最近読んでた本2024.12

最近の読んだ本。恵贈頂いたものやフォロワーが関わった本だったりするものをまとめて。

藤元登四郎祇園「よし屋」の女医者 母子笛』

精神科医にしてSF評論家でもある著者による江戸末期京都を舞台にした医療時代小説シリーズ第二弾。気鬱に悩む呉服屋の主人の悩みとは何かを探るうちに幾つかの家族、母子の関係が見えはじめ、どう解きほぐすかが問われていく。

父に捨てられた妻子、母に捨てられた子、跡継ぎができない夫婦、それぞれの関係が笛を軸にして絡み合いながら、母と別れるものもあれば母と再会するものもあり、遠く離れたものを繋ぐのがその人の吹く笛の音で、という母子の物語になっている。精神の病を癒すにはその人間をとりまく関係を解きほぐさねばならないという前作以来の軸はありつつ今作は人間ドラマに比重を掛けた印象がある。江戸末期と言うこともあり、世継ぎやしきたりが堅固に存在し、何かを選べば何かを諦めるという形になり大団円とはならないわけで、そこに苦さもある。

跡継ぎの話を目撃しつつ、女医者を目指す月江も母の家業を継がねばならないという時間制限も迫っていて、ここにはまだ結末がついてはいない。医者を選ぶならそれ以外を捨てねばならないというルールが突きつけられたような巻だ。本書は藤元登四郎さまに恵贈いただきました。

『現代詩文庫 村田正夫詩集』

諷刺詩で知られる詩人の1955年から2006年の詩集から採録された一冊。しばしば村田正夫創刊の詩誌『潮流詩派』に寄稿していた岡和田晃さんが解説を寄せていて読んでみた。初期こそ叙情的なものもあるけれど当時の様々な時事性に即した諷刺詩は時代の記録にもなっており、ヴェトナム戦争から消費税導入、窪塚洋介の飛び降り事件まで取りあげられていて面白い。

本書でも印象的なのは表紙にもあしらわれている「バラ色の生活」だろうか。韻を踏んでいるというよりは連想や駄洒落めいた音の類似を「である」で結びつける小気味良さとともに、その言葉を相対化する別の言葉でぶつけていく諷刺の運動、この双方のリズムが続いていく気持ちよさがある。

世はまさに風神雷神である
封紙頼信紙である
忠臣楠氏である
中止乃至死である
精子卵子である
喰う詩
空詩
空襲である
サイレンである
ヒロシマナガサキである
ナガサキアゲハである
アフリカオナガヤママユである
スワヒリ語である
ジャンボーである
風スル馬牛である
風刺である
風詩である

中略

ゲートルである
巻くのである
膜である幕である
刑事をまくのである
細菌をまくのである
爆弾をまくのである
ふたたびベトナムである
バラまくのである
バラ色の人生である 33-37P

爆弾がばらまかれるヴェトナムにバラ色の人生を重ねる痛烈な皮肉に帰結する終わり方。美空ひばりオバQやら様々な風俗が織り込まれていて、しかしジャンボーから風スル馬牛に繋がるのはよく分からない。音が別に似てる訳でもない場合、次行との関係が分からないのも結構あってそれは当時の知識では分かるものだったりするのかも知れない。1969年の詩集の収録作。

また、「ベトナムに雪降るように」という詩がある。

ベトナムに雪が降る
しんしんと
雪が降る
といえば
人々はおどろくだろう

だが

ベトナムに爆弾が降る
ずしんぱしんと
爆弾が降る
といっても
誰もおどろかない

ベトナムでは
片足ちぎれた赤ん坊でも

少女のからだが
ばらばらに
吹きとんでも

少年の首と胴がはなれて
その首を
すってんころりと
道端にすてても
誰もおどろかない 41P

これなどは今のパレスチナやその他報道されない紛争、戦争、武力行使にも通じる。

小熊秀雄の逝去した1940年、八歳の頃に詩作を始めたらしく、小熊の没後年数が自分の詩作年数だという村田は最後の詩集が2006年、少なくとも66年は詩を書いている。雑誌を創刊したのでも1951年という。

2004年の新紙幣についての「啄木を入れれば完璧」という詩がある。

なんで一枚だけ人物を変えないのか?
景気浮揚のために貧乏で有名な二人を選んだのは
痛烈な批評精神が感じられていい
とすれば

一〇〇〇〇円に啄木を入れれば完璧!
いまどき思想的偏りなんて
云いっこなしよ
山頭火 放哉なんていうのもいいな
そうすりゃ私の財布にも
少しは集まってくるかもしれない 111P

ちょっとユーモラスで良い。

「レオポルトアラゴンの死」

おれは
毎日毎日死を恐れる
詩とは死ぬこととみつけたり
などといいながら死を恐れつつ詩をかく

一九七八年五月一九日号の週刊朝日をみると
パナマ人レオポルトアラゴン教授が
アメリカの大国主義に抗議して
ストックホルムアメリカ大使館前で
自からの身体に火を放ち
姿勢よく数十メートル走って死ぬカラー写真が載っていた

死は抗議である
詩もまた抗議である

死と詩の美しさ
抗議の美しさについておれは考える 59P

1950年代から2006年までの村田の詩作によるちょっとした日本戦後史という趣もある。諷刺詩なので詩が分からないなんてことにはならないだろうし、むしろ入門に適しているのではないだろうか。

岡和田晃『世界の起源の泉』

世界の起源の泉

世界の起源の泉

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著者二つ目の詩集。古典的幻想文学のような趣向に言葉遊びや先行作を様々に織り込んで書かれた形而上詩と、現実を題材に批判・諷刺を込めるプロレタリア詩が収められている。続けて読むとこれらは題材が違うだけでその調子には一貫したものが感じられる。

末尾に参考・引用した作品が明記されていたりもする形而上詩は、それ以外にも私が分かるだけでも多数の文学作品の名前やフレーズ、イメージを種々に取り込んで詩を組立てていくのと、プロレタリア詩が現実の出来事を取り込んでいくその仕方に通ずるものがあるように思える。それでいて形而上詩には見た目にいかつい文字遣いでいながら時折駄洒落じみた言葉遊びが挾まったり随所にユーモアも込められていて、一見した晦渋さを裏切る要素も多分に含まれており、遊び心を感じさせる作りになってもいる。セリーヌを踏まえた詩で「驢馬ン損」とか表記されてたり。また旧ユーゴのイヴォ・アンドリッチJ・G・バラードの引用が同居する詩があったり、文学的引用といっても著者のカバー範囲同様幅が広い。

形而上詩は特に字句の配置が凝っているものがあり、この形式性、間テクスト性、性的なイメージなどなどの技巧がおそらくは抒情性への抵抗なのかなとも感じられる。

その姿勢の由来するところを示唆する、そのものずばりの「反抒情」という詩から。

――総じて日本的抒情とは 首吊りの紐によく似ている。
怒りに自らを燃やしたはずの炎を 同情の涙で沈火させ
同調圧力に従わぬ者を締め上げる 陰湿なやり口が―― 172P

第五部にまとめられたこうしたプロレタリア詩は実体験、石原慎太郎の死、自民党政治、コロナ禍での感染などなどの社会的問題へと批判の矛先が向けられ、著者が解説を寄せた村田正夫の創刊した「潮流詩派」掲載作が多くを占めており、前掲村田の「バラ色の人生」へのオマージュ詩も収められている。

――だからこそ、何度でも言いたい。
病院に爆弾を落とすな、子どもを殺すな、
障害者を殺すな、医療従事者を殺すな、
そもそも、誰であっても殺すな、と!
詩の影響力は微々たるものかもしれないが、
ゼロを1にするだけの決定的な力があり、
それこそが、詩が畏怖される原因なのだ、と 238P

これらのプロレタリア詩における直接的なメッセージは当然形而上詩でも踏まえられているんだろうとは思う。改めて読んでみると実は形而上詩にもやっぱりこれは直接政治的話題に言及した箇所だよな、というところが見つかったりもする。五部からまた冒頭に戻って読むのが良いかもしれない。本書は岡和田晃さまに恵贈いただきました。

一冊目は私が本文の編集を担当したけれど、本書はちゃんとしたプロの人の手になる版面になっていて美麗なのもお薦めポイント。

オルタナ旧市街『お口に合いませんでした』

口に合わない食べ物をテーマにした「憂鬱グルメ小説」と銘打たれた連作短篇集。自主制作本やコンビニプリントなどエッセイを中心に活躍していた著者の商業出版二冊目は小説となった。生々しい食感の描写も読みどころだけれど、連作の形で別人からの視点が入ることでそれを好む人もいること、そしてそうした善意によっても起こるすれ違い、ミスマッチこそ核心だろう。

フードデリバリーのシチュー、植物由来のミートボール、遊園地のクレープ、営業先で薦められたうどん屋、そのまずさの描写がどこかで自分も味わったという共感を誘いつつも、映画館のエピソードが象徴的なように後半では別人の視点から前の話を相対化する話も増え、味の好みの違いが際立ってくる。何篇か読むと気づくけれども、五階建てで五階以外は二部屋ずつの東京のこじんまりとしたあるマンションの住人たちが主要人物になっていて、単身用マンションゆえに皆それぞれ一人の生活を送っており、味の好みが合わないことは食卓を囲む相手がいないことを示している。著者自身の経験も含まれるだろう生々しい食べ物のことがエッセイではなく小説として書かれている理由がここにあり、都市生活者の孤独や憂鬱が帯文で触れられているように、味の感じ方の違いはその相手との疎隔の象徴にもなっている。マッチングアプリがしばしば顔を出すのもその現われだろう。

「ラー油が目にしみる」の秋山は映画館エピソードで視点人物の味覚のおかしさを指摘した人物だけれど、彼もまたキッチンカーで常連がうまいんだよなと言いつつ買っていった料理をまずくて食べられないと捨ててしまうハメに陥っていて、段々、おいしさとは何か、という気分にもさせられる。単身で本社赴任するからあげエピソードの母親は息子が偏食でからあげだけは食べてくれると思っていたら、息子視点のエピソードで母親の料理がおいしくなくてからあげだけは食べられる、という切り返しがされ、母がいないことで料理がグングン得意になっていくのも得も言われぬ切なさがある。

ひとつだけ、どうしてもママには言えないことがある。それはママの料理が全然好きじゃないということだった。日々出される食事に感謝していないわけではない。ただ、それが好みかどうかは別である。おいしくない、と言い切るほどではないが、好きではない。172P

この息子の好みと違う調理法の由来が、どうももっと幼い頃に野菜を全然食べてくれなかった頃の工夫がそのままになっているからのように読める。息子の成長、味覚の変化に気づいていないここにもミスマッチがあり、単身赴任する母のもとを訪れる回で、いくらか和解の予兆も感じられる。

ママの料理を楽しみに帰宅する、そういう光景というのはじぶんにとっては遠い国の物語のようだった。172P

という一節と、この回の最後の一文でのからあげの匂いが「もっと遠くまで届いたらいいのにと思った」が、距離を時間に変換しているようにも読めて面白い。しかしこの中学生の少年が母を「ママ」と呼んでいて、男子だと明確に分かる記述があるまでてっきり女子だと思っていた。男子は小学校高学年あたりでだいたいパパママからお父さんお母さんに切り替えていくと思うので、この少年の母親との関係の一環としての「ママ」なんだろうか。

本に情報がないけどウェブ連載に書き下ろしを加えての書籍化で、書き下ろし以外は連載時に読んでいたつもりでいたけどいくつか未読かも知れない。ウェブ掲載時に随時読んでいたので知っているつもりだったけれど、改めて一気に読んでみるとより面白く読めた感じがある。好食一代男のオマケもいい。

書き下ろしの肉寿司エピソード、肉寿司ってダメな飲み屋の代名詞みたいになってることでしか知らなくて、食べたことがないな。なんか、品のない料理という印象がある。

宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい』

エッセイにも色々あって書評・評論に近いものや日常を切り取るスケッチ的なものもあるけれど、本書では自身の体験を主な題材にして思索を重ねていくスタイルで、日々の出来事を日々思考していく日常的思考としてのエッセイという印象がある。

文芸評論が作品を対象に考えることで、小説が虚構を通して考えることだとしたらそのあいだにエッセイがあるのかも知れない。解説で吉川浩満が「エッセイを書くという行為は、毎回が自らを材料にした実験である」283P、と書いているとおり。そして自己の体験とともに愛読した文芸作品を基点にすることで思考の方向性というか、堂々めぐりを回避し適切な距離を取っているというのは二つ解説でつとに指摘されている本書の特徴でもある。これもまた平熱と熱狂のバランスを取ることなのかも知れない。

日常の雑感から話を広げたりコミカルなものもあるなかで本書の根幹になっているのはアルコール依存症とそこからの脱出をめぐる、自身の弱さに向き合うことについての思索だろう。表題はまさにアルコール無しの「平熱」での情熱を意味したものだ。

僕は意志が強くなどなっておらず、相変わらず弱い。しかし、酒に手が伸びそうになったとき、僕を寸前で止めてくれるのは、むしろ「弱さ」のほうである。再び敗北するのを恐れる臆病な「弱さ」が、酒をコントロールできるという思い込みから、僕を少しだけ引き離してくれる。44P

弱さを自覚して自己の制御を学ぶこと、このアルコール依存症からの脱出の経験が本書の底流となっている。折に触れて何かについて考えるということ、迷いを口にしながら次善の策を考えていくことは「弱さ」を認めるからこそ始まる営みなのかも知れないと思わせるものがある。

本書冒頭の優しさとは何かを考えたエッセイに述べられている「0を作る理論」というのは非常に面白かった。腕力に差がある相手と買い物に行ったりした時、荷物を二人で分け合うのではなく、自分が全部持つことで相手にゼロを作る。五対五に分け合うのではなく、10対0を作れるなら作った方が良い理論。日本ではみな平等に辛い思いをするべきだのような空気があるけれど、それでは人を助ける余裕のある人が声を上げづらくなり、自分が辛くなった時に誰からも助けられなくなるのではないか、という打算もあると言っているけれども、五対五では恩を売ってるようでちゃんと売れてないとも言える。この理論、アメリカの女性最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグの「連邦最高裁判事のうち何人が女性になったら満足するのか、と聞かれることがあります。私の答えはいつも同じ、『9人』です」という発言と同じような、こちらの考えの盲点を突くような新鮮さがあった。

アルコール依存症、父の死、コロナ禍での妻の出産について病院に自分が行くべきかどうかを迷い続けるくだりなどの印象的な部分も多いけれど、読書家の祖父に一番すごい作品はなにと聞いて『カラマーゾフの兄弟』だけどロシア文学は暗くなるから読んではダメだと言われての話は笑った。

祖父は若い頃、地方紙かなにかに小説を投稿していた。何度落選しても送ってくる執念にまいったのだろう、担当者から電話がかかってきて、「君の小説は暗すぎていけない」と助言されたらしい。ちなみに、祖父の名は陽太郎である。70P

ちょっとしたアネクドートとして完成度が高い。

しかし著者はアルコールはやめてエナジードリンクを飲んでるというのは大丈夫かだろうかと思った。私はエナジードリンクを飲んだことがない。毎朝夏はペットボトルのカフェオレ、冬はホットの甘い缶コーヒーを飲んでる自分が言うのもなんだけど、エナジードリンクはより危うい気がしている。

子供の頃に鼻呼吸を覚えて「肉」から「人」になったという話はなかなかすごくて、発達障碍の人が薬を飲んで意識が鮮明になった話を思い出す。呼吸でそれほど変わるとは。そういうことは良くあることなんだろうか。

最後にあるこのくだりは日常的思考としてのエッセイの要諦といえる。

日常では、ありとあらゆる「何もかも」が起こっている。非日常のほうがいろいろなことが起こるではないかと思うかもしれないが、それは違う。非日常では、その非日常性がもたらす「何か」に焦点が絞られ、実はたくさんのことが起こらない。非日常は、日常を極端に限定させたかたちで目の前に立ち上がらせる。非日常には、非日常的なことしか起こらないのだ。一方、日常は本当にありとあらゆる「何もかも」が起こっている。その「何もかも」が起こっていて、ありのままの確かさを摘み取ることができる凪の日常を僕は愛したい。一生懸命に「寂しい人」を生き、平熱のまま、この世界に熱狂したい。261-2P

横田創『埋葬』

十年以上前に早川書房の〈想像力の文学〉叢書の最終巻として発表された、魅惑的な人物の言行による欲望の転移・感染に見舞われるような言葉の不気味さを感じる表題長篇と、貧しい女子大生が窃盗に手を染めるなかで金銭の移動と欲望の移動を描く中篇他一篇を収める作品集。

『埋葬』は十数年ぶりに読んだけれどもやはり読めたという感じはほとんどなく、蠱惑的な魅力と不気味さを備えた作中の独特の主張の数々を色々並べてみてはどういうことだったんだろうと途方に暮れながらも何かすごいものを読んだ、という実感は残る。

話としてはある母と娘の死体遺棄事件が起こり容疑者とされた少年の裁判中、死体を運んだのは自分だと告白する夫の手記が発表され、その10年後にあるジャーナリストの調査として、その夫の手記や収監された少年との面会での対話が記され、少年、妻、夫の三人の関係が明らかにされていくというもの。

全貌や真理はおぼろげだけれど、一つ今作で重要だと思うことは死者が二人確実に存在している事件のなかで、殺したのは誰かというのが次々と変わっていくということだろう。それが同時に彼女は私だ、というような主体・主語の混濁、移動、僭称などとも呼びうる行為とも絡み、小説の語りとも重なる。

他人ではなくて自分であると思わなければ、たとえどんなにささいなことであってもなにかをひとに言うことはできない。ましてや指図したり命令することなどできない。他人のわたしにそんなことができるはずがない。39P

大学の友達と比べて明らかに貧しく遊ぶ金を捻出できないトンちゃんが窃盗に手を出していく犯罪小説の中篇「トンちゃんをお願い」を読んでみると、財布を移動する金銭に象徴される欲望の転移が描かれていて、「埋葬」と仕掛けに共通するところが多いと思われ、両方読むと理解度が上がると思う。

「トンちゃんをお願い」にはトンちゃんが窃盗に至るまでの金銭的苦労が描かれていてそこに貧困と犯罪のテーマもあるんだけれど、終盤に明かされるそもそものきっかけがあり、金銭の無断の移動がそれを再生産してしまうというDVめいた連鎖性の話にもなっている。またそこでなされる無断の行為が主語というか主体性、自己同一性を揺るがすものでもあって、ここに「埋葬」にもあった主体の混濁、殺した主体の移動にも繋がっているんだろうと思われる。欲望の転移、感染、連鎖をめぐるテーマはその欲望は私のものなのか、という問いに絡む。

解説によれば「埋葬」は細かく読むと殺された妻の意図が明確に分かるように書かれているらしい。そこまで読むことはできてないけど、ミステリ読みの人ならいけるのかも知れない。芥川「藪の中」の変奏とも言える作品で、「藪の中」の古典としての強さを感じさせる。本書は担当編集様より恵贈いただきました。

これだと分からないけど叢書版の帯が茶色い半透明のもので、帯をつけると描かれてる人物が土のなかに入るように見えるという仕掛けがある。

岡和田晃さんの解説では、彼とともに10数年前に〈想像力の文学〉を特集した同人誌「幻視社」第六号が触れられていて私の名前が出て来て驚きました。