何も知らずに見た。
ホラーだった。
ホラーもまた物語というジャンルのひとつ故、プロットというのかロジックというのか、物語上の設定に不備があってはならない。
ホラーはドラキュラに代表されるように魔物的存在が引き起こす出来事からサイコパスに至るまで様々なものがあるが、この作品では「抑圧された子どもの想念」が元になっている。
この子どもたちの群像がテイラーでありアリスだ。
しかしこの抑圧された子どもの想念の攻撃対象は主人公ジェシカだった。
彼女は幼い頃の想い出すべてに蓋をした人物で、その根源が突然別人の様に変わってしまった父という設定となっている。
ジェシカのそれまでの家族や人生は素晴らしいものだった。
母の死
精神的な問題による自殺
これこそジェシカの中にあった豊かな明るい想像力が逆転してしまった出来事だったのだろう。
現実という理不尽な出来事
いつまでも想像の世界には住めない事実
死という許せないもの その根源となった精神病
ジェシカという子供が作った絶望というイマジネーション
それが悪魔的存在であるチョンシーを呼び寄せたのだろう。
豊かなイマジネーションの背後に作ってしまった許せない世界
この子ども特有の想像世界は、ネットワークのように子供たちをつないでいるというのがこの作品の設定
そしてこの想像された世界は、虐げられた子供たちのイメージで作られている。
面白いのがそこにいる中心的な存在で、その世界の核であり、対峙すべき対象となていること。
これはたくさんの作品で使われている設定だが、そう考えてしまう作り手というのかそれに納得する視聴者も含め、個人的には不思議に思ってしまう。
中心的、核、明確な対象 こういうのが必要なんだなと枠の外から見ているように感じてしまう。
さて、
最近の作品の作りは多少なりとも凝っている。
セリフにもあるが、悪魔的なものが狙っていたのはアリスではなくジェシカだった。
父との確執の真実
夫の連れ子との仲
さらに、虐待された子どもを養子にしたこと。
これらが最初に示されるが、その家庭の事情は日本では稀なことに少々戸惑うが、これこそこの物語の世界観だった。
ただ、ホラー特有の終わり方はいいが、同時にチョンシー世界がどこにでもあることを想像させる。
ドクターのケースにもあったことでもそれが窺い知れるが、実際子どもがいなくなってしまうのは確かに恐ろしい。
とくにアメリカでは年間約36万人の子供が行方不明になっている。
この原因をホラーに求めるのは、ある意味自然なことかもしれない。
また、チョンシーが見えるのはアリスとジェシカだけというのも面白い設定だった。
このシーンで、悪との対峙対象がジェシカということがはっきりする。
しかし、グロリア婆さんだけがなぜ犠牲者となったのだろう?
彼女は「存在」という言葉を口にした。
それは、子供たちのイマジナリーフレンドが現実世界に影響を及ぼす力を持つ存在のことを指している。
グロリアはジェシカの幼少期のイマジナリーフレンドであるチョンシーの存在を理解しており、その危険性を知っていた。
同時にそんな世界があることを認識し、本を書いた。
彼女の考える世界を人々はばかげていると笑ったが、実際グロリアの認識は正しかった。
ジェシカ家族も似たようにチョンシーに襲われるが、グロリアだけがすぐに餌食となってしまう部分が、少々惜しい点だった。
やはりこの作品はティーンズ向けなのだろう。
あくまでホラーなのだが恐ろしさは控えめだ。
この部分はホラー愛好家たちをがっかりさせるだろう。
しかし、内容的には多少考えさせる作りになっている点は、ティーンズカップルを対象にしているのだろう。
しかし、外人のニックネームというのは少々慣れない。
ジェス = ジェシカ
アリス = アリーキャット
ここが面倒くさいが、アリスが何者かという説明上必要だったのだろう。
アリスがいなくなった時、テイラーはジェシカに「やることすべてが逆効果だ」と言ったが、こここそが人生というものだろう。
乗り越えなくてはならないことを人生が提示しているのだろう。
個人的にもそんなことしか起きないことに辟易するが、物語にそれがなければ退屈極まりない。
怖いのが苦手な人も大丈夫なホラーだった。