早朝に雪はなかったが、8時頃からか1時間もしないあいだにうっすらと雪がおりていた。
これといって外出の用もなく、寒さに体を丸めて家ごもり。
図書館への返却日まで残り少なになって、『かもめ来るころ』(松下竜一)を、特にⅡ章の〈かもめ来るころ〉に収められた作品の数々が好きで、読み返していた。未刊行の著作集ということだが、〈かもめ来るころ〉は熊本日日新聞に1972年11月14日から1カ月間連載されたという30篇になる。
氏が書く随筆を「貧乏くさくしみったれている」と評してきた人がいたそうだ。
氏は決して声高なもの言いをしない。「その評や、まさに正鵠を射て、私はしょんぼりするのである」
ある晩のことを書いた後、「貧乏くさくしみったれた我が家の愚にもつかぬ一夜の景だけれど、このような一夜一夜のなつかしさを塗りこめてこそ、なにやら人生というものが見えてくる気がするのである」と終っている。
仁保事件無罪判決要請という支援活動に関わり、家にやって来た友とその話をしていたとき、下の息子の歓クンが突然〈オトウサン、カンハ、ヨーセイシッテルヨ」といって、本棚に駆け寄り絵本を一冊抱えてきた。小さな指が指すのは、樫木の妖精だった。
「要請」と「妖精」。2歳の幼子のたわいない勘違い。
このことは「ヨ―セイ」と題して書かれていて、その文中、何にだかわからないけれど愛おしさで胸いっぱいにさせてくれる、こんな箇所があった。
「歓よ。父は今日のお前のこんな愛らしい勘違いをしっかり書きとめておこう。ほんとうにたわいない些事なのだが、しかしこんな些事をもこまやかに記録していくことで、父である私の今の生き方を、のちの日のお前や健一にいきいきとなつかしく伝えうるだろうと信ずるのだ。
そして歓よ。私が日々のこんな些事まで記録してお前たちに伝えたいのは、父としての自信なのだ。今の私の行動が、十五年後、二十年後の成人したお前たちの視点から裁かれても、なお父として恥じないものと信ずればこそ、どんな切り口を見せてもいいほどに、日々の些事をすら大切に記録し伝えたいのだ。とうてい財産など築けぬ父であってみれば、伝えうるのはそれだけしかない。父の〈生き方〉を丸ごと伝えて、しかもその中に、きらきらとお前たちの想い出をちりばめておいてやるつもりだ。
歓よ。お前が二歳の日、要請と妖精を勘違いした小さな出来事は、しかし二十年もの時を経て読む日、それこそきらきらと光を放つ思い出となるのだ。そして、その思い出の核に、仁保事件という人権裁判支援に行動した父の姿をも見るだろう。お前たちが、必ず何かを受け継いでくれるのだと、私は信じる。
歓よ。父は今、三十五歳の冬を溢れる情熱で生きている。
(そうだ、はさみを使えるようになったお前が、切り裂いてしまわないうちに、その妖精の絵本を仕舞い込んで、遠い先の日の思い出の証に保存しておいてあげようかねえ)
なんかですねえ…、人生についての見方をすごく豊かにしてくれる、深めてくれる、そんな気がするのです。
この写真は1968年、31歳のときに生まれた長男健一君が映る(『豆腐屋の四季』収)。この2年後、次男の歓君が誕生。1970年に豆腐屋を廃業されている。