2011年3月11日、東日本を未曽有の大地震が襲った。地震は津波を引き起こし、海水が街を飲み込んだ。家々を押し流し、人々から大事なものを奪い去った。その光景はいまも私たちの記憶にとどまったまま離れることがない。
大地震は津波被害に加えて、目に見えない恐怖を引き起こした。福島第1原子力発電所の全交流電源喪失である。原子炉の中を見ることはできない。放射性物質を見ることもできない。しかし、その存在は、日本を分断しかねない危機をもたらした。
この原発危機を押しとどめるのに奮闘した一人に、当時、陸上自衛隊で制服組トップの陸上幕僚長を務めていた火箱芳文氏がいる。火箱氏には「陸上自衛隊トップ、辞任覚悟の出動命令」で地震・津波対処について語ってもらった。今回は、原発事故対処に焦点を当てて振り返ってもらう。ヘリコプターを使った3号機への放水、そして地上からの放水は、報道機関が争って取り上げた。
これに加えて、火箱氏らは「鶴市作戦」と呼ぶ極秘作戦を検討、準備していた。これが実行されていれば、自衛官が“人柱”のようになっていた可能性がある。さらに、自衛隊の役割をめぐる官邸、他省庁との調整という思わぬ課題に直面した。
(聞き手:森 永輔)
インタビュー記事「陸上自衛隊トップ、辞任覚悟の出動命令」では地震・津波対処について話をしていただきました。今回は、福島第1原子力発電所で起きた事故への対処についてお伺いします。 発災当初は、自衛隊が中心になって原発に対処することになるとは思っていなかったそうですね。
火箱:そうなのです。原発が緊急事態に直面していることを明確に示す情報が入ってこず、「危険だ」という認識はありませんでした。
3月12日の15時36分に1号機で水素爆発が起きました。枝野幸男官房長官(当時。以下、肩書はすべて)は「爆発的事象があった模様です」という曖昧な表現をしており、ピンときませんでした。
また、原発に水をかけるなど原発そのものへの対処は自衛隊の本来任務ではありませんでした。自衛隊法に原子力災害派遣が任務として定められています。これは避難民の誘導や要介護者の輸送、除染所の運営など、原発の周辺で行う任務を想定しています。自衛隊には原発の構内に入る権限すらありません。
「原発が危険だ」という意識を持ったのは3月14日11時01分に3号機が水素爆発を起こしたときでした。テレビで状況を見て、「ん、何だこれは。原発が危険だ」と思いました。ここで認識を改めたのです。
そして津波と原発を相手にした自衛隊の2正面作戦が始まりました。
2正面作戦にはどのような態勢を取ったのですか。
火箱:津波対処にはJTF東北*が、原発対処には中央即応集団(CRF)が当たりました。それまで福島県では、第12旅団が津波対処に当たっており、時折、東京電力からの要請を受けて水や油を提供したりしていました。ですが、原発に本格的に対処するとなると、空中機動に優れた12旅団はあるものの、十分な装備や専門知識を持った要員がいません。
中央即応集団に指示が出たのは、3号機で水素爆発が起きた直後の11時5分でした。中央即応集団は、ゲリラや特殊部隊、特殊武器による攻撃に対処する能力を持つ部隊で、機動運用部隊(第1空挺団、第1ヘリコプター団など)や各種専門機能部隊(中央特殊武器防護隊、特殊作戦群など)を麾下(きか)に置いています。中央即応集団の中央特殊武器防護隊、第一空挺団、中央即応連隊など500人からなる体勢をつくりました。
燃料プールを干上がらせるな
原発対処は大きく①ヘリ放水と②地上放水、③鶴市作戦、そして④次なる非常時に備えた避難準備からなります。まずはヘリ放水について伺います。これは、いつから始まったのですか(関連記事「水素爆発した原発に水を放て! 飛行隊長が振り返る2日間」)。
火箱:3月15日の10時25分、北澤俊美防衛相に統合幕僚長のほか陸・海・空それぞれの自衛隊の幕僚長などが呼ばれ、「原発に水をまいてくれないか」と言われたのです。これがヘリ放水の始まりでした。「そこまで状況は深刻なのか……」。3号機の水素爆発に次いでの驚きでした。
このとき、誰も即座に反対はしませんでした。会議後の4幕長が集まった席で、陸上自衛隊でやりますと私が買って出たのです。「方法を検討します!」
当時は地上放水が可能かどうか情報が入ってきておらず、「原発に水をまくならヘリからしかない」状況でした。そして、保有しているヘリを考えると「陸上自衛隊しかない」と考えたのです。原発に一度に大量の水をまくには大型のヘリコプターが必要。陸海空の自衛隊が持つヘリの中で最も大きいのは陸上自衛隊の「CH-47(チヌーク)」です。加えて、練度の高い第1ヘリコプター団がいる。彼らは日頃から、山火事の消火に当たっています。
ただし、ヘリによる放水は命がけの任務でした。1回当たり7.5tもの水が原発にドーンとかかるのです。その圧力で原子炉に負担が生じるかもしれない。そうなれば、かえって壊すことにつながりかねません。何が起こるのか分からない。誰もやったことがないのですから。
この会議ののち、情報を集め始め、放水をどのように実施するかを考えました。今回のようなケースを自衛隊では「状況不明下の作戦」と呼びます。その第一歩は「危険見積もり」。起こり得る事態を挙げ、公算が大きい順にならべます。このとき、最も公算が大きいのは燃料プールが干上がることでした。原子炉そのものには海水の注入が始まっていましたから。燃料プールが干上がると放射性物質が拡散し、その後の対処がさらに困難になってしまいます。
次に、3号機と4号機、どちらの危険度が高いかを考えました。この時点では4号機の方が危険と判断しました。こちらに格納している燃料棒の方が新しく、拡散する放射性物質がより多いと想定されたのです。
状況不明下の作戦で考える第2は、最悪の事態に何が起きるかです。最悪は原子炉のメルトダウン、メルトスルーでした。これは何としても避けなくてはなりません。
それが幻の鶴市作戦につながるのですね。それについては後で伺います。
火箱:3つ目のステップは相手の弱点は何かを考えることです。原発事故が乗じる最大の弱点は時間でした。時がたてば被害が拡大してしまいます。なんとか早く、事態を抑え込まなければなりません。
3月16日に行った1回目のヘリ放水は放射線量が多いため中止しました。火箱さんはひどく怒ったそうですね。それは時間を重視していたからですか。
火箱:その通りです。「何をやっているんですか。時間がないじゃないですか?」と、尊敬する折木良一・統合幕僚長に不遜にも詰め寄りました。その後、折木さんが、中央即応集団(CRF)の宮島俊信司令官に「明日はやるように」と指示を下したようです。
(関連記事「平時の管理は性悪説で・有事の実行は性善説に立ち現場に任せる」も併せてお読みください。
そして翌3月17日、3号機への放水が実行されました(関連記事「水素爆発した原発に水を放て! 飛行隊長が振り返る2日間」)。効果は検証できたのですか。
火箱:すぐに検証することはできませんでした。しかし、放射線量が低下したことが後に明らかになっています。周囲に舞っていた放射性物質が水で流されたのでしょう。懸念していた燃料プールにも水が入ったので、放射性物質が拡散する勢いをそぐことができました。これが、地上からの放水に道を開きました。
米国の姿勢もこれによって変わりました。バラク・オバマ大統領(当時)は自衛隊が動いたのを見て、「素晴らしい」と菅直人首相(当時)に伝えたそうです。ここからトモダチ作戦が本格化しました(「トモダチ作戦、米兵はシャワーすら浴びなかった」参照)。
自衛隊による放水の「指揮」を拒否
ヘリ放水のかいがあって、地上からの放水も始まりました。
火箱:折木統幕長から3月16日、「地上からも放水してくれ」との指示がありました。
地上からの放水をどうすれば実行できるかを詰めている3月17日昼、北澤防衛相が「警察が(放水を)やりたいと言っている。自衛隊が指揮できるか」と尋ねてきました。これは難しい話です。自衛隊が、地方公務員である警察を指揮する権限を定めた法律はありません。
その後、地上放水は自衛隊だけでなく警察や消防も参加して、現場が混乱したそうですね。
火箱:そうなのです。なので、中央即応集団の田浦正人副司令官(当時)が「中央での調整が必要です」との意見を松下忠洋・現地対策本部長(経済産業副大臣、当時)に具申しました。すると官邸から、首相補佐官名の指示書案が届きました。「3月18日の放水活動基本方針について」というものです。
これを読んで、正直言って驚きました。原発対処の拠点になっているオフサイトセンターの「統制権」を自衛隊が持って「指揮をしろ」と書かれていたのです。先ほどお話ししたように、そんなことを可能にする法律はありません。
加えて、首相補佐官からの指示書では何の法律的根拠もありません。首相補佐官は田浦副司令官の意見を知り、気を利かせてくれたのだと思います。“お墨付き”がないと田浦副司令官は動きづらいだろう、と。しかし、この表現では自衛隊は動けません。自衛隊の指揮官が警察に「(編集部注:自衛隊より)先に警察が行け」と命じたら、いったいどうなるでしょう。
急ぎ、番匠幸一郎・防衛部長(当時)を呼んで、指示書案を修正してもらうよう調整を依頼しました。大事な点は2つ。1つは首相名の指示書にすること。もう1つは「自衛隊が全体の指揮をとる」との表現を改めることです。
結果として、正式な指示書は原子力災害対策本部長である菅首相の名前で出されました。指揮に関する表現は「自衛隊が現地調整所において一元的に管理すること」と修正されました。私は胸をなでおろす思いでした。この表現ならば、どの組織が、いつ、どのように放水するかを皆で話し合う場の議長役ですみます。命に関わる責任を自衛隊の現場指揮官が負うことにはなりません。
田浦副司令官は現場で「指揮」「管理」という言葉は一切使わず、「調整役」になりましたと挨拶し、その通りに振る舞いました。
表現上の修正はあったにせよ、オフサイトセンターの混乱は収束に向かったわけですね。ということは、指示書の効果はあった。
火箱:はい、そう思います。自衛隊に協力してください、と首相が他の省庁に指示して、そのように動いたわけですから。
次に同じような事態が生じたとき、省庁間連携はきちんとできるのでしょうか。改善策はできているのですか。
火箱:その後、2013年に国家安全保障会議が設置されました。ここが全体を調整する役割を担うことになるでしょう。
2号機に降り、ホウ酸をまく
自衛隊はヘリと地上からの放水だけでなく、原発そのものを封じ込める作戦まで練っていました。
火箱:そうですね。時間は3月15日の昼に戻ります。北澤防衛相から「原発に水をまいてくれないか」と言われた直後の11時ごろのことでした。防衛大臣補佐官が部下を連れて私を訪れ、「この人の話を聞いてください」と言うのです。チェルノブイリ原発事故の研究をしている人物でした。
彼いわく。「2号機の原子炉にホウ酸をまいてください」
彼の見立てでは、2号機はすでにメルトダウンもしくはメルトスルーを起こしている可能性がある。事態を抑えるためには、ホウ酸をまくことが有効、ということでした。ホウ酸はホウ素を含む化合物で、ホウ素は中性子を吸収する特性を持ちます。
ホウ酸をまく方法を問うと、「お任せします」という答えでした。
このとき、頭に浮かんだのは、チェルノブイリ原発事故への対処でした。ホウ酸、石灰、鉛、粘土、砂など50tをまいて放射線の放出を抑えたのち、外側をセメントで固めて「石棺」にしたのです。
「これは犠牲者が出るな」。チェルノブイリ原発事故の対処では作業員の多くが大量の放射線を浴び、死に至りました。生き延びたものの、後遺症に苦しめられている人も大勢います。
しかし、最悪の事態に備えるのが私たちの仕事です。こうした任務が命じられる可能性はゼロではありません。準備を進め、やり方を検討するよう部下に命じました。
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原子炉にホウ酸をどうやってまこうとしたのですか。2号機は建屋が残っていました。
火箱:航空写真を精査したところ、建屋の屋根の上に1~2mほどの亀裂があるように見えました。そこで、ヘリコプターを上空でホバリングさせ、袋に入ったホウ酸をスリングネットに入れてロープで降ろし、亀裂から中に入れたところで切り離す、という案を考えました。1袋は20~30kg。250袋で7.5t程度。チヌークならば一度に9tほどのホウ酸を運ぶことができます。
しかし、この案はすぐについえました。亀裂に見えていた筋は単なる傷だったのです。
次に検討したのは、建屋の壁に開いている穴からホウ酸を投入する策でした。
「これは決死隊になる」
隊員が建屋の上に降り、壁の穴に近づき、ホウ酸の入った袋を投げ入れる必要があるからです。この隊員はもちろん、上空でホバリングして待つヘリの操縦士も致死量に近い放射線を浴びることを覚悟しなければなりません。
「しかし、最悪の場合は、福島を境に日本列島が分断されかねない」。もしものときには決断しなければならないと覚悟を決めました。人の命は地球より重いけれども、私たちの任務はさらに重い――。なぜなら、私たちのほかにできる人間はいないのですから。
もちろんそうなったときには私も参加するつもりでした。行くなら、退官間際の人間の方がよいでしょう。私自身にとっても、その方が慰めになります。
頭に浮かんだ「お鶴と市太郎」の物語
この作戦について検討しているとき、私のふるさとに伝わるある伝承を思い出し、周囲の皆に話しました。お鶴と市太郎が地元の人々のため「人柱」になった話です。
私が生まれた福岡県と大分県の県境に沿って山国川という川が流れています。平安時代、この川はたびたび氾濫し、井堰を壊して周辺の村々に被害をもたらしました。これを収めるため、湯屋弾正基信という地元の地頭の筆頭が人柱として立つことになった。すると、彼の家臣の娘であるお鶴と、その子・市太郎が「父祖の代から被ってきた恩に報いるのは今」と身代わりを申し出たのです。2人は断食沐浴(もくよく)したのち、新しい井堰に塗り込められました。それ以来、山国川が氾濫してもこの井堰が壊れることはなかったということです。
幸い、この鶴市作戦は実行せずにすみ、自衛官を人柱のようにする不幸を見ずにすみました。
火箱さんたちはこの鶴市作戦の準備を極秘で進めました。仮に情報が漏れていたらどうなっていたでしょう。ヘリ放水についても「自衛官の命を危険にさらすのか」と批判が出ていました。
火箱:この作戦の存在を知っていたのは、陸上幕僚監部で私の周囲にいた数人と、運用支援部長。現地にいる中央即応集団の宮島司令官とその隷下の金丸章彦・第1ヘリコプター団長くらいでしょうか。折木統幕長にも報告はしておりません。
国民はどう反応したでしょう。世論が2つに割れることになったかもしれません。「そんな作戦はするな。自衛官を大事にしろ」という考えと、「進めろ。日本が分断される危機なのだ」という考えと。
いずれせよ、この作戦を実行しなくてすみ、本当によかったです。
幻ですんだ大規模避難計画
4つ目の柱について伺います。大規模な避難計画を検討したそうですね。
火箱:ええ。4月に入ってからのことです。原発の状況はだいぶ収まっていました。しかし、まだ余震がありましたし、いつまた水が入れられなくなるとも限らない。そのときにどうすべきかを考えました。東京電力の職員や周囲の住民をどこに避難させるべきなのか。バスで避難させるならば、対象となる人員の数も調べなければなりません。当時、30km圏内には数万人の人がいたと思います。
統合幕僚監部が担当する仕事だったので、担当者に「まずは事故を起こした原発の最も近く、『中心』にいる人から逃すべきだ。その手段を考えるのが先決だ」と話をしました。そして、陸上自衛隊にも協力する準備を進めさせました。
再び水が入れられなくなったり、水素爆発が起こったりしたときに、中心にいる人を救出する。これも、自衛官が被ばくする事態が避けられない任務ですね。
火箱:おっしゃる通りです。しかし、ほかにできる人がいないのですから。
陸上自衛隊の補給処で、装甲車の屋根に手すりを溶接して付け、人々を屋根に乗せたまま走れるように改造しました。運転手は乗ったまま、救出すべき人を短時間で乗せる工夫です。
中央即応集団の下にある中央即応連隊には、この装甲車を使って実際の運搬作業をシミュレーションさせ、現地で予行もしました。夜中でも30km圏外へ短時間で移動するための経路を確保する。同連隊の300人には、他の任務を一切与えず、いわき海浜自然の家に待機させ、これに専念させました。
この避難計画も幸い、幻で終わりました。今振り返っても、ほっとする思いです。
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