東京都で今、「英語スピーキングテスト騒動」が起きているのを、ご存じだろうか。来年(2023年)、都立高校入試に英語スピーキングテストが導入される予定だ。計画を進めているのは東京都教育委員会(以下、都教委)とベネッセコーポレーション(以下、ベネッセ)。これに異論反論が殺到、都議会も紛糾している。
認知科学や言語心理を研究する立場から 「致命的な愚策」と断じるのは、慶應義塾大学環境情報学部の今井むつみ教授。「スピーキングを入試に導入しさえすれば国際人が育つというのはあまりに短絡的。受験生、保護者、都民、あらゆる関係者にとってコストは高く、犠牲は大きく、教育的なゲインはほとんど期待できない」。
今井教授は、ベストセラーとなった『英語独習法』(2020年刊行、岩波新書)の著者。母語習得の認知的なプロセスを長年研究し、世界的に著名な認知科学者だ。今年 6月に刊行された『算数文章題が解けない子どもたち』(共著、岩波書店)は、「順位付けのためではなく、学びにつながるテストは、どう設計すべきか」を説き、話題を呼んでいる。
都立高校入試への導入が予定されているテストは、「ESAT-J(イーサット・ジェイ)」。ベネッセが都教委と協定を締結し、都教委の監修の下で作成した。受験者は、タブレットに音声を吹き込む形で設問に回答し、その録音データをフィリピンで採点するという。来春、都立高校への入学を希望する中学校3年生は、原則として(*)今年(2022年)11月27日に実施される「ESAT-J」を受けなければならない。その点数が来年の都立入試の試験結果に加算される。これを「愚策」と言い切るのは、なぜか。今井教授が科学的に解説する。
(構成:黒坂真由子)
都立高校入試にスピーキングテストを加える動きが進んでいます。これに反対の声が上がり、都議会で議論が紛糾し、さまざまな報道がなされています。このようななか、私が気になっているのは次のような意見が散見されることです。
「スピーキングテストを入試に加えれば、子どもたちのスピーキング力がアップし、国際人になれる」
なるほど、そうなるなら、素晴らしいことです。しかし、本当にそうなるのでしょうか。
今回のスピーキングテストが入試に加われば、子どもたちも必死で練習して、 「タブレットに向かってミスなく話せる」ようになるかもしれません。けれど、それが国際人になるためのスピーキング能力でしょうか?
私は長年、赤ちゃんや幼児、大人を対象とした実験などを通じて、「人は母語や第2言語をどのように習得するか」を研究しています。また、「学習者の理解のつまずきを見つける」ためのテスト開発にも取り組んできました。広島県教育委員会の依頼を受けて私たちが開発した 「たつじんテスト」は、現在、多くの小学校で活用されています。
「言語の習得」と 「学習者の理解プロセス」を研究し、 「よく学ぶためのテストの設計」に携わってきた者として、お話しさせてください。
まずは少し、認知科学の話にお付き合いください。
第2言語の習得とは、「スキーマの獲得」である
人は皆、「知識の枠組み」を持っています。この枠組みは、認知心理学の概念では「スキーマ」と呼ばれます。スキーマは、私たちが言葉を操る際の「システム」と考えるといいかもしれません。
言語を使うとき、私たちはスキーマにアクセスしますが、アクセスしていることには気がつきません。例えばパソコンで作業をしているとき、画面上の作業の裏でさまざまなシステムが稼働しています。しかし私たちがそれを意識することはありません。言語のスキーマも同じです。私たちが日本語を使うときにそれを意識することはありません。無意識のうちに、正しい日本語が使えるように、私たちの脳のバックヤードで働いているシステムが、スキーマです。
ただ私たちもたまに、このスキーマの存在を感じることがあります。例えば、外国の人が日本語を話していて、ちょっと不自然な表現をしたとき、私たちはすぐに気がつきます。「背が大きい」と言われれば、「背が高い」の間違いだとすぐにわかります。「それは間違いだ」と瞬間的にわかるのは、日本語のスキーマが働いているからです。
言語の習得というのは、極論すればこのスキーマをつくることです。
赤ちゃんは時間をかけて、母語のスキーマをつくります。日本語を母語とする子は、日本語のスキーマを、そして英語を母語とする子は英語のスキーマをつくり上げます。ちなみにバイリンガルの子は2つの言語のスキーマを同時並行で発達させなければならないために、母語習得の負荷が重くなり、言葉や思考の発達が、比較的ゆっくりとしたものになりやすいことが知られています。
では、母語ではない言語、第2言語を習得する場合は、どうでしょうか。母語のスキーマを参照しながら、第2言語のスキーマをつくることになります。簡単ではありませんが、コツがあります。参考になるのは、フィンランドの語学教育です。私は、今まで多くの国で英語を第2言語とする人たちと話してきましたが、「職業や学歴などに関係なく、幅広い国民が、英語を当たり前に話せる」という意味で、圧倒的に英語力が高いのは、フィンランドだと思います。そんなフィンランドの英語教育は、「英語のスキーマをつくる」ことに重点が置かれ、認知科学の観点から考えても非常に合理的です。
最初にポイントをまとめておきましょう。皆さんの英語学習にも参考になると思います。
- 語彙の学習を重視する。
- 同じ単語をさまざまな文脈で使う練習をする。
- ライティングに力を入れる。
順を追って、説明していきます。
なぜ、語彙の学習に力を入れるべきなのか?
大切なのは、語彙の学習に力を入れることです。それは単に、単語をたくさん暗記する、ということではありません。むしろ「ただ暗記しても、意味がない」ということを知ることが大事です。
例えば、「wear」という動詞。日本では、一般に「着る」と訳されます。
日本語の「着る」は、「上着を着る」というように、上衣を着用するときに使いますが、英語ではズボンや靴、ネックレス、メガネを着用するときにも、「wear」を使います。
また、「制服を着なさい!」と言いたいときには、「wear」は使えません。「wear」は、「着ている」という「状態」を表す単語で、「着る」という「動作」を表すときに使われるのは、例えば「put on」です。
ですから、「すぐに制服を着なさい!」を英訳するならば、「Put your uniform on now!」であり、「Wear your uniform now!」とは言いません。
英語が母語の話者であれば、この2つの単語を取り違えることは、絶対にありません。けれど、日本語を母語とする人は、大学生でも当たり前のように、「Wear your uniform!」と、誤った英文をつくってしまいます。それは日本語のスキーマは、「着る」を、状態(wear)と動作(put on)で区別していないからです。
このように単語ひとつをとっても、英語のスキーマを獲得しなければ、正しく運用できません。
同じ単語を、さまざまな文脈のなかで使う練習をする
英語のスキーマを手に入れるためには何をしたらいいのでしょうか。
同じ単語をさまざまな文脈で使う練習をすることが効果的です。
例えば、「wear」という動詞を、「pants」「shoes」「hat」などの名詞と組み合わせて文章を作る練習をする。同時に、「put on」を、動作が伴う文脈のなかで使う練習をする。そうすれば、上衣以外のものにも身に着けている状態については「wear」を使い、動作のときには「put on」を使うことが自然と理解できるように、英語のスキーマが育ちます。
つまり、単語を習ったら、その単語を「さまざまな文脈のなかで使う練習をする」ということです。このような練習を繰り返せば、「Wear your uniform! 」と聞いたとき、すぐに「おかしい」と感じられるようになります。
なぜ、スピーキングよりライティングなのか?
英語は覚えることより使う練習をすること、すなわち「アウトプットの練習」を繰り返すことが大事です。言語のアウトプットには、スピーキングとライティングがありますが、小学校高学年以上の初学者は、スピーキングよりライティングに注力するほうがいいでしょう。
なぜなら、スピーキングはリアルタイムで進行するので、時間を自分でコントロールすることができません。録音をしてそれを聞き直すのはよいですが、とても手間がかかります。また、タイムプレッシャーから、わかっていることでも思わず間違えてしまうこともよくあります。ライティングであれば、時間を自分でコントロールできますし、何度でも見直すことができます。先生に直してもらうことも簡単にできます。ですから、自分がどこで何を間違えたのかに気づきやすく、学びを深めやすいのです。
このようにして生きた語彙の知識が育ち、それらを使ってある程度自由に英作文ができるようになれば、スピーキング力は飛躍的に伸びていきます。それまではライティングでアウトプットの練習をたくさんするほうが合理的です。
「帰国生」の英語力は、本当に高いのか?
「なんだか面倒くさそう……」
そう思われた方もいるかもしれません。そうなのです。第2言語のスキーマを手に入れることは、そんなに簡単ではありません。
それは、親の仕事のために幼少期などを英語圏で暮らした、いわゆる「帰国生」でも同じです。母語が日本語であるかぎり、意識的に英語を学ばなければ、語彙や文法を正しく運用できるようにはならず、英語のスキーマは育ちません。逆に日本でしか英語を学んだことがなくても、母語との比較を通じて、語彙や文法の運用能力を高めていけば、英語のスキーマを獲得することは可能です。
私の周りには、前者の学生も、後者の学生もいます。前者の学生は、日常会話レベルの英語であれば流暢(りゅうちょう)に話します。しかし、本当の意味で英語力が高いのは、もちろん後者です。
そして、スピーキングテストを入試に使うのであれば、後者のタイプの受験生が、正当に評価されねばなりません。
しかし、そうはならないのではないかということを、私は危惧しています。
入学試験は、必要悪である
入試において、何より大事なのは、「採点の公平性と正確性」です。
テストには2つの種類があります。
1つは、「指導のためのテスト」です。生徒が「何をわかっていて、何をわかっていないのか」「どこでつまずいているのか」を知るためのテストです。指導に生かすのが目的ですから、生徒を得点のみで評価し、全体のなかで位置づける必要はありません。ですから、採点の公平性や正確性は問題になりません。点数をつける必要すらないこともあります。私が広島県教育委員会からの依頼を受けて小学生向けに開発した「たつじんテスト」は、「指導のためのテスト」です。
テストをして子どもの解答を先生が見れば、得点をつけなくても、おのずと子どもがどういう誤った概念を持っているかが見えてくるはずです。得点をつけ、子どもを順位づけるより、そのほうがずっと大事なのです。
もう1つが、「選抜のためのテスト」です。受験生を得点順に並べて、上から一定数をすくいあげるためのテストです。本来の教育の目的からすると望ましくありません。しかし、定員が存在し、定員を超える人数を受け入れると教育の質が著しく損なわれるときに、仕方なく実施します。いわば必要悪です。
必要悪である「選抜のためのテスト」では、採点の公平性や正確性が、絶対的に求められます。
そしてスピーキングテストは、公平、正確に採点するのが、ほぼ不可能なテストです。
フィギュアスケートとスピーキングの共通点
フィギュアスケートの採点のようなものです。絶対の「正解」がなく、何通りもの表現が可能です。ほぼ無限に存在する解答を、誰に対しても同じ基準で、ぶれなく、公平かつ正確に採点しなければなりません。これは人間にとって至難の業です。
例えば、オリンピックのフィギュアスケートのように、同一メンバーの採点チームがすべての受験生を評価するのであれば、まだいいでしょう(それでも、オリンピックでの採点に批判は多々ありますが)。しかし、都立入試の受験生は約8万人。これだけの人数のスピーキングを短期間で採点するとなると、「オリンピック方式」は採用できません。そうなると、さまざまな採点者が、さまざまな受験生を採点することになります。ぶれが生じやすくなり、誰に採点されたかで、受験生の明暗が分かれかねません。
このような採点の公平性、正確性に対する当然の疑問に対し、都教委が発表している資料のなかに、私は納得できる答えを見つけられませんでした。生徒たちがタブレットに吹き込んだ音声を、その後、誰がどこで、どのように採点するのかという、重要なことがほとんど説明されていません。
テストの内容の適切さはもとより、採点の公平性、正確性が担保されていないという意味でも、今回のスピーキングテストには、おおいに問題があると考えます。
得点に、経済格差が反映される懸念が
もう1点、指摘しておきたい問題があります。
英語スピーキングテストにおいては、一般に「発音がいい子」が高く評価されやすい傾向が否めないと思います。
もちろん、スピーキングテストの採点基準は、発音だけでなく、語彙や文法、論理構成も含まれます。今回、東京都が活用を予定している「ESAT-J」も、公開されている資料によれば、そうなっています。しかし、スピーキングテストは、採点者にスピーディーな判断を求めます。耳から入った文章について、語彙や文法、論理構成の適否など複数の基準を適切に重みづけて、瞬時にぶれなく評価することは、プロの採点者であっても非常に難しいものです。一方、発音がネイティブに近いかどうかは、聞けば直感的にわかります。そのため、採点すべき受験生が多く、採点者の負荷が増せば増すほど、「発音」の比重が高くなると考えられます。
そうなると、幼少期を英語圏で過ごした帰国生や、幼少時から英会話スクールに通った子どもが有利となります。そしてその多くは、平均的な家庭よりも経済的に余裕がある家庭の子どもです。
これはデータで証明されたうえで述べているわけではありません。しかし、認知科学の知見に基づき、人間の情報処理や判断の特性を考慮すれば、英語スピーキングテストの採点において「発音や流暢性が文法の正確さや単語の適切さよりも比重が高くなるのではないか」というのは、ごく自然な懸念です。ですからテスト施行者である都教委とベネッセには、その懸念を払拭できるだけのデータを提供する責任があります。すなわち、十分な人数の採点者のサンプルを用いて「発音の良しあしや流暢性は得点に影響しない」というデータをテスト施行者が提供する必要があるのです。
そうでなくても、経済格差が学力格差につながりやすいのが、今の日本社会です。公立高校の入試結果に、経済格差が反映されやすくなるという意味においても、都立高校入試に「ESAT-J」を導入することは、適切ではないと言わざるをえません。
そもそも本当の「国際人」とは、どのような人なのでしょうか。
国際化とは、「自分と異なるスキーマ」を知ること
ネイティブのような発音で英語を流暢に話すことに憧れる人は多いと思います。けれど、社会に出て英語を使うときに、ネイティブ並みの発音や流暢さは、さほど重要ではありません。国際的な学会において、英語の発音で発表に対する評価が変わることはありませんし、それはビジネスや外交の場面でも同様でしょう。世界各国の人たちが、それぞれの「お国なまりの英語」でコミュニケーションを交わす今日、何よりも大事なのは、英語を使って話す内容と論理性。次いで語彙や文法の適切な運用でしょう。
第2言語を学ぶ目的は、中身の乏しい内容を流暢に話せるようになることではありません。自分の母語のスキーマが規定する世界が「世界のすべてではない」と知り、他者、他文化の人の考えを考慮しながら自分の主張を論理的に、的確に伝えることにあると思います。それを理解する人こそが、国際人ではないでしょうか。外国語を学ぶということは、新たな「思考の枠組み」を、手に入れることでもあります。この視点が都教委の「ESAT-J」導入の決定には、まったく欠落しています。
タブレットに話しかけて、成功体験が得られるか?
都立高校入試にスピーキングテストを導入する意義、理由について、東京都の浜佳葉子教育長は、東京新聞のインタビューに「文法通りでなくても通じた、という成功体験や実感を持ってほしい」と語っています(詳細は、こちら)。しかし、「ESAT-J」においては、「文法などのミス」はただ減点されるだけです。確かに、「英語を話して、通じた」という成功体験や実感を持つのはいいことですが、タブレットに向かって音声を吹き込むことが成功体験や実感につながるでしょうか。
もちろん、成功体験を得るにはスピーキング力を伸ばす必要がありますが、それすら、スピーキングテストを都立高校入試に導入する理由にはなりえません。「選抜のためのテスト」にスピーキングを導入しても、スピーキング力が伸びることは期待できません。なぜなら、選抜のためのテストには、指導のためのフィードバックが基本的にないからです。スピーキング力を本当に伸ばしたいなら、授業のなかに「指導のためのスピーキングテスト」を取り入れるほうが効果的でしょう。それは、先生たちが、子どもたちのスピーキングをつぶさに観察して、きめこまかに課題を指摘し、課題克服のための指導をする、ということです。その手間を省いて、「選抜のためのスピーキングテスト」でスピーキング力を上げようというなら、乱暴な話です。
「ESAT-J」には、多大なコストがかかります。受験生は、他教科の勉強に充てられるはずの勉強の時間を「ESAT-J」対策に使わなければならず、そのための塾代の出費をやむなしと考える保護者も多くいるでしょう。もちろん、ベネッセに支払われるテスト実施の対価は、東京都の納税者が負担するものです。コストは高く、犠牲は大きく、教育的なゲインはほとんど期待できません。都教委にもベネッセにも、「テストの意味」を一から学び直し、考え直してほしいと思います。
私は、「ESAT-J」を都立高校の入試の要件にすることは今すぐ中止すべきだと考えます。
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