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心に宿る情景 虚実の“痕跡”、記憶に変える 古川日出男〈朝日新聞文芸時評25年1月〉

絵・黒田潔

 ある映画をよかったと感じて誰かに勧める時にどのように伝えるか?もっぱら物語を語ることになるだろう。ストーリーを要約して設定を説くだろう。が、それが本当に「よかった」点なのか? あなたの心中に強烈に残っているのは、その映画の長くはない一場面、ある俳優の表情や佇(たたず)まいだったりしないか? けれども私たちはそれを他者に「よかった」と的確に伝えることができない。だからストーリーの紹介に逃げるのだ、とは言えやしないか? これは本にも当てはまる。何かを読み進めさせる力は確かに物語に宿る。しかし読後に私たちの“心”に宿るのは、その作品内部の情景だ。そんなふうに宿った情景を、自分ならば「本から与えられた記憶」と呼ぶだろう。

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 小川洋子の長篇(ちょうへん)「サイレントシンガー」(「文学界」二月号)にはそうした記憶があった。森の斜面に湧き水の池がある。その池沿いに人形たちの並ぶ公園がある。人形たちは手作りで、だいたい等身大だと言える。そこから少し離れた平地には特別な場所があって、人形たちは五人、手をつないで輪になっている。その輪の内側で、かつて二頭の雄の羊が死んだ。その二頭は角を無惨(むざん)に絡ませ合って、二頭なのに一頭になって死んだのだ。一頭の胴体など、ちぎれてしまい、池のほとりに転がって、寄せる水に洗われているのだ。そして骨になった……。読後この情景が自分の脳裡(のうり)から離れない。それは読者である自分の「記憶」になってしまったのだ、と説明できる。物語の痕跡を読者の心中に残す小説、それはひと言、すばらしい小説だと言える。しかもこの「サイレントシンガー」は無言は歌なのである、歌になりうるのだとも教えている。

 結局、文学の問題とは言葉がどのように虚構や現実の出来事の“痕跡”に結びつきうるかだ。言い換えれば、読後には早晩忘れられる「面白さ」とはさほど関係がない。そして読者の記憶になるような情景を与える書物であれば、これは自分などが言うまでもないが、ジャンルを問わず文学である。石沢麻依の『かりそめの星巡り』(講談社)はエッセイ集と謳(うた)われている。が、むしろ日記文学として読みたい。著者はドイツ中東部の都市イェーナに暮らす。しかし出自と関係する宮城県の、仙台の記憶がドイツ各地と連結する。たとえばドレスデンについての言及。この都市は第二次大戦で徹底的に破壊された。けれどもその破壊の“痕跡”が街に残るからこそ戦争の物語はつねに呼び戻されるのだと語りながら、著者は東日本大震災の記憶へと帰る。その真っ当さというか複眼性こそが虚実双方の出来事の“痕跡”を読み手の記憶に変える文学の働きだ。

 そして「イェーナには、ガラスの街としての歴史がある」と著者が新たな郷里について語り出す時、その記述に触れる自分という読者(福島県出身の作家)はポール・オースターに関する記憶へ帰る。昨年永眠したこの作家の小説第一作は『ガラスの街』という邦題で、だが自分が最初に読んだ時には違う邦題、旧(ふる)い訳文だった。そちらで二度読み、その後に新訳が雑誌に一挙掲載されて読み、本になってから再度読んだ。この、四度読んだのだけれども初めは違う書名を持っていた『ガラスの街』の記憶に絡められる。と同時に自分が東日本大震災の発災直後に宮沢賢治の文章とオースターの自伝的散文『孤独の発明』以外は本が読めなかったという事実に立ち返る。『孤独の発明』では語り手が父親の謎を追うが、父親とその父(祖父)とは、ひと言“父祖”と言い換えられる。自分がどこから生まれてきたのか……との探求。しかも『孤独の発明』という本には巻頭に収められた写真があって、そこでは父親がトリック撮影によって「五人に増えている」のだ。

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 日本でのオースター最新作『4321』(柴田元幸訳、新潮社)はまさに情景の多重化=多層化を物語レベルで展開した巨篇だ。ストーリーを要約することが作品にとって不都合な小説、というのが本書で、だからこそ自分は「今は『ガラスの街』との書名で知られる小説を四度読んでいる」とこの原稿に書き込んだ。本作は最初から四層になった読書体験を与えるのだ。それ以上のことを自分は言わないし、言えない。だが「ユダヤ人のアメリカ人」誕生挿話がその四層の全部を決定していて、なのに人生はランダムになるとの見通しは、オースターが自身の人生を、出自を見据えつづけてきた結果だとは断じられる。なんと誠実な巨篇なのか。=朝日新聞2025年1月31日掲載