東京五輪・パラリンピックの開催が決定した8年前、政府は人々が先行きに明るさを感じ、消費が活性化すると期待した。しかし、財布のひもは固いままだった。1回目の東京五輪が開かれた1964年から半世紀余り。豊かさの基準は様変わりしている。

 出港時間となり、連絡船のスピーカーから「蛍の光」が流れ始めた。

 「しっかりなー」「体に気をつけろよー」

 見送りに来た家族やクラスメートが桟橋から声をかけると、色とりどりの紙テープを握りしめながら、学生服姿の少年少女たちがデッキの手すりに顔をうずめた。その様子をカメラに収めていた野水正朔氏はもらい泣きした。

 「男の子も女の子も泣いた。私も泣いた」

兵庫県・淡路島から連絡船で出航する女学生。1967年撮影(写真:野水 正朔)
兵庫県・淡路島から連絡船で出航する女学生。1967年撮影(写真:野水 正朔)

豊かさ求めた15歳の門出

 1回目の東京五輪が開かれた1960年代、港の桟橋や駅のホーム、バスのターミナルで多くの中卒者が惜別の涙を流した。行き先は町工場や商店など、就職先がある都会である。

 1960年に政府が所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長が始まると、東京・大阪・名古屋の三大都市圏では人手不足が一層深刻になった。一方、農村部では人口が増えすぎて雇用の受け皿が足りなくなった。必然的に農村部から都市部に人口が大移動した。

 養育費を捻出できない貧しい農村の家庭では、中学校を卒業したばかりの子どもを学校ぐるみで都会に送り出した。「集団就職」と呼ばれるその様子を記録に残そうと、兵庫県・淡路島の写真家、野水氏は地元の洲本港から出航する神戸港行きの連絡船が見えなくなるまでシャッターを切った。

(写真:野水 正朔)
(写真:野水 正朔)

 「泣き顔で瀬戸内海を渡った子どもたちには、豊かな都会への憧れもあったんだ」。野水氏は、ファンダー越しに眺めた彼ら、彼女らの複雑な表情を思い出したかのように、そう言った。

 それから半世紀余り。長年にわたり人口の流出が続いていた淡路島で今、ある異変が起きている。

瀬戸内海の夕日に憧れ人口流入

 淡路島に3つある市町村のうち、淡路市では2020年、転入者が転出者を上回った。1321人が市内に転入したのに対して、転出は1252人にとどまり、「社会増減」は差し引き69人のプラスとなった。高度成長期以降、社会増減のマイナス傾向が続いていた淡路市にとっては、大事件だ。

 過去十数年間に20社以上の拠点を市内に誘致したことが功を奏した。10年以上前から淡路島で就農支援や商業施設の運営に取り組んできた人材サービス大手のパソナグループもその1社である。2020年からは東京に構える本社の一部機能を順次、淡路島に移している。

 パソナの南部靖之代表は、淡路島への移住を希望する社員が非常に多いことに、驚いている。

 「東京や大阪の在住者だけでなく、淡路島に近い神戸からも行きたいという声が上がる。『なんで?』と聞くと『リゾート地だから』と返ってくる。社員たちが『心の黒字』を楽しんでくれれば、僕はそれでいいと思っている」

 心の黒字とは、瀬戸内海の夕日を眺めたときや島の土を触ったとき、自然の中で子どもが遊んでいる姿を見たときなどに得られる充足感を指す。家計簿には表れない黒字だ。

 かつて豊かさを求めて少年少女が後にした淡路島に、都会在住のパソナ社員が進んで移住する。この逆流現象は、日本人の豊かさの基準が様変わりしたことを物語る。

 内閣府の「国民生活に関する世論調査」によると、「物質的にある程度豊かになったので、これからは心の豊かさやゆとりのある生活をすることに重きをおきたい」とした人の割合は2019年に62.0%に達した。この設問は1972年から調査票に加えられている。まだ日本人が高度成長を謳歌していた同年、心の豊かさに重きをおく人は37.3%しかおらず、大半は物質的な豊かさを求めていた。

 高度成長期のモノに対する旺盛な消費欲求は、総務省が5年ごとに「全国家計構造調査(旧・全国消費実態調査)」で調べている1カ月の平均消費支出の増減率にも表れている。

 所得の増加もあって、東京五輪が開かれた1964年の消費支出は、5年前に比べて35.2%も増えた(物価変動の影響を除く実質ベース、2人以上の世帯)。今では考えられない驚異的な伸びだ。

(写真:PIXTA)
(写真:PIXTA)
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安倍氏、「日本再生」と意気込むも

 政府は現在も大半の日本人が物質的な豊かさを求めていることを前提に経済政策を推し進めているようだ。その証左こそ、間もなく開幕する2度目の東京五輪と言えるのではないだろうか。

 2013年9月、ブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で東京招致に成功した直後、当時の安倍晋三首相は現地で記者会見に臨み、「五輪の開催決定を契機に、デフレと縮み志向の経済を払拭していきたい」と強調。金融政策、財政政策、成長戦略に続くアベノミクスの「第4の矢」に東京五輪を位置づけた。

 政府が東京五輪で特に期待したのが、1990年代前半にバブル経済が崩壊してから冷え込む消費マインドの転換である。全国家計構造調査によると、1カ月の消費支出は、1999年に5年前比で4.1%減とマイナスに転落してから、減り続けている。

 東京五輪を再び開催することで、日本経済が元気いっぱいだった前回の東京五輪の記憶を呼び覚ますことができると政府は考えた。

 社会全体の気分が前向きになれば、将来への不安が薄れて個人消費が活性化する。それに合わせて企業が工場などへの設備投資を増やして、景気拡大の好循環が生まれると見込んだ。

 安倍氏は2014年1月の施政方針演説で、「かつて日本は、東京五輪の1964年を目指し、大きく生まれ変わった。2020年の東京五輪を日本が新しく生まれ変わる、大きなきっかけとしなければならない」と国民に訴えた。

 だが消費者の財布のひもは固かった。2014年以降の全国家計構造調査でも消費支出がプラスに浮上することはなかった。

 多くのエコノミストは「将来への不安が薄れていない」ことを、消費が低迷している主な理由に挙げる。確かに、老後の生活や健康などの面で不安を抱く人の割合が、バブル期より増えていることを、各種世論調査が示している。将来に備えて、所得のうち貯蓄に回す比率が増えており、その分、消費の割合が削られている。可処分所得に占める消費支出の割合(消費性向)は、1980年代まで70%台後半で推移していた。それがバブルが崩壊した1990年代前半からは、70%台前半で低迷している。

 しかし、日本人は本当に将来が不安だという理由だけで消費を控えているのだろうか。日本人の6割が重視したいという心の豊かさは、海に沈む夕日や、自然の中で子どもが遊ぶ姿を眺めたりすることでも感じられるはずだ。必ずしも消費支出を増やさなくても実感できる。

昔はクーラーで豊かさを感じられた

 逆に、かつて大半の日本人が追い求めていた物質的な豊かさは、消費支出と連動していた。1950年代後半から冷蔵庫や洗濯機、白黒テレビは「三種の神器」と総称され、1964年の東京五輪をきっかけに普及が本格化したカラーテレビに加えて、クーラー、カー(自動車)はまとめて「3C」と呼ばれた。高度成長期の会社員たちはこれらを購入することを目標に働いた。

 初めて自宅でクーラーの涼しさを味わった夏、初めて自家用車で遠出した週末……。新たな「物質」が手に入るたびに、人々は豊かさを実感した。

 全国家計構造調査によると、消費支出の伸びは、バブル経済の余韻が残る1994年まで続いた。同年の調査で月34万4066円の消費支出を記録した。これを頂点に増減率はマイナスに転じ、2019年にはピーク時より18.9%少ない月27万9066円まで消費支出が落ち込んだ。

 それにもかかわらず、生活に満足する日本人は減るどころか、増えている。

 NHK放送文化研究所が1973年から5年ごとに実施している「日本人の意識調査」では、生活全体の満足度について聞いている。最新の2018年の調査で「満足している」と「どちらかといえば、満足している」と回答した割合は合わせて92%と、調査開始以来の最高を記録した。消費支出が最高額に達したころの1993年の調査結果と比べて、消費量は減る一方、生活全体に満足している人は5ポイントも増えた。消費支出と生活満足度の相関関係は崩れ始めている。

 3Cや三種の神器などの耐久消費財をはじめ、すでに家の中はモノがあふれかえっている。ニッセイ基礎研究所などによると、日本の家庭に眠る不用品の総額は37兆円にも上る。

 これ以上モノを買い集めても、満足感を得るのが難しくなっているのではないだろうか。「物質的にはある程度豊かになり、今後は心の豊かさに重きをおきたい」という日本人が6割に達するのもうなずける状況だ。

 2回目の東京五輪が消費拡大の起爆剤にならなかったのは、こうした価値観の変化も背景にありそうだ。

デフレでも幸せな家族

 再び淡路島――。

 池田征史氏と彩美氏は「遠くからよくいらっしゃいました」と自宅マンションに迎え入れてくれた。パソナに勤める共働き夫婦だ。

半年前に生まればかりの3人目の子どもと池田征史・彩美夫妻
半年前に生まればかりの3人目の子どもと池田征史・彩美夫妻

 「東京で任されていた営業職から身を引いて、職場環境を変えたかった。自然が多い土地で子育てもしたかった」と言う征史氏が、彩美氏を説得し、子ども2人を含む一家4人で3年前に淡路島に移り住んだ。

 征史氏は、「東京に住んでいたころは、部下を連れてよく飲みに行っていた。上司として多めに支払っていたので、貯蓄に回せるお金はどんどん減っていった」と振り返る。淡路島に移住してからは飲みに行く機会を減らし、出費を抑えた。

 それだけではない。「定食屋で焼きそばを頼んでも380円だ」と征史氏が言うと、彩美氏はすかさず「勤務先が東京・丸の内にあったころ、ランチ代は1300〜1500円もした」と続けた。「子どもたちがよく食べるミニトマトも、300円出せば30〜40個買えてしまう。東京だと200円で10個ぐらいかな」と笑う。

 自宅は東京のころより広いにもかかわらず、家賃は4分の1まで下がった。

 夫妻の収入は東京時代とほぼ変わらないまま支出が減ったので、消費性向は下がった。まさに安倍氏が東京五輪の開催で払拭を試みた「デフレ、縮み志向」を体現する家族である。

 それでも征史氏は「幸福度は上がった」と語る。「経済的に余裕が出てきたことで、3人目の子どもをつくることができたからね」と、昨年12月に生まれた、初めての男児をあやしながら言った。

 間もなく東京五輪が開幕する。

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