円安はなぜ長引いているのか。どこから外貨が流出しているのか。デジタル関連分野やコンサルティング分野、そして研究開発分野のように、これまで為替市場との関連がさほど注目されていなかった分野から外貨が流出する構造が根付き始めている。今回は研究開発分野に焦点を当てて解説する。『弱い円の正体 仮面の黒字国・日本』(唐鎌大輔著/日経プレミアシリーズ)から抜粋・再構成。
日本に残らなかった研究開発
筆者が「新時代の赤字」と呼ぶ、その他サービス収支の赤字を構成する項目で議論しておきたい論点がある。それは「研究開発サービス」の赤字だ。この項目については日本銀行の分類でモノ関連収支に含まれてしまい、その動きが見えづらくなっているので、あえて別建てで議論することにした。「研究開発サービス」は「通信・コンピューター・情報サービス」や「専門・経営コンサルティングサービス」といった項目に匹敵するほどの赤字を記録している。日銀レビューでもあまり話題となっていなかったので、ここで別途議論を加えておきたい。
諸外国対比で研究者数が伸びていないが、直感的にデジタル関連収支の赤字拡大は研究開発分野で他国に劣後した結果という可能性は推察されるだろう。統計上、研究開発サービスは「研究開発(基礎研究、応用研究、新製品開発等)に係るサービス取引のほか、研究開発の成果である産業財産権(特許権、実用新案権、意匠権)の売買を計上」と定義される。その中身を分解することはできないが、おそらく大きな部分は産業財産権を売買した結果と考えられる。ちなみに「知的財産権等使用料」の項目でも産業財産権というフレーズが出てきたが、同項目では権利の「売買」ではなく「使用許諾」にかかる取引を計上している。両者は取引に伴う権利の扱い方に違いがある。
図表に示すように、2014年以降、受け取りがそれまでの4000億円程度から8000億円程度に増える一方、支払いもそれまでの9000億円程度から2兆円前後へ増えており、研究開発サービス収支の赤字は著しく広がっている。
この理由は1つではないだろうが、日本企業が国内から海外へ研究開発拠点をシフトする動きや、日本企業が海外の企業や大学などへ研究開発を外注する動きの影響が推測される。経済産業省の「海外事業活動基本調査」を見ても、海外での研究開発活動にコストをかけようとする潮流は確認できる。
「モノを作って売るといった経済活動は海外に移るが、研究開発のような付加価値の高い経済活動は日本に残る(だから心配ない)」というかつて日本で展開されていた論調は残念ながら実現しなかったと言わざるを得ない。
「思考停止(brain freeze)」と形容された日本
研究開発サービス分野において外貨流出が続く事実については、2023年5月、英国の経済専門誌「The Economist」が報じた“It’s not just a fiscal fiasco : greying economies also innovate less”との記事が注目されるものであった。記事では高齢化した経済では財政的な負担が増すばかりか、革新的な技術が生まれにくくなるという事実が様々な角度から議論されている。その議論の対象は日本に限らず人口減少傾向にある世界全体であり、今後は革新的技術が生まれないことで世界経済の生産性が低下し、成長率も押し下げられるという主張が記事を通じて展開されていた。
しかし、10ページに及ぶ特集記事の中で日本だけに言及した箇所もあった。記事の最初の方では日本がイタリアと共に人口維持が難しくなる出生率2.1以下の国として登場し、岸田文雄首相が2023年1月23日の衆議院本会議における施政方針演説において述べた「社会機能を維持できるかどうかの瀬戸際」とのフレーズも引用されている。この記事の核心は「出生率が低下すること(≒人口動態が高齢化すること)でイノベーションが起こらなくなる」と指摘している部分であり、今後の世界経済がこの現象に直面する可能性があること、既に世界の一部ではそれが始まっていることが先行研究などと共に紹介されている。
日本にとってショッキングだったのは、その「世界の一部」の典型例として日本が紹介されていたことだ。記事中では心理学の概念として、若い世代は「fluid intelligence(流動性知能)」を持ち問題解決や新たなアイデアの創造に能力を生かす一方、年老いた世代は「crystallised intelligence(結晶性知能)」を持ち、時間と共に蓄積された物事の仕組みに関する知識を生かすという論点が紹介されている。
いずれの知性も経済活動上、重要ではあるが、イノベーションを期待するにあたっては流動性知能が重要であり、高齢化した経済ほど、この点が弱くなると指摘されている。実際、記事ではイノベーションと年齢の関係についての研究結果も紹介され、研究者の特許出願率は30代後半から40代前半でピークに達し、40代から50代にかけて緩やかに低下する傾向にあるという。
経済学における生産関数の考え方に則して言えば、イノベーションを通じて全要素生産性(生産性)が改善するからこそ、労働力や資本の投入が一定でも高い成長率を実現できる。ということは、少子高齢化が課題となる社会こそイノベーションによる生産性向上が必要になる。しかし、そうであるにもかかわらず、少子高齢化自体がイノベーション停滞の元凶だというのであれば、日本にとってあまりにも救いのない議論ではないか。
図表は日本がかつて主導的役割を果たしていた分野でことごとく失墜している様子を示している。
「brain freeze」は「思考停止」と訳されることも多い。日本の政治・経済・社会の停滞が議論される際、頻繁に使われるフレーズである。記事ではロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の経済動向センター(CEP)の分析としてゲノム編集技術やブロックチェーン技術に対する日本からの貢献がほぼゼロになったことや、水素貯蔵や自動運転、コンピュータヴィジョン(画像解析のためにコンピューターに学習させる人工知能のこと)など、過去に日本が主導的な役割を果たしていた分野でも現在は米国や中国の後塵(こうじん)を拝する状況にあることが指摘されている。さらに恐ろしい事実として、記事では少子高齢化社会に生きる若者はそうではない社会に生きる若者と比べて起業する割合が低くなるという事実まで紹介されている。
こうした状況を踏まえる限り、岸田政権が折に触れてスタートアップ分野のテコ入れを図ろうとしている姿勢は適切な方向に見えて、そもそも日本の人口動態では難しい道を歩もうとしているという見方もできてしまう。
もちろん、岸田政権では「異次元の少子化対策」と銘打った政策パッケージも併走しているが、記事では子供1人に高額な助成金(1人目8300ドル、2人目1万3000ドル)を支給するシンガポールの出生率が1.0にとどまっている事実を例に、「出生率低下を逆転させるために政府はほとんど無力」と断じている。諸研究の結果は幅をもって受けとめるべきだが、これらの主張は日本にとって絶望的な話に聞こえる。
「思考停止」によるサービス収支赤字拡大
こうした「思考停止(brain freeze)」と揶揄(やゆ)される状況は「研究開発サービス」の赤字が拡大している事実と整合的であり、ひいてはサービス収支赤字が拡大している事実とも整合的に感じられる。まっとうに考えれば、「研究開発サービス」で劣後する国がデジタル関連収支で黒字を積み上げるのは難しい。だとすれば、「The Economist」の記事を踏まえると、2023年時点で▲5兆円を優に突破するデジタル関連収支赤字の背景も、結局は少子高齢化という人口動態問題に帰着するという読み方もできる。執拗な円安地合いの背景も、様々な経済・社会課題と同様、結局、人口動態要因に行き着いてしまうのか。
いずれにせよ、デジタル関連分野やコンサルティング分野、そして研究開発分野のように、これまで為替市場との関連がさほど注目されていなかった分野から外貨が流出する構造が根付き始めているのが近年の日本の対外経済部門の実情である。円相場の現状や展望を検討する上では、こうした構造変化を踏まえる必要性が年々増していると筆者は考えている。
唐鎌大輔著/日本経済新聞出版/1100円(税込み)