風土を感じる
1999年 イラン作品
ストーリーは無い
面白さはない
だから
映像をよく観て
音をよく聴いて
イランの風土を感じてみた
ジグザグ道 デコボコ道
ブーンブーン(車)
コケコッコー(鶏)
メェメェ(山羊)
ピービー(鳥)
ワンワン(犬)
カランコロン(カウベル)
ノソノソ(亀)
コロコロ(フンコロガシ)
ジョリジョリ(髭剃り)
オギャーオギャー(赤ん坊)
ザクザク(穴掘り)
紅茶を飲む
神に祈る
カシャカシャ(シャッターを切る)
サラサラ(川は流れる)
……
すると
イラン的「諸行無常」が感じられた
『風土』(和辻哲郎)
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乾燥の生活は「渇き」である。すなわち水を求むる生活である。外なる自然は死の脅威をもって人に迫るのみであり、ただ待つものに水の恵みを与えるということはない。
人は自然の脅威と戦いつつ、砂漠の宝玉なる草地や泉を求めて歩かねばならぬ。そこで人は生くるためには他の人間の脅威とも戦わねばならぬ。
ここにおいて砂漠的人間は沙漠的なる特殊の構造を持つことになる。
(1)人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも対抗的・戦闘的関係として存する。人が自然において見るところのおのれは死である。死を見ることによって人は生を自覚する。
すべての「生産」は人の側にあり、従って外なる自然の生産を「恵み」として待ち望むことはできぬ。草地と泉と井戸とを自然より戦い取ることによって人は家畜を繁殖させる。「産め、増やせ」が死に対する生の戦いの叫びである。
(2)自然との戦いにおいて人は団結する。人間は個人としては沙漠に生きることができぬ。従って沙漠的人間は特にその共同態において現れる。
草地や泉を自然から戦い取るのは共同態における人間である。しかしこの戦いにおいて人間はさらに他の人間と対立しなくてはならぬ。
一つの井戸が他の部族の手に落つることは、自らの部族の生を危うくする。ここでは人と世界との統一的なかかわりが、人間と「他の人間世界」とのかかわりとなる。
そうしてここでもまたそれが対抗的・戦闘的関係であり、そこからまた人の子を「産め、増やせ」という標語が生ずる。人口増殖の神の契約が「割礼」を人間に課したことは、沙漠的人間のこの特性を表現したものである。
沙漠的人間の構造は右(前述)のごとき二重の意味において対抗的・戦闘的である。しかるに沙漠的人間はただ歴史的にのみ存在する。従って対抗的・戦闘的なる特性の現わるる場所は、沙漠的人間の歴史である。
歴史的に造られた諸形像である。
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『友だちのうちはどこ?』
『そして人生は続く』
『オリーブの林をぬけて』
『桜桃の味』
アッバス・キアロスタミ監督が描く
沙漠的人間
歴史的に造られた諸形像
……
監督の声が聞こえた気がした
……
……
この世界は美しい