Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ボードリヤール

2008-07-29 23:10:25 | 文学
哲学の話。

必要に迫られてボードリヤールの本を読んだ。

まず、リチャード・レインという人の書いた解説書『ジャン・ボードリヤール』。ここでは、第一、第二、第三の領域の「シミュレーション」の分類が解説されていた。

次にボードリヤール『象徴交換と死』。ここでは「シミュラークル」の三つの領域について解説が試みられていた。

ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』ではそのシミュラークル分類を前提にして話が進められていた。

ついでに『現代批評理論のすべて』も参照した。ここには「シミュレーションとシミュラクラ」と題された用語説明がある。

シミュレーション、シミュラークル、シミュラクラという三つの用語が出てきたわけだけど、それらの関係がよく分からない。混乱させられるのはリチャード・レインの本。この本では「シミュレーション」の分類、ということになっているんだけど、ボードリヤールの本では「シミュラークル」の分類になっている。説明している内容は同じことのようなんだけど、でもどうして「シミュラークル」が「シミュレーション」に変わっているのか?

それと、『現代批評理論のすべて』の用語説明は、説明になっていない。ボードリヤールの解説本を読めば言っていることはだいたい分かるんだけど、初めて読んだとき(2年前)はさっぱり分からなかった。それに、シミュラークルの説明がないのはなぜ?そう言えば、リチャード・レインの本でも「シミュラークル」の登場回数は比較的少なかったような気がする。

『象徴交換と死』は長すぎて全部読めないし、読んでも意味がよく分からなそう。手っ取り早くシミュラークルとシミュレーションの関係を教えてくれる人やモノはないものか。リチャード・レインの本は分かりやすかったんだけど(これは全部読んだ)、上記の部分が気になる。

哲学書って読み慣れていないと、読み進めるのが難しい…
意味分かんないんだもん。
こういうのばっかり読んでる人って、頭の構造が人と違うのかなあ。
前、ドゥルーズの本を読んでいて、意味が全然分からないと先生に言ったら、あんなの誰も分からないよ、と言われた。そんなもんなのかなあ。別の先生からは、ああいう意味の分からないものを論文の論拠にはできない、みたいなことを言われた。
ドゥルーズは特別だとしても、おれにはほとんどの哲学書が難しく感じられるので、哲学は自分の論文には使えないってことかな…


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2 コメント

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突然ですがはじめまして (みな)
2008-10-24 19:44:25
突然コメント失礼いたします。

「ボードリヤール」 「ねたあとに」の検索からおじゃましました。

検索いたしたのは、「ねたあとに」の最終回を読んだ際、その最後の台詞で、「図解雑学現代思想」のボードリヤールの項の説明を思い出し、もしかしてボードリヤールを意識して書かれた作品ではと思ったためです。

そう考え出すと、そのように思えてしょうがなくなりました。

いかがおもわれるでしょうか?

80年の異世界ブーム・宗教ブーム←へのアンチテーゼとして

詩的実践(アナグラムなど)

というところが、作品と符合するところがあるように思えます。

いかがでしょうか?


もし不適切でしたらどうぞ削除なさってください。


図解雑学をちょっと読んだだけですので、甘いというのは自覚しております。
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ボードリヤール (ペーチャ)
2008-10-25 01:56:13
どうも、はじめまして、みなさん。

ぼくはボードリヤールのことを全くと言っていいほど理解していないし、『ねたあとに』の内容をよく覚えているわけでもないので(最後の台詞も)、適切な回答者ではないのですが、よろしいでしょうか…

ただ、ボードリヤールの、いわば「学問的な理解」は必要ないと思われます。たぶん長嶋有が念頭においていたとすれば、それは通俗的な理解の方でしょう。

通俗的な理解というのは、ボードリヤールをヴァーチャルリアリティ思想の先駆けとみなすことです。現実と非現実(ヴァーチャルな世界)が区別できなくなった世界の到来を予告した、というふうに言われると思います。また、そこにはオリジナルなど存在せず、ただシミュラークル(劣ったコピー)があるばかりだ、という主張もなされるでしょう。

それを念頭に、『ねたあとに』を考えると、あの小説は何気ない日常をただ描いていた小説で、ヴァーチャルと現実との混交といった要素はないように思えます。オリジナルなき世界、という設定でもなかったと思います。ぼくにはボードリヤールとの接点は見つかりません。

ただ、詩的実践の考察がボードリヤール哲学に顕著に見られるのであれば、『ねたあとに』に通じるものもあるだろうと思います。

ちなみに、かなり穿った見方をすると(というより勝手な深読みをすると)、オリジナルなきシミュラークルの世界、という思想はドゥルーズのプラトニズムの転倒の主張(シミュラークル称揚)とも繋がってくるもので、これは文学を真実から遠ざかること第三番目の模倣に過ぎないとするプラトンを攻撃します。つまり「文学が現実を模倣する」という通念の否定でもあるわけです。

翻って『ねたあとに』を考えてみると、あの小説は言語の現実指示機能を前提にしていたとはいえ、むしろ言語そのものの「風変わりな感じ」を前面に押し出していた観があり、そうするとミメーシス(現実模倣)に疑いを挟む小説でもあると言えるわけです。もっと言えば、文学には筋立てが必要であるというアリストテレス以来の伝統的な考え方を排除し、いわゆる「筋のない小説」を標榜したものでした。

この限りにおいて、ボードリヤールと『ねたあとに』とを一本の線で結ぶことはできますが、ほとんどこじつけに近い気がします。一応まとめると、ボードリヤール→シミュラークル→ドゥルーズ→プラトニズムの転倒→ミメーシス(現実模倣)批判→言語そのものが大事→『ねたあとに』。

図学雑学シリーズにどのようなことが書いてあったか分からないのですが、ぼくの見解は以上のようなものです。哲学の専門家には怒られてしまいそうな意見ですが…
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