無印良品、ファミリーマート、パルコ、西武百貨店、西友、ロフト、そして外食チェーンの吉野家——。堤清二氏が一代でつくり上げた「セゾングループ」という企業集団を構成していたこれらの企業は、今なお色あせることはない。
日本人の生活意識や買い物スタイルが大きな転換期を迎える今、改めて堤氏とセゾングループがかつて目指していた地平や、彼らが放っていた独特のエネルギーを知ることは、未来の日本と生活のあり方を考える上で、大きなヒントとなるはずだ。そんな思いを込めて2018年9月に発売されたのが『セゾン 堤清二が見た未来』だ。
本連載では、堤氏と彼の生み出したセゾングループが、日本の小売業、サービス業、情報産業、さらには幅広い文化活動に与えた影響について、当時を知る歴史の「証人」たちに語ってもらう。
連載第5回目に登場するのは、国際日本文化研究センター教授の大塚英志氏。堤清二氏は経営者でありながら、社会の未来を予見し、消費や生活のあり方を変えようとした。堤氏を支えたのは、どんな思想だったのか。大塚英志氏に聞いた(今回はその後編)。
パルコ出版の若者雑誌「ビックリハウス」など、セゾングループが発信していたサブカルについて、どう評価していますか。
大塚英志氏(以下、大塚):「ビックリハウス」的なものって、僕はオタクだったから、ちょっと違和感がありました。
僕のような多摩地区で育った子たちにとって、1980年代の記号論的な文化は「山手線の内側でやっている違う国の出来事」のような感じでした。
パルコにも距離感がありましたね。
高校生の頃までは、「ファッション誌に掲載されているものと同じ服を着る人って、本当にいるの?」という感覚でした。「メディアの中の話と現実は違うでしょう」という距離感があったわけです。ところがそれが、(大学を卒業して)東京に戻ってくると、状況が変わっていました。
「新人類文化」と「オタク文化」はしょせん「山手線の内側」と「外側の多摩地区」の文化の違い程度のもので、オタクと呼ばれる人たちは、文化のヒエラルキーの解体の有無と関係なく、「自分の好きなことをやったっていいじゃん」という感じだったわけです。
1980年代には文化のヒエラルキーがフラットになっていましたから、文学をやろうと、アニメをやろうと、「人の目を気にしなくていいや」という空気が増幅されていきました。新人類文化もオタク文化も、高度成長後の日本が生み出した中間層の文化ですから。
それは今で言えば、中国がそうですよね。中国の若者の中にも、日本まで旅行して東京の青山でハイブランドを買う人もいれば、アニメやゲームの会社を立ち上げる人もいる。彼らの姿を見ていると「ああ、1980年代だなあ」と思います。
つまり新人類文化もオタク文化も同じようなものだったのに、ある日突然「新人類」だけが変わったわけです。あれは元は広告代理店がつくった言葉でした。それを(筑紫哲也氏が編集長を務めていた)「朝日ジャーナル」という権威あるメディアで「新人類」とタグを付けてもらったことで、新人類は「文化人」になった。
「新人類」という名前を与えられ、「朝日ジャーナル」で筑紫哲也と対談することでブランドになった。そうやって文化人も「つくられていた」のです。まさに「差異化」のゲームを「朝日ジャーナル」が仕掛けたわけです。
ファッションリーダーだった宅八郎
「新人類」は、メディアによってつくられたものだったということですか。
大塚:新人類もオタクも、どちらの方に消費が特化しているかということだけでしょう。しかも基準は着ている服がDCブランドのものか、イトーヨーカ堂のものかという違いです。
(オタク評論家の)宅八郎は、パルコの「Across」という雑誌の定点調査で、最先端ファッションに身を包む青年として掲載されています。それこそ「新人類」的ないでたちだったんです。
それが、いかにもオタクらしいコーディネートでキャラクターをつくって「SPA!」にデビューした。それは当時、世間で形成されていた「オタク」イメージを意図的に演じたものでした。
つまり宅八郎が示したのは、「Across」に載るような最先端のファッションをまとうことと、オタクのファッションをまとうことは、ただただ1980年代的な「差異化」のゲームなんだという「批評」です。
けれど、そのことに気が付かないで、新人類もオタクも本当に「いる」とみんな信じ込んでいました。記号によって何かを操作する1980年代の差異化のゲームに対して、最もクリティカルだったのは宅八郎だと、僕は今も思っています。
1990年代に入ってからは、所得格差などが問題化され始めました。
これは経済の面からだけでなく、1980年代には吉本隆明の「文化の差異はすべてフラットだ」という考えや、「記号の操作で文化のヒエラルキーを解体できる」という楽観的な見通しが一方にありました。
けれど、「差異化」が同年代の若者たちを「新人類」と「オタク」に階級化したように、水平の差異を上下の差異としたいという欲望があったように感じました。
再び社会の階層化が始まるのは、社会学者の間では1980年代から1990年代初頭の時点で、統計的にも指摘されていました。
団塊世代と団塊ジュニアの間で資産の継承問題によって、同じ年代でも階級差が出てくるだろう、と。
その時はバブル経済の崩壊は変数に入っていなかったので、階級化は違う形になりました。
ただ当時、社会学的な議論のように見えるけれども、「フラットな方向に差異化するゲームに疲れて、階級という安定にこの国は向かっていくのか、ああ、つまらない時代になるな」と思ったことを覚えています。
つまり「総中流化」という理念、未来を捨てたわけです。
だから僕は、「中流」を可能にした戦後民主主義を擁護するというロジックで、「Voice」だとか「諸君!」にあえて物を書いていた時期がありました。あの頃の僕はなぜか「右翼」だと思われていたので。それが今では「極左」らしいのだけど(笑)。
セゾングループの事業はその頃からかなり厳しくなっていきました。
生き残ったのは新人類文化ではなくオタク文化
大塚:その頃、記号的消費が難しくなっていって、入れ替わるようにオタク的なマーケットがジワリと拡大していきました。
1980年代の中間層の文化で生き残ったのは新人類文化ではなく、オタク文化だった。その理由は簡単で、オタクたちは「生産者」に転じたからです。
あえて当時の新人類文化とオタク文化の違いを指摘するなら、新人類文化は「消費する文化」「論じる文化」です。対してオタク文化は、同人誌でもフィギュアでもゲームでも自分で作ってしまう文化です。
そうやって、作り手の側に回ったオタクたちの次に、「消費するオタク」が生まれるわけです。
オタク的な消費財というのは、まさに記号の消費です。
セゾン以前の記号的な消費で典型的なのはサンリオです。売れ残ったサンダルに花柄を付けたら完売しちゃったというのが、(サンリオ創業者の)辻信太郎の「サンリオの奇跡」です。
その差異化のゲームから、DCブランドが出来上がっていきました。
DCブランドのピンクハウスも、1970年代初頭は非常にアバンギャルドなブランドだったわけです。篠山紀信が雑誌「anan」で写真を撮っていて、ものすごく格好良かった。
それが(NHKの朝の連続ドラマ)「半分、青い。」の登場人物が着ていたように、腐女子御用達のブランドになっていく光景を、僕は脇でずっと見ていました。
そういうふうに、1980年代型の記号的な消費がオタク的な文化の中に回収されていって、さらに舞台がリアルからネットに移っていきました。「ファッションによる自己実現ってバカみたいだよな」と思いながら、オタクたちもコスプレすることで自己実現をしているわけです。
「アニメイト」がパルコの上に入ったのを見て、僕は「ああ、こうなっちゃったんだな」としみじみ思いましたね。
1990年代の頭ぐらいかな、(西武百貨店の社長を務めた)水野誠一と少し顔見知りだったので、少女まんが雑誌「りぼん」の付録の展示会をパルコでさせてよ、と言ったことがあります。
彼は二つ返事で「ああ、いいよ」と言ってくれたけれど、現場が抵抗したんですね。
「まんがの展示会をパルコがやるなんて、水野さんが言ってこなかったら絶対にあり得なかった」と担当者に面と向かって言われちゃう時代でした。パルコはセゾンの中でも最前衛でしたからね。
堤清二が現代に与えるヒント
堤さんは将来を危惧する一方で、人間に対する愛というか、期待があったように感じます。
大塚:それは「個人」を信頼するということです。
人間の中にある知や倫理性を、社会や企業がどう組み込んでいくのか。そのことを堤清二は問題にしていました。
そのために広告があり、消費があり、多分、セゾングループの文化戦略があった。それだって、しょせんは表層的なものだと分かっていたのでしょうが。
堤清二は人間に拘泥するけれど、それは単なるヒューマニズムというよりは、倫理的な主体としての人間です。
アダム・スミスは「神の見えざる手」と言いますよね。現代ではそれを単なる価格調整のこと捉えているけれど、やはり深い部分ではそうではなくて、キリスト教的な倫理観が経済システムの中にも発動しますよ、ということを言っているわけです。
「神の見えざる手」のようなものを社会システムの中につくっていく。それが堤清二のやろうとしたことだと思います。ここが多分、彼の思想の肝ですね。
小売業は放っておくとフォードのベルトコンベヤーシステムのような状態になってしまいます。
大塚:堤清二はフォーディズムを批判しました。1980年代は上野千鶴子の言葉を借りると「水平の革命」でした。「垂直の革命」から「水平の革命」への移行だったわけです。上野たちは全共闘世代です。僕ら一世代下は、それを冷ややかに見ていた部分はありました。
ただ一方で、堤清二の中で企業とマルクス主義的なものが不思議な形で共存しながら社会をつくろうとしていたことは事実です。
その問題点や不可能性については、これだけ見通しが描けない時代だからこそ、再評価しておかないといけません。
かつての日本型経営の中にあった、よくも悪くも浪花節的なモラルがなくなって、新しい情報産業にいるのはあまり倫理について分からない人たちです。多分、悪意で倫理を否定しているのではなくて、本当に分からないのでしょう。だから、そこから始めないといけない。
(アップル創業者のスティーブ・)ジョブズも、(フェイスブックCEOのマーク・)ザッカーバーグも、少なくとも口先では倫理めいたことを言っています。けれど、日本の経営者はそれさえ言わないことが多い。
そんな状況の中で、ネットワークがあたかも意識を持って勝手に動き始めている現状が、堤清二が考えていた「ネットワーク社会のリスク」なのでしょう。
だから堤清二の思想や彼の仕事、彼のような経営者がどうつくられているのかという過程は、きちんと見ておいた方がいい。
堤清二は、自分の人生は「ユートピアニズムの消滅の歴史」だと言っています。消滅してなお、構想し、頓挫する。その繰り返しの中で、おそらく歴史の構想力が鍛えられるのです。
その「消滅の歴史」を学び、その上で「ユートピアニズムの消滅の歴史」を継承していくことがこの国には今、一番必要なのでしょうね。(本文敬称略)
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