがちになった。たまに見かけることがあっても人が変わったように暗い表情をしているようだった。言葉を交わすことは一切なかったので、彼がなにかの事情を抱えているのかどうかはNさんにもわからなかった。そしてしばらく見かけなくなったと思ったら、いつの間にか学校を辞めていたという。
まさかあの鉢に写真を入れたせいじゃないよね、と少し気になったNさんが家に帰ってサンルームの例の鉢を覗いてみたところ、両親のどちらかが捨ててしまったのか、鉢の中は空だったという。

正座するもの

Yさんは大学生の時に塾講師のアルバイトをしていた。
ある日の夕方にバイト先の塾に行くと、なんだか床が場所によりジャリジャリする。スリッパの裏を見ると、細かい粒が付いている。
塾長に尋ねてみると、一応掃除機かけたんだけどね、さっき塩まいたんだよね、と言う。
どうしてそんなことをしたのか続けて問うと、塾長は何だか気まずそうな顔をしながら、まあ消毒みたいなもんだよ、気にしないで、とだけ言って詳しいことは教えてくれなかった。
その後は特に変わったことは起きないまま、Yさんは四年生の五月までそのアルバイトを続けた。卒論に専念するために辞めることにして、最後のバイトの日、Yさんは例の塩をまいた日のことをふっと思い出した。
帰り際の雑談の中で、何の気なしにあの日のことを塾長に尋ねてみると、塾長は言われてはっきり思い出したようで、溜息をつきながら教室に目を向けた。
最後だし、言っちゃっていいか。塾長はそう前置きしてから語った。
あの日、塾長は昼過ぎに塾に来た。いつものように鍵を開けて教室の明かりを点けたが、なぜかそれでも室内が薄暗く感じられた。
蛍光灯が切れたのだろうかと天井を見回しても特にそれらしきところはない。
自分の目がおかしいのかと思い、窓の外と室内を交互に見たりしていると、教室の床に誰かが座り込んでいる姿が目に入った。
床の上に正座しているようだが、薄暗いせいでそれが誰なのかは判別できない。
そもそも誰かが来ていたことにそれまで気が付かなかった。生徒だろうか。それとも講師か。いつの間に入ってきたのだろう。
反射的に挨拶しようとした声が喉まで出かかったところで、いや待てよと思った。本当に誰なのだろうか。
声をかけずに近寄ろうとして、息を呑んだ。
こちらが一歩踏み出した途端、その誰かは教室の向こうへと遠ざかっていく。正座した姿勢を崩さないまま、床の上を音も立てずに滑っていく。
その勢いのまま、向こう側の壁にドンと音を立ててぶつかり、消えた。
そんな奇妙なものが出たのはそれが初めてのことで、塾長はすっかり慌ててしまい、教室を飛び出すと近所のコンビニで塩を買い込み、教室の床じゅうに撒いた。
買ってきた塩を全てばら撒いた頃には、教室はいつも通りの明るさに戻っていたという。

 


変な噂になると困るから言いふらさないでね、と塾長に念を押されたので、どこの場所なのかは言えませんとYさんは語った。
ただ、Yさんがネットで調べた限りではその塾は今でも営業しているらしい。

重いボール

高校の女子バレーボール部が体育館で練習中のこと。
転がったボールを拾い上げた部員の一人が違和感を覚えて、手にしたボールに目をやった。
中に何か入っているように思える。軽く振るとカラカラと軽い音がして、中で何かが転がる感触がある。
当然ながらボールに開口部などない。壊さずに中に物を入れることができないなら、内部が剥がれて動いているのだろうか。
そうだとすればそのまま使うとすぐに破裂したりするかもしれない。そう思って、彼はそれをボール拾いの後輩に手渡して他のボールに混ぜないよう伝えた。
しかし練習を終えてみると、その隔離しておいたはずのボールが見当たらない。後輩がそのボールだけ別にしておいた、という場所に置かれてない。誰かが勝手に混ぜてしまったのかもしれない。他の部員にも伝えて、気がついたら廃棄しておこうということになった。
翌日以降の練習でも件のボールは見つからなかったが、他に奇妙なことが起きた。
翌日の練習中のこと、高くトスされたボールが空中でなにかにぶつかったように変に跳ね返ったのを部員たちがはっきり見た。ボールはそのままポトリと床に落ちてきて、てんてんと数回跳ねてからネットの下あたりで止まった。
ぶつかったあたりの空中にはなにかあるようには見えない。空気の壁に跳ね返されたような、奇妙なボールの動きだった。
どういうことなの、と呆気にとられながらも落ちてきたボールに一番近いところにいた部員がそれを片手で掬うように拾い上げようとした。その途端に体勢を崩して転んだ。突然一人で転がった姿に周囲の部員たちは軽く笑い声を上げたが、転んだ本人は血相を変えて主張した。
これ、重い! 重すぎる!
何を馬鹿なことを、と他の部員がそのボールを持ってみると、確かに重い。砂がぎっしり詰まっているような重さだ。
一体なにをふざけているんだ、と顧問の先生もやってきたが、ずっしり重いボールを持つと顔を曇らせた。誰がこんな悪戯を、と部員たちに尋ねる。
しかし部員たちにはそれが悪戯かどうかさえわからなかった。なにしろそのボールはつい今しがた、トスで高く打ち上がったばかりなのだ。重くなったのは空中で見えないなにかに当たって落ちてきてからとしか思えないのだが、その一瞬でボールの中に何かが詰まってしまうというのは不可解だ。悪戯だとしても誰がどうやったのか説明がつかない。
結局その重くなったボールは顧問の先生が中を調べるために体育館から持ち出していったのだが、その後どうなったのかは部員には一切教えてくれなかった。ボールについてどう尋ねても曖昧な表情で言葉を濁してしまう。
その後の練習では、ボールが見えないなにかにぶつかることは二度となかったという。

交差点

春先の夕方だったという。
バンド活動をしているKさんが練習後に帰宅する途中、交差点で信号待ちをしていた。
その日の練習を思い返しながらぼんやり辺りを眺めていると、道路の向こう側で信号待ちをしている人たちの中に高校生らしき制服姿の女の子が三人並んでいる。
その中の一人が目を引くようなかわいい子で、ついじっと視線を向けてしまった。
すると脇から男の声がする。
「なぁにじろじろ見てんだよ」
ふっとそちらに目を向けたが、誰もいない。
周囲を見回しても、他にこちら側で信号を待っているのは数歩離れたところにいる女性くらいで、至近距離で聞こえた声の主らしき者は見当たらない。
空耳だろうかと視線を前に戻すと、先程の女の子の向こう側に立っている人とちょうど目が合った。知っている顔だ。
当時Kさんが付き合っていた彼女である。
彼女はKさんとはっきり視線が合っているはずなのに、無表情でただじっとこちらを見ている。
なんであんなふうに見てくるんだ。文句でもあるのか。
とりあえず声をかけようと、信号が青に変わってから彼女のほうに近寄っていった。
ところがKさんが近寄るより前に、先程の高校生の女の子の陰に隠れるように彼女の姿が見えなくなった。
高校生たちはそのまま横断歩道を渡ってきたが、その向こう側には彼女の姿はなかった。
彼女の携帯にかけてみても出ない。


どういうわけか、それ以来彼女と一切連絡がつかなくなった。
彼女の実家は教えてもらっていないからそちらにも当たれない。共通の友人にも尋ねてみたが、そちらも心当たりはないということだった。
それから五年経つ今でも彼女とは会えていないという。
正直なところ、単に愛想をつかされただけかもしれないので、今ではもう彼女を積極的に探そうという気も薄れているとKさんは語った。
ただ、彼女が消息を絶つ直前のあの交差点での無表情な視線と、不可解に彼女を見失った状況と、すぐ傍で聞こえた男の声とが、どうにも心にしこりのようなものを残しているのだという。

朝風呂

二十年ほど前の二月、Cさんが妻と新潟旅行に出かけた。
泊まったホテルには温泉があり、朝は五時から入浴できるという。Cさんはとりわけ風呂が好きなほうでもないのだが、ちょうど五時頃に目が覚めたので、せっかくだから朝風呂を楽しむことにした。
妻はまだ寝ているというので一人で部屋を出て、まだ誰もいない廊下を大浴場まで歩いていった。
浴槽の中にも誰もおらず、貸し切り状態の中でCさんは伸び伸びとお湯に浸かった。まだ窓の外は暗いので風景を楽しむことはできないが、湯口からお湯の出る音だけが響く静かな浴場でじっと温まるのは心地よかった。
するとそこへ突然、浴場内のサウナのガラス戸が開いて中から一人出てきた。猫背で頭の禿げ上がった老人で、水風呂から桶で冷水を汲むと慣れた様子で肩からそれを一気に浴びて、それからタオルで水気を落として脱衣場へと出ていった。
Cさんは自分が一番乗りだと思っていたが、先にあの老人が入っていたようだ。それにしてもあの歳で早朝からサウナとは大したものだと驚きながら、Cさんはそのままお湯の中でじっとしていた。
すると数分した頃、またサウナのドアが開いた。もう一人入っていたのか。
ところが中から出てきた姿を見てCさんは目を疑った。先ほどの老人だったからだ。
そこからの行動も先程と全く同じだった。水風呂から汲んだ水を肩から浴びて、体を拭いて出ていく。
双子だろうか。そうだとしても行動までそっくり同じということがあるのか。
呆気にとられながらそのままお湯に入っていたCさんだったが、そうしている間にまたサウナの扉が開いたのでギクッとして視線を向けた。
同じ老人が出てきて、先程の二回と全く同じ行動を取って脱衣場へと出ていった。
これはいくらなんでもおかしいのではないか。サウナにそっくりな老人が何人も入っていたのではなく、同じ老人が繰り返し出てきているのではないか。
そんな考えが頭をかすめた。
もうのんびり湯に浸かっている気になどなれなかった。慌てて浴槽から出ると、大雑把に体を拭いて脱衣場へと出ていった。
脱衣場には誰の姿もなかった。
ロッカーもCさんが使っているもの以外鍵が刺さっている。脱いであるスリッパもCさんのものだけだ。
そうだ。脱衣場に来たときもそうだったのだ。貸し切り状態だと思ったのはそのせいだったのだ。
あの老人はCさんより先に来ていたわけではなかったはずだ。彼がサウナに入った姿は見ていない。
それなのに、サウナから出ていく姿だけが繰り返されるのはどういうことだ。
そのまま脱衣場でぼやぼやしていては、またサウナから出てきた老人が脱衣場に入ってくるのではないか。
Cさんは慌てて身支度をすると、脱衣場を飛び出して誰もいない廊下を部屋まで早足で戻った。
部屋に入ると妻はもう起きていて、布団の上でテレビを見ていたが、Cさんの姿を見ると怪訝な顔をした。そして視線を上下させる。
それから妻は急に鋭い声で叫んだ。誰よあんた!
あまりの剣幕にCさんは面食らったが、妻は立ち上がるとCさんに詰め寄り、後ろに回り込んで片手でCさんの背中を何度も払った。
それから辺りを見回すような仕草をして、ようやく落ち着いたようでまた布団の上にへたり込んだ。
急になんだよ、とCさんが問いただすと、妻は怪訝な顔で言った。あなた、お風呂で変なもの見なかった?
Cさんはぎくりとして聞き返した。変なものって、どうして。
今、部屋に入ってきたあなたの肩のむこうに知らないおじいさんの顔が見えたんだ。横顔だったけど、にやにや笑っててさ。
でも、顔しか見えなくて、首から下が見えないの。だからあなたの後ろに回ってみたら、顔もすっと引っ込んで見えなくなって。
お風呂から帰ってきたところだし、変なものがついてきたんじゃないかと思ったの。

リビングの墓石

Gさんが夜に帰宅したときのこと。
玄関から上がって洗面所に手を洗いに行く途中、リビングにいる妻にただいまと声をかけながら通り過ぎようとして、横目で見た光景に違和感を覚えた。
リビングのソファーに腰掛けた妻の、テーブルを挟んで向かい側に黒っぽい大きなものがある。
墓石だ。
なぜか我が家のリビングに墓が建っている。
妻は墓石に向かってじっとうなだれている。
何があった。
墓石の表にはGさんの家の名前が刻まれている。側面には誰かの戒名らしきものが刻まれている。
誰の墓だ。誰の。
もっと近くで見ようと廊下からリビングに足を踏み出そうとしたところ、廊下の奥のトイレから誰かが出てきた。
妻だった。ああ、おかえり。そうGさんに言った妻はいつもの妻だ。
Gさんが視線を戻すとリビングには誰もいない。墓もない。


幻にしてはいやにはっきり見えて、現実感があった。胸騒ぎがしたGさんは、すぐに人間ドックを予約した。
検査の結果、胃に腫瘍が見つかった。
その後手術と投薬でそれ以上の悪化は避けられたが、あのとき見た墓石はまさしく病気が見せた未来だったのではないか。そうGさんは語った。
ただ、リビングで見た墓石は実際のGさんの家のお墓とは色も意匠も違うものだったという。

酔っ払い

夜の十一時頃、仕事帰りのRさんが歩いていると脇のコンビニから背広姿の男がひとり出てきた。
そのままRさんの十メートルほど前方を同じ方向へ歩き始めたが、その足取りがどうも危なっかしい。歩道の上を左右へよろけながらようやく歩いているという様子だ。
どうやらかなり酔っているらしい。
夜の住宅街で車の通りはまばらだが、車道へふらふら出ていってしまっては事故の元だ。いざとなったら歩道へ引き戻すつもりで、Rさんは彼を眺めながら進んだ。
すると急に歩道の右から誰かが飛び出してきて、酔っ払いの男に勢いよくぶつかった。
そしてそのまま姿を消した。
Rさんは目を疑った。酔っぱらいにぶつかってそのまま通り過ぎていったり、来た方向へ戻っていったわけでもなく、酔っぱらいと並んで歩いているわけでもない。
酔っ払いにぶつかった瞬間にふっと消えたようにしか見えなかった。
暗くて見間違えたのかとも思ったが、どうも誰かがぶつかったのは確かなようで、酔っ払い本人も呂律の回らぬ声を発しながら周囲を見渡している。
しかし酔っていい気分のせいか、大して気にする様子もなくまた歩き始めたので、Rさんもそのまま足を動かした。
すると、また少し歩いたところで誰かが右から飛び出してきた。先程と同様に勢いよく酔っ払いにぶつかり、そしていなくなった。
まただ。どういうことだ。
酔っ払いはまたしてもきょろきょろしながら、そのまま歩いている。
Rさんはそこでひとつ気がついたことがあった。
最初に見たときよりも歩き方がしっかりしてきたな。
コンビニから出てきてすぐはヨタヨタして足取りがおぼつかなかった酔っ払いが、勢いよく誰かにぶつかられるたび、しっかり歩けるようになってきている。
ぶつかられた衝撃で酔いが覚めたのだろうか。それにしても短時間で急に覚めすぎなようにも思える。
いぶかしむRさんを尻目に、その男はずいぶんしっかりした足取りで夜の住宅街を去っていったという。