資本を恐れ私欲に共感する社会

いわゆるライブドア事件の裁判で、ライブドアの元CEOである堀江貴文氏による上告が棄却されたようだ。堀江氏としては一応異議の申し立てを行う意向があるようだが、これはほとんど形式的なもので、司法の判断が覆る可能性はほとんどゼロであるから、事実上、懲役2年6月の実刑が確定したと言ってよいのだろうと思う。

ライブドア事件については既に語られ尽くしている感もあり、もしかすると当ブログ読者の皆様も食傷気味なのかもしれないが、旬のネタということで私も少し思うところを書いてみたい。

ライブドア事件に関するお茶の間の認識

よくライブドア事件と山一證券や日興証券などの粉飾事件とを比較して、量刑の妥当性を問うたり、恣意的で情緒的な司法判断を憂う論調を見るが、私はこれは少し違うと思っている。想像するに、ライブドア事件に関するお茶の間の認識というのは、山一證券や日興証券などよりはむしろ、円天などに近いものではないだろうか。

一般論として、本当は有望な事業など何もないのに、あたかもそれがあるかのように装って投資を募り、集めた資金を別のことに流用したら、それは詐欺だが、2004年当時のライブドアに、現に収益の柱であり、また将来的にも有望な事業があったかというと、私はなかったと思う。ライブドアと言えばポータルサイトが有名だったわけが、ただでさえ先行者利得が働きやすいネットサービス業界において、圧倒的な先行者であるYahoo!の前で、独自の存在感を出すことはできずにいた。かろうじてブログサービスではそこそこのプレゼンスを保っていたが、収益化には至っていなかったと記憶している。

当時のライブドアにあったのは、根拠のはっきりしない期待感だけだった。それが堀江氏の大言壮語によるものなのか、M&Aや株式100分割に代表される活発な資本政策によるものなのか、はたまたネット企業全体が注目を集めていた中の単なる一社だったのかはわからないが、ライブドアは業績のわりに高い株価を維持していたと思う。

この当時、膨れ上がった期待感と現実の業績との隙間を埋めるために画策されたさまざまな手法が、後に証券取引法違反偽計取引の罪に問われる原因となったものである。それは、例えば株式交換した相手から買い取った自社株式の売却益を傘下のファンドを通じて売上高に計上することであったり、買収予定先の会社から自社に発注させ、売り上げを水増しすることであったりした。

個別のスキームに関する法的・会計的な論点は尽きないが、単純化して言うと、これらはすべて期待感を利益に計上し、単なる思惑を現金に変える仕組みであったと言える。通常、会社の買収というのは、成否が判明するのに長い期間を要するものである。シナジー効果などが発揮され、実際に業績が向上するまでにはある程度時間がかかるからだ。買収の公表は投資家の判断に影響を与え、それによって株価が上昇することもあるが、それはあくまで思惑の話なのである。でも、その思惑を現金に変えることができたら?

もし企業が期待感を収益に変えることができれば、まさに百戦危うからずである。期待自体が収益の源泉なのだから、収益が期待に背くということはまずあり得ないということになるのだから。期待が収益を生み、高い収益がまた次の期待を生む。

東京地検による強制捜査があったのが2006年1月で、容疑の対象となった各手法がとられたのは2004年9月期の話であるから、2004年10月以降の取引には少なくとも違法性のある取引はなかったということになるが、上述の本質は大きく変容したわけではなかった。今でも覚えているが、会社四季報だったかに、MSCBの買取拡大で業績好調の見通しと、およそIT系企業とは思えないコメントが書かれていたのだ。MSCBというのは株式に転換できる社債のうち転換価額が時価に応じて修正されるもののことだが、ライブドアは子会社の証券会社を通じて様々な企業のMSCBを買い受け、それを転換して取得した株式を市場で売却するという取引によって多額の収益を計上していた。この取引に違法性はまったくないが、同取引のミソは、ライブドアが買収や資本提携を発表すると、その相手企業に対する期待感もライブドア並に引き上げられ、無根拠に株価が急上昇するという謎の傾向だった。ライブドアがある会社の株を買うと、ライブドアが株を買ったという理由でその会社の株価が上がるのだから、投資で失敗などということがあり得ないのは火を見るより明らかである。

こうして投資家の期待感を利益に変えることでライブドアは拡大を続けたわけだが、無限に続くかに見えるこれらの仕組みは、確かにネズミ講のようにも見える

今回、検察側は、ライブドアによる粉飾を「損失額隠ぺい型」ではなく「成長仮装型」と位置付けることで前例のない事件ぶりをアピールし、一般的な「損失額隠ぺい型」粉飾事件と比較して量刑が重いことを正当化しようとしている。この筋書きはあまりにもクリエイティブ過ぎるということで一部で話題なわけだが、個人的にはお茶の間の感覚をそれなりにうまく表現できているのではないかとは感じている。

成長の仮装という罪

さて、ライブドア事件には普通の粉飾事件と異なる点が多かったということにはそれなりに同意する一方、私が興味深いと感じるのはむしろ、我が国では「損失隠ぺい型」よりも「成長仮想型」の方が罪が重いという事実である。

上で説明したライブドアによる成長の仮装は、実際に資金の流入を伴うものばかりである。現実には資金が入って来ていなかったり、逆に出て行ってしまっていたりしているところを、単純に帳簿上の数字だけを加工して投資家に対して虚偽の報告をしていたわけではない。持続的に成長を仮装するためには、外部からの資金の獲得が必須なのだろう。そういう意味でライブドアが行った「成長仮装型」の粉飾は、その他の一般的な「損失隠ぺい型」の粉飾よりも高度で、より洗練されている。例えば、東京地検特捜部があのタイミングで強制捜査に踏み切らなかったら、誰か損をしたのだろうか

期待が先行して、その後辻褄があうという構図はベンチャー企業であればある程度どこにでも当て嵌まるもので、何もライブドアだけが例外というわけではない。例えばソフトバンクは、いまでこそ大手通信キャリアの一角として大手を振っているが、2004年ごろのソフトバンクは日本の通信インフラに革命を起こすとかなんとか言いながら、街頭で道行く人にADSLのモデムをばら撒き、回線契約を押し売りするという新しいんだか旧いんだかよくわからない事業にまい進していたし、そもそも初期のころは、PC向けパッケージソフトの卸売りという割とアナログな事業を中心的に行っていた。未分化のベンチャー企業であれば、時間の経過とともに事業が変容していくというのは極めて自然な現象で、要するに結果的に辻褄が合えばいいのだ。

ライブドアも、事件当時は確かにネズミ講的な手法で成長を仮装していたと言えるかもしれないが、当時の勢いを思えば、それこそソフトバンクにおけるボーダフォンのような”本業”をM&Aなどにより手中に収めていたかもしれない。そうすればおそらく辻褄は合い、誰に損失を生じせしめることもなかったはずである。

株主の視点から考えると、仮装だろうが何だろうが現実に資本が拡大していることが重要なのであって、現実に生じてしまった損失を隠される方がデメリットは大きいと私は思う。株主は会社の残余財産の分配権を有するから、会社資産の棄損は株主資産の棄損である。それが開示されないとあっては、恐ろしくてまともに投資など出来ない。だから「損失隠ぺい」と「成長仮装」を比べたとき、その罪は同程度かむしろ「損失隠ぺい」の方が重くて然るべきだと思うのだが、不思議なことに我が国ではまったく逆なようだ。

この不思議な傾向の背景にあるのは、資本主義への猜疑であり、恐怖ではないかと私は思う。

考えてみれば、ライブドアによって行われたネズミ講的なものは、人間の欲望を原動力として資本が資本を生み続けることで無限に拡大を続けるという資本主義の構図の相似形である。よく言われるところではあるけれども、資本主義自体が本質的に壮大なネズミ講なんであって、資本主義的なものがネズミ講的であるのはある種の必然なのだ。事件が明るみに出る前から、堀江氏は時代の寵児として扱われ、ライブドアという存在は新しい時代の幕開けを象徴するものとして論じられた。新しい時代というのはつまり、日本にはなかなか根付かないとされた「株主資本主義」の時代である。そしてそれは、やはり根付かなかったのだ。

以下に引用する産経の記事中の一文は、日本社会に厳然と存在する資本主義に対する怨嗟の念のようなものを端的に表している。ベンチャー企業が期待感をもとに資本を調達することも、投資家から資本調達した限りは利益を追求する必要があることも資本主義的には当然のことだが、それは詐欺的行為だと断じている。

一時は「IT(情報技術)ベンチャーの旗手」ともてはやされた堀江被告だが、事業の実態は違った。法の抜け穴を利用して次々に企業買収を繰り返すマネーゲームに明け暮れていた。「成長性の高い有望な企業」という幻想を投資家に抱かせ、利益追求だけをめざしたことは詐欺的行為と批判されても仕方がない。

ページが見つかりません - MSN産経ニュース

私利私欲に共感する社会

「成長仮装」が資本主義というオートポイエティック・システムの一環であり、株主視点に立った経営の結果として生じるものとして捉える事ができる一方で、「損失隠ぺい」とは言うなればその場凌ぎの保身であり、それを生じせしめるものは純粋な私利私欲ではないかと感じる。

先日、当ブログでも紹介した「凋落」のあとがきに、次のような一節がある。他人とかいて”ひと”と読ませるわざとらしさと語呂の悪さが少し気になるが、一理あると思わせられる記述である。

数々の上場企業を輩出し、一方で会員企業が相次ぎ不祥事を起こすという波乱万丈の十年史を刻んだ「日本ベンチャー協議会」を主宰した天井次男によれば、今の日本で成功するのは「他人(ひと)犠牲の経営者」ばかりなのだという。誰もが成長のパイに与ることができた右肩上がりの時代はとうに過ぎ去り、勝ち組・負け組で表されるような限られたパイを奪い合う時代が定着してしまった。そうした世界では、相手を貶め、出し抜き、ひどい場合には騙し、傷つけられるような人間ほど成功を収めがちだという。起業家たちの裏も表も見てきた天井だけに「他人犠牲の経営者」という造語は妙な説得力がある。
凋落 木村剛と大島健伸 P.277

私はライブドアは、実は他人を犠牲することから縁遠かったがゆえに負け組となった企業のひとつなのではないかと考えている。もし堀江氏が私利私欲に突き動かされる人間だったら、ライブドアの前身であるオンザエッヂが上場した際に、自身が有する株式を売り出して数億円の資金を得、その後は会長職か何かに退いて低迷する業績は放置、損失は全て個人株主に押しつけていたはずだ。そうではなくて、何とかして辻褄を合せ、成長を実現しようと模索するうちに、ライブドア事件は発生したのである。

実際、損失を全て株主に押しつけて自分だけ悠々自適の生活を送っているような経営者は新興市場の会社にたくさんいるが、そのほとんどが罰せられることなく、堀江氏のように何とか辻褄を合せようとした人のみが実刑に処されるというのは、我が国の特性を極めて象徴的に表す出来事であると言えるだろう。

我が国では、資本主義などという得体の知れないものにうつつをぬかすくらいであれば、私利私欲に走った方がむしろ健全とみなされるのである。

参考

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