日本企業は「技術で勝って、事業で負ける」といわれて久しい。国際市場で苦戦している日本企業は、知的財産戦略として“オープン&クローズ戦略”という高度な戦略を採り入れて対応しているケースが多い。その知的財産戦略を担う人材が、企業の事業戦略を練る高度な専門家に留まっている点が、日本の大きな課題といえる。

 日本の産業競争力強化を図る知的財産推進計画の策定を担っている内閣官房知的財産戦略推進事務局は最近、「知財教育タスクフォース」を設置し、2016年2月から2回会合を開いた。その議論の中心は、「教育現場での知的財産の取り組みと課題」であり、ここでの議論を踏まえて毎年更新している「知的財産推進計画」の2016年版に、教育現場での知財教育の取り組みを盛り込みたいと考えているもようだ。

 2015年に米国がTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の中身を交渉する際に、日本に対して知的財産分野での譲歩を強く求め、難航したことはまだ記憶に新しい。米国政府と企業は、知的財産活用の有効性を知り尽くしていると考えられている。その対抗策として、日本でも知的財産の活用とその戦略を練る専門家人材を拡充する態勢が整い始めている。しかし、企業や官公庁、NPO(非営利法人)などで仕事をする一般の社員や公務員が知的財産を意識して、日常の仕事を進めるという実態はまだ少ないのが現状だ。

山口大知的財産センター長の佐田洋一郎教授
山口大知的財産センター長の佐田洋一郎教授

 その原因の1つは、「日本の高校(主に普通科)と大学で知的財産教育の基礎を教えていないことにある」と、知的財産の専門家である山口大学知的財産センター長の佐田洋一郎教授は指摘する。佐田センター長は、知財教育タスクフォースのメンバーの1人である。

 日本の大学・大学院の理工系学部・専攻などで学んだ学生は、企業や公的研究所などに就職すると、特許や実用新案などの基礎を社会人として社内研修で初めて学び、1~2年間で特許出願などの業務に対応する。また、最近は、非技術系の社員や公務員でも、日常業務の中で、商標権や意匠権などに関係する仕事が増えたために、やはり内部研修で対応している。

 最近は知的財産戦略の重要性を意識し、東京理科大学大学院、大阪工業大学大学院、日本大学大学院の3大学院では、知的財産についての専門職大学院として教育態勢を整えている。2005年4月に、東京理科大大学院と大阪工業大大学院は開校した。この大学院の修了者は弁理士試験の科目の一部が免除される仕組みになっている。

 また、青山学院大学大学院などの他の5大学院でも知的財産教育を行うなど、知的財産の専門職を育成する仕組みは整いつつある。こうした大学院の修了生が、特許庁の専門職や各企業などで知的財産戦略を担う人材として活躍し始めている。

 このように大学院では、知的財産の専門職を養成する教育が拡充されているのに対して、大学生時代に知的財産の教育を受ける機会は、日本ではほとんどないのが現状だ。こうした実態を打破しようと、山口大は、3年前の2013年度から全学部の1年生約2000人に知財教育を必修科目とした。現在のところ、全学部学生にカリキュラムとして知財教育を教えているのは、山口大だけである。

 日本の各大学・大学院では、何らかの講義の一部として、特許庁などの知的財産の専門家を招いて、特別講義を実施していれば、いい方である。その理由の1つが、日本では知的財産教育の一般向けのカリキュラムや教材がほとんど確立されていないからである。

山口大は知的財産教育のノウハウ・教材を公表

 山口大は、前述したように2013年度から全学部での知的財産教育の実践を始めている。この支援策として、文部科学省は2013年度から特別運営費交付金を3年度にわたって出している。その3年度目の終了間近である2016年3月9日に、山口大は「知財教育シンポジウム in 田町 2016」を開催した。山口大が始めた知的財産教育の授業内容とその後の改善内容などを、聴講した他大学・大学院の教員、職員などに伝えて、山口大の知的財産教育が移植されることを目指すシンポジウムだ。

 山口大の三池秀敏理事(学術研究担当)・副学長は「このシンポジウムの目的は、弁理士や特許庁の審査官などの知的財産の専門家を育成することではない。各学部の卒業生が、会社員や公務員、大学などの研究者などのさまざまな職業の社会人になった時に、特許や著作権などの知的財産を利用する立場で、いろいろな課題を的確に解決できる素養が養成できるような知的財産教育の内容を伝えること」と強調した。簡単にいえば「イノベーションを起こす人材育成を目指した、知的財産利用の素養を教える授業内容を、日本の他大学に伝えたい」ということである。

 山口大での知的財産教育を推進する中心人物の一人である佐田センター長は、今回、知財教育シンポジウムを開催した背景を「2015年7月30日に、文科省は山口大を『知的財産教育の教育関係共同利用拠点』と認定した。この結果、山口大は希望する他大学に知的財産教育の教え方やその教材などを提供する中核大学になった」と説明する。この知的財産教育の教育関係共同利用拠点は、山口大が初めて認定され、現在でも唯一の存在になっている。

2013年度から実施した3年分の授業実績を報告

知的財産センターの副センター長の木村友久教授
知的財産センターの副センター長の木村友久教授

 シンポジウムでは、知的財産センターの副センター長の木村友久教授が2013年度から実施した全学部での知的財産教育の概要を説明した。

 2013年4月から教育学部、経済学部、理学部など8学部(2013年当時)の1年生約2000人全員を対象に、「科学技術と社会 ○○学部生のための知財入門」を必修科目として始めた。授業内容は、知的財産の概要の導入編から始め、著作権、特許、特許情報の収集・分析、意匠、商標などの各論という構成である。著作権と、「産業財産権」である特許権、実用新案権、意匠権、商標権の4つを主に教える授業構成とした。

 木村教授は「現在、山口大に入学してくる高校生の多くは普通科の出身者が多く、知的財産については高校では授業を受けていない。このため、著作権や特許権という言葉を表面的にしか知らないのが現状」という。このため「まず著作権の授業では、大学の授業の宿題として課す授業レポートを、あるWebサイトや書籍などから丸写しする“コピペ”は著作権侵害であり、刑法の対象となる犯罪だと伝えており、このことに学生は強い関心を示す」という。

 知的財産は、社会人になっても仕事にはあまり関係ないものと、理学部・工学部以外の学部学生はつい考えがち。しかし「社会人になって、例えば会社の製品にイメージキャラクターを利用する場合にも、著作権や商標権などの知識が必要不可欠になるとの説明には、興味を示す学生が多い」という。

 実際の授業は知的財産センターのスタッフ6人で担当しており、いろいろな工夫が必要になった。その上、山口大はキャンパスが3カ所に分散しており、キャンパス間の移動が必要になる点にも工夫が必要になった。

 このため、知財入門の授業は、前期に1単位(授業は8回)で構成した(後期には予備授業を予定)。1講義当たりの聴講する学生数を100人程度とした。

 各授業では“ワークシート”と呼ぶ授業内容を書き込むツールを各学生に配って、授業の理解度をつかんでいる。このほかに、8回の授業の途中で、学生の理解度を測る小試験などを実施し、その理解度を確認しながら授業を進めている。

反転授業とアクティブラーニングを導入

 知財入門の授業では、学生の理解度を高めるためにいろいろな工夫を凝らした。まず「反転授業」というやり方を採用した。各授業の前に、学生には授業内容の予習として、山口大知的財産センターのパソコンサーバーに収められた各予習ビデオ画像を見るように伝えた。

 例えば「特許権」の授業では、「特許」「特許権」という言葉の意味などの基礎知識を予習ビデオによって学ばせた。多数の学生が同時に各パソコンからアクセスしても不具合が起こらないように、サーバーには十分な容量を確保した。各授業の冒頭では、実際にサーバー内の当該予習ビデオを見たかどうかをワークシートに記入させた。平均して90数%の学生が予習してきたという。

 事前に簡単な知識を持たせることで、授業では議論にすぐに入れるようにした。予習で得た知識を用いて課題を解いたり、グループで議論したりすることを、最近は「反転授業」と呼ぶ。これは最新の授業手法である。

 この「反転授業」は、実際の授業時には「アクティブラーニング」と呼ぶ、教員が一方向的に講義する形式ではなく、学生が議論などを通じて能動的に学ぶ授業形式を実現するやり方の前提になっている。

 翌年の2014年度からは「展開科目」と呼ぶ学部の2年生から4先生を対象にした専門科目(選択科目、2単位)を始めた。例えば、「ものづくりと知的財産」「知財情報の分析と活用」「コンテンツ産業と知的財産」などの展開科目があり、各学部の専門科目を支援する専門知識が得られる。さらに、2015年度からは「特許法」「意匠法」「商標法」「著作権法」「不正競争防止法」と、法学部の学生を強く意識した展開科目も始めた(他学部の学生も受講できる)。

 さらに、農学部を意識した展開科目「農業と知的財産」も始めた。同授業を担当する陣内秀樹准教授は、「農業というと、新品種などの育成者権がすぐに頭に浮かぶが、最近の農業ではそれだけではなく当該品種の品種名の商標や農業技術の特許や実用新案などを戦略的に押さえることが求められている」という。農業でも農作物やその応用製品などのブランディングなどによる高付加価値化や事業性の向上など、これからの日本の農業に必要な知識を教える内容である。

 1年生向けの必修科目の授業は、すべての授業内容をビデオ撮影し、実際にどのように教えているかを記録したDVDを作製した。この授業内容のビデオ撮影は、いずれ山口大の各学部の教員がこの当該授業を教えることを想定した授業法のノウハウの移転を目指したものだ。同時に、山口大が知的財産教育の拠点校として、他の大学に知的財産教育を伝える場合にも備えたものでもある。

 実は、山口大大学院の研究科でもより高度な知的財産教育を始めつつある。さらに、山口大は2016年度から“理工系”大学院で、高度な知的財産教育を必修科目化する。こうした今後の発展を考えると、当該授業を担当できる教員を増やすことに迫られることが予想される。こうした授業法の伝授は、他の大学や大学院、高等専門学校などへの知財教育の伝授にも役立つ。

知的財産教育の導入法などを伝授

 実は山口大は、「知財教育シンポジウム」に先だって、前日の3月8日に同じ場所で「知的財産教育 FD・SDセミナー in 田町」を開催した。「FD」とは、Faculty Developmentの略称で、各大学などの教員の授業内容の改善を意味する言葉。今回は知的財産教育を導入したいと考える大学や公的研究機関、行政機関などの担当者に対して、知的財産教育の導入法やカリキュラム化について伝えた。

 また「SD」とは、Staff Developmentの略称で、知的財産教育を導入する大学などの事務職員や支援スタッフなどの改善を意味する。教員に加えて、支援スタッフなどが知的財産教育の中身を理解しないと、実際にはカリキュラムや授業が進まないため、SDの位置付けも重要である。

 山口大は知的財産教育の教育関係共同利用拠点として、これまで培った知的財産教育のノウハウとなるFD・SDメニューとしての教材の提供や、当該大学での知的財産教育の教材開発支援やコンサルティングなどを行う。

 3月9日に開催した「知財教育シンポジウム」の基調講演に登壇した内閣官房知的財産戦略推進事務局の横尾英博事務局長は「日本でのイノベーション創出の源泉となる知的財産教育の推進が重要」と指摘した。そして知的教育タスクフォースでは「知的財産教育教材の開発法や、その教材を用いた知的財産教育の拠点(モデル校)による水平展開などを議論した」と説明した。この文脈は、山口大が知的財産教育の拠点校として動き始め、実績を積んでいることを前提とするものである。

丸山 正明(まるやま・まさあき)

技術ジャーナリスト。元・日経BP産学連携事務局プロデューサー
東京工業大学大学院非常勤講師を経て、現在、横浜市立大学非常勤講師、経済産業省や新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)、産業技術総合研究所の事業評価委員など。

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