『神様のカルテ』『スピノザの診察室』などで知られる、医師にして作家の夏川草介さんが、かつて医師なら誰もが知っていると言われていた忘れられた名著、A.J.クローニンの『城砦』を新たに翻訳。コロナ禍前の依頼から足かけ6年。担当編集者が復刊までの裏話を明かします。
「自分の人生に大きく影響したと感じ、今も大切にしている書籍」を、日経メディカル Onlineの医師会員に聞いたことがある( 「医師人生に影響した1冊、1位はやっぱり…」 )。1位は手塚治虫氏の『ブラック・ジャック』で、ランクインした書籍はどれも馴染みのあるものだったが、唯一、3位の『城砦』だけ、私は聞いたこともない書籍だった。ちなみに、この調査は2018年10月に実施したものだ。
『城砦』は、若き医師の半生を描いた小説だが、絶版となって久しい。そのため、日経メディカル編集部内でも知る人間はいなかった。しかし、アンケートに寄せられた『城砦』への思いは皆熱かった。半世紀ほど前までは、「知らない人はいない、ましては医師であれば誰もが知っている」とのこと。ネット上でも「西の『城砦』、東の『白い巨塔』」と評する声や、「医学部入試試験でこの書籍への感想を求められた」など、多数の逸話が語られていた。そして、アマゾンでは、古本が7000円などの高値で売買されており、いまだに根強い人気を誇っているのが分かった。
ボロボロながら高値の古本を入手し読んでみたところ、面白い。「この書籍が忘れ去られてはいけない。復刊させたい」との思いが強くなった。幸い上司(当時)の賛同を得たため、まず、翻訳者を検討した。医療が分かり、小説が書ける翻訳者、すなわち医師兼小説家であること、そして、主人公アンドルー同様、「愚直なまでに真っ直ぐ」な信念を持つ人でなければ、この書籍の良さを復活できない。医師兼小説家のリストを作り、作風なども検討した結果、「夏川草介氏以外は考えらない」が結論となった。
そして、夏川氏に連絡したのが、2019年。その際の逸話は、『城砦(上)』の夏川氏による「解説」や関連記事 「医師兼作家の夏川草介、初翻訳で絶版の名著『城砦』を復活」 に詳しいので、ぜひこちらもご一読いただきたい。
少し補足すると、夏川氏の電話での対応は、ご本人が悔やまれるようなものではなく、とても丁寧で、検討するので書籍を送るよう指示してくれた。古本と原著をお送りしたところ、丁寧な文面で「今は忙しいので難しいが、検討する」とのメールをいただいた。当時の上司は「気長に待ちましょう。老後の楽しみでもいいし」と悠揚だった。
そして、あっという間に時は流れ、新型コロナウイルス感染症が世界を襲った。コロナ禍に立ち向かう夏川氏の臨床最前線の様子を小説『臨床の砦』『レッドゾーン』(いずれも小学館)を読みながら想像し、「翻訳どころではないな」などと思っていた。ただ、『臨床の砦』の“砦”という文字が、もしかしたら『城砦』からインスピレーションを得たものではないかなどと想像していた。なお、マルクス・アウレーリウスの『自省録』を主人公が愛読しているらしき描写に出会い嬉しくなりもした。私自身、コロナ禍の頃、再度、読み直していた神谷美恵子氏による翻訳書籍だったためだ。『自省録』は神谷氏が結核のため人里離れた場所で一人療養していた頃の愛読書だった。そんな書籍を小説の中に登場させる夏川氏。やはり、『城砦』の翻訳者は彼しかいないと確信した。
そしてコロナ禍が去った、2023年。夏川氏から「お待たせして申し訳ない。時間ができたので取り組みたいが、今でも大丈夫か」との連絡を受けた。正直、こちらは諦めていた(かつ半分忘れていた……)ので、誠実な対応に驚くばかりだった。
しかも、翻訳の了承をもらったにもかかわらず、そのとき、日本語翻訳権すら取っていなかった。あわてて問い合わせても、あまりに古い書籍なので、あっちに回され、こっちに回されで、日本語翻訳権の取得を依頼すべき代理店がどこかなかなか分からなかった。
ようやく代理店が判明し翻訳権の交渉を始めたら、もう1人、翻訳権交渉をしている人がいるという。夏川氏が受けてくれたのに、「翻訳権が取れませんでした」では情けなさ過ぎるので、交渉にも力が入った。ただ、翻訳権を競った相手も『城砦』に格別な思い入れがある医師の思いを酌んで出版を計画していたと後で知った。翻訳権を得たからには、素晴らしい翻訳書を出すことで報いたいという思いを強くした。
なんとか翻訳権を獲得し、夏川氏に翻訳作業を進めていただいた。夏川氏に私から依頼したのは、中高生にも読みやすい翻訳を意識してほしいという点くらいだった。そして、夏川氏から原稿が届いて、ある重大なことに気付いた。そもそも弊社は滅多に小説など扱わず、私は、小説はおろか縦書きの書籍を担当したことすらなかったのだ。小説の編集者としてはまったくの素人。しかも、別の仕事に翻弄されており、空いた時間に作業するというありさま。あまりの頼りなさに、いろいろな方からお叱りも受けた。また、いろいろあって発行日を一度延期し、関係者に嫌な顔もされた。ただ、私の立場を理解し、慰め応援してくれる人もいた。
何よりも、夏川先生からすると、さぞかし頼りない編集者だったと思う。にもかかわらず、たいへん丁寧に接していただき、夏川先生のお人柄にいつも救われて、なんとか発行することができた。
夏川流、新訳『城砦』は、既訳の『城砦』に親しんだ方の期待を裏切らず、若い世代の心も射止める作品だと確信している。また、私の調べた範囲だが、現在75歳以上の医師のほとんどは既訳の『城砦』を知っている。ご両親などご家族へのプレゼントにも最適かもしれない(読みやすいよう本文の文字を極力大きくしている)。
[日経メディカルONLINE 2024年8月16日付の記事を転載]