カレーなる日々 / शानदार दिन

インドの日常を中心に日々を綴っています。

「戦艦武蔵」吉村昭

2024年06月30日 21時31分59秒 | 本 / BOOKS

1966年刊行の吉村昭の歴史小説。

戦艦武蔵ノートで予習したので驚く事はなかった。
建造されることになった理由と過程、
長崎の三菱重工造船所での建造風景、
進水の様子、出陣、沈没・・・
取材ノートを元に詳しく書かれていた。

吉村氏の歴史小説は綿密な取材の上に成り立っている。
話を盛り上げたり面白くするために脚色したくなるものだが、
真実に何も足さない、真実から何も引かない、
そこがいい所だと思う。

1943年にトラック諸島に向けて出陣し連合艦隊旗艦になった。
しかしそこで戦艦大和と同様に、燃料を食うという理由から、
動く事はなく、大和ホテル、武蔵御殿と呼ばれた事は知らなかった。

 我が郷土の三大偉人の一人である山本五十六海軍元帥は、
 大和型戦艦の製造にあたり「時代遅れ」と乗り気ではなかった。
 すでに船(海)の時代ではなく飛行機(空)の時代であると解っており、
 大和も武蔵も沈没し、日本が敗戦する事も予測していたと思う。

 その山本が武蔵に乗船していた時の様子を読んで、
 郷土の英雄は真に見事な人物であったと再認識した。

 4月18日、ラバウル基地からブイン基地へ向けて飛び立った、
 一番偵察機に搭乗した山本はブーゲンビル島上空で
 アメリカ軍の戦闘機に攻撃され戦死した。
 座席に座り軍刀を握ったままの姿で絶命していたそうだ。

1944年、レイテ沖海戦に向かった武蔵は10月24日、
フィリピンのシブヤン沖で撃沈するのだが、すでに空からの援護はなく、
アメリカ軍の爆撃機、雷撃機の集中攻撃を受ける様子に、
あんまりだ・・・・と思った。

10時半前に始まった第一次攻撃から15時半ころまでに、
5度の空襲で魚雷33発、爆弾17発、至近弾18発を受け、
19時半ころ沈没した。

駆逐艦に救助信号を送ったが、大きな武蔵に巻き込まれて沈没する事を恐れ、
了解と回答したが近ずけなかったのは仕方ないかもしれない・・・。

武蔵は1000個以上の部屋に分けられており、
空気が抜けないため、完全に海底に沈まず、
浮いたまま海流にもまれて漂流しているらしい・・・。

 戦記を読んで思う事はどこの戦いも悲惨であったと言う事だ。
 実際に足を運んだインドのインパールの戦記も惨いものだった。
 
 私たちは戦争を忘れてはならないのだ。
 今、私たちがこうやって生きているのは、過去があったからである。

全乗組員2399名中、1023名が戦死、生存者は1376名。
助かった乗務員は司令官を失った事もあり、
前戦に赴き玉砕した人が多かったそうだ。無念であっただろう。

今は安らかに眠られたし。

 

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陰陽海

2024年06月29日 21時45分59秒 | 台湾/TAIWAN

十三層遺跡の反対側にある海が陰陽海である。

陰と陽。相反しつつも、一方がなければもう一方も存在し得ない、
森羅万象、宇宙のありとあらゆる物は、
相反する陽と陰の二気によって消長盛衰し、
陽と陰の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる。
と言うのが陰陽思想である。

陰は受動的な性質である:闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女
陽は能動的な性質である:光・明・剛・火・夏・昼・動物・男。

タイチーマークはご存じだろう。

陰陽海は金色と青色の二色の海水が見られるのであるが・・・
天気が悪すぎてハッキリ映らなかった。

海のそばには道路が走っており、 
荒々しい波が飲み込んでしまうのではないと思った。

 

 

近くにある金瓜石山は大量の黄鉄鉱が含まれており、
水に溶け出し水酸化鉄となり、土砂に付着し黄褐色の浮遊物になる。
それが海に流れ出して黄金色になる。
もともと海水は青色なので金色と青色の二色の海水が見られる。

褐色と灰色に見えたのだが、
言葉では表せないようなエネルギーを感じた。
まさに陰と陽の同じ力がぶつかり合い合体した1つの大きな力が
それほど大きくはない海岸に現れていた。

晴れていればこんな色らしい。

でも褐色と灰色だったけど押し迫って来るような海だった。

九份だけでなく金瓜石と水湳洞も行く価値は十分にある。
十三層遺址と陰陽海をお忘れなく。

 

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十三層遺址

2024年06月28日 21時46分59秒 | 台湾/TAIWAN

九份の先の金瓜石の先にある「水湳洞」こそが訪ねたい場所だった。
上記の案内図によると、左側の赤〇印が九份。
中央の下の赤〇印が金瓜石、上部の赤〇印が水湳洞である。

九份からも金瓜石からもバスで行けるのだが、
バスが全く来ず・・・ここでタクシーが来たら身を挺して止めようと。
金瓜石のバス亭で寒さに震えながら15分くらい待ってたら、
1台のタクシーがやって来てお客さんを降ろした。
「チャンス!」と思ったら運転手と目が合った。

ガイドブックの十三層遺址の写真を指さしたところ、
300元(約1500円)との事。若干高いと思ったので、
インドの癖が出て(笑)200元に値切ろうと思った。
運転手が強気だったのと私が弱気だったので300元で乗った。
だって雨降って寒かったし、やっと来たタクシーだったんだもん。

前置きはこれくらいにして・・・。

十三層遺址は1933年に日本によって建設された銅の精錬所で、
昔は十三階建てだった事から十三層遺跡と呼ばれている。

海をバックにして観光用の見晴らし台があり看板が建てられている。
看板の上を見上げると・・・・

どう頑張っても、この位置からはこれしか見えない。、
今は廃墟で入場できないのがとっても残念。

左側。

右側。

ちなみに上空から見るとこんな絶景なのに。

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新北市立黄金博物館その④

2024年06月27日 20時39分59秒 | 台湾/TAIWAN

その他の見どころは金属工芸館。金属工芸の基礎知識の説明や
金属工芸品が展示されている。

大地館には鉱山資源が展示されている。
またVRによって鉱山のバーチャル体験もできる。

蛇もいるようだ。

 

金塊を運んでいた線路と駅。

展示品じゃないと思うけどパトカー。

金瓜石勧済堂の関羽像、中国後漢末期の武将。

なお世界遺産に登録しようという動きがあるらしい。

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新北市立黄金博物館その③

2024年06月26日 20時38分59秒 | 台湾/TAIWAN

ここのイチオシである、本山五坑。

全く知らずに入ろうと思ったら、入口のおばちゃんが、
「チケットは?」と中国語で言うので「え?」と日本語で言ったら、
上の売店で買ってくるようにとの事。中国語でね(笑)。

で、めんどくさいなぁと思って。
入らなくてもいいやって。一度は投げたんだけど・・・
思い直して入ったら、最高だったわ(笑)。
入って良かった。ちなみに50元(約250円)。

入口でヘルメット渡されて・・・。
なんだかなぁ。資料見るのに雰囲気出すのかなぁ・・・
なんて思ってたら、いきなり外へ行くように言われて。
外へ出たら・・・こんなトンネルみたいな入口があった。

トンネルへ入ってみたら・・・・
そこは暗闇・・・・

しかも、地下水が流れているし。

なるほど、金を掘ってた穴に入ってくのね。
と思ってたら、掘ってる、掘ってる。
(もちろんマネキン)

掘ってる。

こちらは休憩中。トンネルの中で弁当食べてんだね。

暗闇もあり。

上ってる。

マネキン以外は誰もいなかったので、
肝試しみたいな感じもしたけど。

上ったり、くねったり、延長180mだけど、
もっと長く感じた。

ここ面白いよ、50元の追加料金は払っても、
絶対に行かなきゃ損する黄金博物館で一番の見どころ!

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新北市立黄金博物館その②

2024年06月25日 20時37分59秒 | 台湾/TAIWAN

ずっと上って行った一帯にいくつかの建物が並んでいる。
そのうちの一つがその名も「黄金館」。

当時は採掘事務所だった所で鉱山の歴史が説明されている。
使用されていた採掘機械が外側に、
内部は採掘場のジオラマや金の延べ板も展示されている。

「金」と大きく書かれているのが笑える。

入口の・・・熊かなぁ?

どうやって使うのかわからない。

こんなに深く何層にも掘られていたんだね。
なんだか蟻の巣みたいだ。

じゃじゃーん!! 縁のない物だけども。

 

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新北市立黄金博物館その①

2024年06月24日 21時37分59秒 | 台湾/TAIWAN

入って左手に進むと「四連棟」という長屋風の建物がある。

台湾は1895年に日本の統治下となり、
金鉱の採掘は田中組と藤田組に任されていた。
1930年代に金鉱の採掘はピークとなり住民は15000人以上、
1936年には金5トン、銀15トン、銅11000トンにもなった。

この当時に使用されていたのが日本式家屋の「四連棟」である。
字の通り4軒の家が連なっている。

内部は見学可能で、様々な日本式の家具や設備が見られる。

畳にふすまの和室である。

床の間には掛け軸と生け花が。

我が家にもあったようなふりこ式の時計。

こたつと座布団、火鉢。

テレビもあった。

台所と呼ぶのにふさわしい造り。

木製のふろおけ。

和式の便所。

お庭。

洋室もあった。

レコードプレーヤー。

ラジオ。

今はあまり観なくなった黒電話。
でもダイヤル式だったのか・・・・
私が幼少の頃は右側に手回し式の取っ手があって、
ぐるぐる回すと交換手が出て「〇〇番お願いします」って言って、
つないでもらってたけど。

ダイニング。

押し入れか??

バスタブと洗面は洋風ななだけど、
何故か洗濯板と洗面器は木製。

金で潤っていたのか生活は豊かそうだった。。

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金瓜石

2024年06月23日 20時38分59秒 | 台湾/TAIWAN

九份の先にある名所である。
地名から想像できるとおり昔は金が取れた。

1890年に渓流から砂金が発見され、1893には九份で、
翌年には金瓜石でも発見されゴールドラッシュとなった。

 

台北のMRT板南線中孝復興駅上から1092番のバスに乗る。
九份までは直行で1時間20分くらいだが、
旅の鉄則は通り場所から行け!なので私はその先の金瓜石へ向かった。

9時くらいだけどちょっと暗かった(12月だったので)。

まぁほとんどの人は九份で降りたので金瓜石で降車するのは私だけだった。

こんな停留場。ここだろうと思ったんだけど確信がなかったので、
運転手にガイドブックの文字を見せて下車した。
まぁ健康のためもあるだろうけどコスト面かな。

九份にしか行かないのはもったいないと思えるほど、
けっこうな観光地だった。

バス停から進んで行く。ね、誰もいないでしょ。
ほぼ貸し切り~。

かなり広そうだ・・・・。

新北市立黄金博物館と言う最初の建物で入場券を買う。
金を掘っていた鉱員の人形がお出迎え。

80元(約400円)。内部にはオプション料金の所もあるが、
安いと思えるほど面白かった。

パンフレットの地図を見ながら進む。
このような行き先を記した案内板もあるので、
それほど迷わずに行ける。

 

 

 

 

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チームラボ・ボーダレス麻布台

2024年06月22日 21時30分59秒 | 日記 / DAIRY

チームラボ・プラネッツ豊洲には行った事があるが、
麻布台にもできたんだね。

境界なく連続する1つの世界の中で、さまよい、探索し、発見する。
というのがコンセプトみたい。

豊洲の方はウォーターエリアとガーデンエリアがあったが、
麻布台は一つのエリアでさまようらしい。
同じ部屋の中でも時間帯によって映像が異なるので、
一日中楽のしめる(一日中はいないけど)らしい。

神谷町駅からチームラボに向かう通路の看板。

豊洲は水のアリアでは靴を脱いでズボンを膝上までまくり上げる必要があったけど、
麻布台は水のエリアはないので靴のまま入る。床が鏡の所が多いので、
スカートはNG。友人はスパッツ履いてたけど・・・
かなりのセクシーショットだったわ(笑)。

通路の壁に映し出される映像も時間帯で変わるので、
同じところをぐるぐる回っていても解らない。
まぁ3周くらいしてると、前に通ったな、と思う。

この部屋が一番良かったな、看板と同じ映像。
色が変わって天井、床、壁に映る球状ライトは色が変わって、
とっても幻想的だった。

これは豊洲にもあったLEDライトが吊り下げられてる部屋。

もちろん豊洲と異なった仕掛けもあったし、
これは円盤に蓮の花やいろんな映像が映し出される部屋。

面積的には豊洲より狭いけど、
限られたスペースに異なる映像を時間差で映し出す事によって、
飽きさせない工夫がされている。

豊洲の方がアドベンチャーっぽくって好きだなぁ。
麻布台は歩き回ってるだけだし。入場料4400円。

 

 

 

 

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「戦艦武蔵ノート」吉村昭

2024年06月21日 21時39分59秒 | 本 / BOOKS

吉村昭によって1966年に発表された「戦艦武蔵」は、
純文学指向からドキュメンタリー小説に変わる分岐点になった。

「戦艦武蔵」を書くきっかけとなったのは病気療養する事になった、
友人からの話を聞いたからだった。
相当の資料がそろっておりそれを見た吉村氏がやってみようと・・・。

「戦艦武蔵」を読む前に取材日記のように吉村氏が書き溜めた
ノートを読んでみる事にした。

戦争が終わってから20年後である。
戦艦武蔵はどういういきさつで造られる事になって、
どんな人々がどうやって造り上げたのか。
そしてどんな風に沈んで行ったのか。

私が共感を覚えたのは、吉村氏が自分の足で関係者を訪ね、
直接話を聞き、メモを取り、絵を描き、また関係者を紹介してもらい、
聞いた事を調べ、疑問に思った事や辻褄の合わない事は、
徹底的に解明していく様子だった。

自分が得た情報と全く違った事を書いた関係者の手記に対して、
痛烈に批判している所に驚いた。その作り上げられて手記を
うのみにして(自分で調査せずに)引用している作家たちの事も、
そんなに批判していいのかな・・・と思うほどに。

 私も同じで、インドに行った事もないのにさも行ったように話したり、
 ネットで得た見ず知らずの人の情報を事実のように言ったり、
 経験もないのに、裏付けも取らずに話している人は嫌いである。

それてしまったが、
吉村氏は軍関係も造船関係も飲食関係やその他の人々にも
必要と思えば会いに行って話を聞いている。
真実を追い詰めて行く物凄い執念である。

さて戦艦武蔵は、戦艦大和が有名すぎて(アニメもあるし)
いまいちよく知らなかったのだが、日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦で、
最後の戦艦である。

三菱重工長崎造船所で極秘裏に製造され、
携わる人は優秀である事もそうであるが、、
身元や思想など徹底的に調べられて、
秘密を洩らさないと言う誓約書に署名し、
自分が携わる部分しか知ってはならないので、
他の部分については一切知らない。
それだけに全部を知るために相当な数の人に会う必要があったわけだ。

戦艦武蔵は1944年10月24日にアメリカ軍の集中攻撃を受け、
フィリピンのシブヤン海に沈没した。
乗員2399名のうち1023名が死亡し、
生き残った船員たちも他の戦地に赴き大半が玉砕している。
数少ない生き残りも戦後20年で死去している人もいたわけで、
取材は大変だったろう。

製造中は全長263m、全幅38.9mの巨大な姿を、
シュロで編んだむしろのようなもので隠していたという。

このノートを読んで少し知識を得たので、
いよいよ「戦艦武蔵」に取り掛かろうと思う。

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「関東大震災」吉村昭

2024年06月20日 21時53分59秒 | 本 / BOOKS

1973年に刊行された吉村昭の記録史。

1923年(大正12年)9月1日に関東を襲った地震の記録。
気づいてみたら昨年が100年目だったんだね。
地震100年説などあり100年に1回大地震が起きると言われていたが、
元旦の石川県の地震は怖かった。

関東大震災は震度6~7だったと言われており、
東京、神奈川を中心に記録では10万人を超える人が亡くなっている。

お昼時の11時58分に起きた事もあり火災が広がり、
人々が家財道具を持って逃げた事も災いし、
燃え移った火により死者が増えた。

地震、火を消せ!! である。

私の祖父母は当時東京にいたそうだが、
玄関や窓が開かなくなり逃げるのに苦労したと言う事から、
戸を開けて逃げ道を確保するようにと言っていた。

地震で被災した人々が空き地や公園などに逃げ、
ほっとしたのもつかの間、火災によって逃げ場を失い、
死んでいく様も想像以上の描かれ方だった。

民度が高いと言われている日本人でも火事場泥棒のような略奪者がいたり、
物資の不足に状して暴利を貪る輩もいたり、
(原作のまま書くが)朝鮮人が襲ってくると言うデマが流れ、
罪もない朝鮮人を虐殺したり、朝鮮人ではない日本人を殺してしまったり、
社会主義者を殺害したり・・・。
地震で混乱する中で起きた事件をも克明に記録している。

また地震学の第一人者でノーベル賞候補であった東京大学の大森房吉教授と
今村明恒助教授の意見の対立にも焦点をあてている。

このように単に記録史と言う一方向だけではなく、
いろいろな面から関東大震災を見て、手抜かりのない物となっている。

一番残念だったのは、日本がロシアからの援助を断った事だった。
被災した日本に各国が支援の手を差し伸べた。ところが・・・
社会主義者に対して否定的だった日本は断ったのだった。
受け入れれば国民の反感を買い混乱を招くからという理由である。

100年前だから、そういう時代だったのだろうけど、
親切心を素直に受け入れられなかった事は悲しい。

吉村昭がボクシングを題材にした小説を書いている事を知ったおかげで、
このような記録史を読む事にもなったのだが、
最初に読んだ「破獄」次の「漂流」に比べて悲惨なので、
読むスピードが上がらなかった・・・。
でもまた知らない事が知れたので良かったと思う。

 

 

 

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大塚のカフェ「ノースコーヒー」

2024年06月19日 21時28分59秒 | 日本食べ歩き / JAPANESE RESTAURANT

大塚の未開の店の探索である。
ふと気づいたら、郵便局の角に新しい店が開店していた。
岩手南部鉄瓶コーヒーって書いてある。

岩手県と言えば南部鉄器である。
南部せんべいとか、他にもいろいろあるけど。

岩手県産の材料を使ったり岩手のイイモノを発信していく店らしい。
ちなみに店主は元Jリーガーだって。

           

住 所:東京都豊島区北大塚2-26-7 レートビル103 
電 話:さて?
最寄駅:JR山手線等 大塚駅

<食したメニュー>

チョコレートの入ったパン(いくらか失念)、鉄瓶コーヒー 500円。

<店内の雰囲気>

テーブル2人×5、3人×1席。全13席。
店頭でパンやお菓子も買える。

<感想と評価>

セットメニューがなかったので。

コーヒーソムリエでもなければコーヒーの味の違いは判らない。
あ、私だけ?? 判るとすれば美味しいか、不味いか。
それって、好きか、嫌いかって事かな。
南部鉄瓶で入れるとどう違うんだろ。
何種類か飲み比べればわかるんだろうけど。

ランチやディナーはパンとお菓子以外のメニューもあるみたい。

 評価は〇(たぶん再訪しないと思う。)
      (3段階、◎:おすすめ ○:まぁまぁ ●:う~ん)

■お断り■
 味に関しては、間違いなく主観でしかありません。(100%!)
 同意見・反対意見など、あると思いますが、
 あくまでも、私の味覚に合うかどうかなので、
 気にしないでください。あしからず。

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虎ノ門のカフェ「沢村」

2024年06月18日 21時23分59秒 | 日本食べ歩き / JAPANESE RESTAURANT

というわけで虎ノ門ヒルズ。麻布台ヒルズと比べると、
レストランもカフェも手ごろな値段だった。
この店は軽井沢にあるベーカリー・レストラン。

私は知らなかったけれど新丸ビルにもあるらしい。

           

住 所:東京都港区虎ノ門1-23-3、
     虎ノ門ヒルズ森タワー2F
電 話:03-6206-7477
最寄駅:東京メトロ日比谷線 虎ノ門ヒルズ駅

<食したメニュー>

ティラミス 700円、ブレンドコーヒー 500円。

<店内の雰囲気>

室内なんだけど、半分テラス席のような開放感。
階段で3階みたいになってて、一番上の部分がレストラン、
中央がバーとカフェ、下がベーカリー。

パンは高い感じがするんだけど。
カフェはこの雰囲気ならまぁ安い方かな。

<感想と評価>

 

コーヒーを注文したんだけどポットが・・・。
あれっ? もしかすると2杯飲めるのかな。

あっ、やっぱり2杯飲めたよ。お得。
紅茶は見た事あるけど、コーヒーは日本では珍しいよね。

ティラミスはイタリア語で「私を引っ張り上げて!」(元気づけての意味)。
元気づけられはしなかったが・・・・笑。優しい味だった。

 評価は◎(コーヒー2杯は得した気分。)
      (3段階、◎:おすすめ ○:まぁまぁ ●:う~ん)

■お断り■
 味に関しては、間違いなく主観でしかありません。(100%!)
 同意見・反対意見など、あると思いますが、
 あくまでも、私の味覚に合うかどうかなので、
 気にしないでください。あしからず。

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虎ノ門のレストラン「東京厨房」

2024年06月17日 21時38分59秒 | 日本食べ歩き / JAPANESE RESTAURANT

麻布台ヒルズから虎ノ門ヒルズへ向かって歩いた。
お昼時でどこも入れなかったので入れそうな店を捜していた。
「懐かしい下町の洋食」と言う看板があり、古めかしい感じもする。

ちょっと待っていれば入れると言う事だったので、
メニューを選びながら店頭で待った。

           

住 所:東京都港区虎ノ門3-3-3
電 話:03-3433-0601
最寄駅:東京メトロ日比谷線 虎ノ門ヒルズ駅

<食したメニュー>

限定20食のマスタードバーグとBIGソーセージ 1100円、
チューハイ 500円。

<店内の雰囲気>

古めかしい看板やらある。BGMはなんと・・・
(知らない人も多いと思うけど。)
金井克子の他人の関係(笑)。1973年発売。
どこまで古いんだ。

工事関係の人の姿も多いみたいな・・・。
今時まだあるんだね、みたいな感じ。

テーブル40席。

<感想と評価>

 

限定に弱い私は1日限定20食のマスタードハンバーグとソーセージ。
濃い味付けのハンバーグをモヤシ炒めが和らげてくれる。
ガッツリ系のランチもたまにはいいじゃん。

 評価は◎(満足。)
      (3段階、◎:おすすめ ○:まぁまぁ ●:う~ん)

■お断り■
 味に関しては、間違いなく主観でしかありません。(100%!)
 同意見・反対意見など、あると思いますが、
 あくまでも、私の味覚に合うかどうかなので、
 気にしないでください。あしからず。

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キッチンカー「週一魚」

2024年06月16日 21時22分59秒 | 日本食べ歩き / JAPANESE RESTAURANT

キッチンカーで一番多いのはカレー屋である。
それ以外でも肉料理がほとんどである。
アジフライの店も来なくなったし・・・・
と思っていたら魚の文字が見えた。

袋が有料(気持ち分のお金を入れる店もある)のところが多い中、
なんと無料である。しかもオリジナルデザインだし。
それどころか容器にもスタンプが押してあった。

鯖好きな私は鯖の文字に惹かれて買ったみた。

鯖のタンドリー焼き、である。バーナーであぶってたけど。
ソースはカレーの他に日替わりのおろしポン酢があったので、
まずはおろしポン酢にしてみた。900円。
みかけ和風である、付け合わせも。ごはんは麦飯が混ぜてあるが、
健康のためもあるだろうけれどコスト面もあるだろう。
見て判るとおり・・・量が少ない。小食なひとならいいけど。

そしてこれがカレーソース。付け合わせは和風で、
全体的に量が少ない。

四ツ谷を歩いていたら店舗を見かけたが、
キッコーマンが試験的にやってるみたい。

いい機会だから言っておく。
タンドリーはヒンディー語である。そこからイメージすると、
インド料理とかカレーであろう。

タンドリーの意味はタンドール窯で焼いた料理と言う意味だ。
身近なところではタンドリーチキンがある。
タンドール窯で焼いていないのにも関わらず、
タンドリー〇〇と言うのは間違いだ!

このキッチンカーだけでなく、世の中では意味も解らず、
タンドリー〇〇と名付けられた料理を良く見かけるが、
ファミレスやファーストフード、コンビニとかでもね、
私はそのような料理はタンドリー〇〇とは認めない。

この辺にしておこう・・・・。

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