サッカー日本代表遠藤・今野の『観察眼』を読む
- 作者: 遠藤保仁,今野泰幸
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/01/10
- メディア: 新書
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本書は三部構成となっています。第一部は今野の観察眼、第二部は今野と遠藤の対談+代表戦の分析、第三部は遠藤の観察眼です。第一部は、今野がこれまでどうサッカー人生を歩んできたかという今野の個人史、第二部は同じ試合を今野と遠藤、それぞれの視点から回想している箇所、第三部は、遠藤の日本代表観が興味深いです。
こないだのウルグアイ戦で、豊田が交代出場した際、ロングボール入れてパワープレイという感じになりませんでしたが、本書を読んで納得。遠藤はパワープレイに否定的なのですね。
「満洲国」建国過程で誰を省長に登用したか
Last Emperor of China / tonynetone
満州事変では、日本は独立運動を支援するという体で、溥儀を傀儡国家の執政(のち皇帝)として担ぎ出すわけですが、では大臣などその下の役職はどうなっていたのでしょうか。日本人が全部担当したわけではありません。それらのポストを担当する者を担ぎ出す必要があったわけです。やり方としては、二通りが考えられます。
- 地位の低い者を格上げして強引に高い役職につける
- もともと地位の高い者をそのまま高い役職につける
もちろん、2のやり方のほうがいいわけでして、日本が実際にめざしたのも2です。
ここでは、省長のポストについて簡単にみてみましょう。「満洲国」の範囲に該当するのは、遼寧省、吉林省、黒龍江省、熱河省です。独立という体裁を整えるのに一番いいのは、それぞれの省長*1に独立を言わせて、そのままそのポストにつかせることです。日本はこのやり方を進めようとします。
- 遼寧省主席は臧式毅。事変後、臧を軟禁したうえで遼寧省長に据えます。
- 吉林省では事変勃発時、主席が留守でした。軍のナンバー2*2であった煕洽が実権を握り、のち省長となります。煕洽は清朝復活をめざしており、日本に協力的と言えます。
- 黒龍江省では状況が入り組んでいるのですが、簡単に言うと、事変後、張学良により馬占山が主席に任じられます。馬は日本と対峙しますが、やがて帰順して省長となります。しかしまた反旗を翻します。そこで騎兵第2旅長の程志遠、そのあとは省実業庁庁長の韓雲階が省長となります。「大物」を確保できず、人材難であったと言えます。
- 熱河省では、主席の湯玉麟が日本側の要求を受け入れ、いち早く独立しますが、その後の態度があいまいで、結局、日本軍の侵攻が始まり、湯を追い出すこととなります。省長となったのは、張海鵬です。張はもともと遼寧洮遼鎮守使兼東北騎兵第32師師長で大物といえます。
このように2のやり方をめざしましたが、順調に事が運んだとは言えません。強引にカタチを整えました。
さて黒龍江省を除いて、大物を登用しています。しかし日本側は大物にそのまま自由にやられては困るわけです。一番いいのは、建国が一応整ったら、彼らの力を骨抜きにすることです。34年12月、彼らは省長を交替させられて、名誉職へと追いやられます。
兵馬俑に行ってきた
西安の兵馬俑に行ってきました。幼少のころ、祖父の家で兵馬俑の本を見て衝撃を受けて以来、ずっと頭のすみにあった兵馬俑、ついに見ることができました。実際見ても衝撃的です。
西安の観光スポットはとても多く、簡単に言えば、市内、郊外東・西・南・北に分かれまして、兵馬俑は郊外東部にあります。
まず驚かされるのは、入口で客をまちかまえるガイドの多さ。ガイドの森に突入していく感じです。もちろん積極的にというか猛烈に営業をかけてきます。日本語ガイドは3人みたいです。その1人のガイドさん(中年男性)に案内してもらいました。
上の写真は、横からのものですが、もちろん正面からも見れます。面白いのは、向い合って立っているところ。司令部らしいです。なんか、味わいがあります。
もともとは兵馬俑には色が着いていたのですが、発掘して空気に触れると色が落ちてしまうとのこと。なので新たな発掘はしないで埋めたままにしていると。 発掘技術の進展が待たれるところです。
またこれにも衝撃を受けました。
始皇帝陵墓近くで発掘された青銅馬車です。二千年前とは思えない、馬車のディテール。完成度の高さ。唸らされます。すげーすげー言いながら、色んな角度から写真をとりまくってしまいました。
週刊世界の美術館 no.79―最新保存版 陝西歴史博物館と兵馬俑博物館
ある歴史的事象について語る際
ある歴史的事象について語る際、いろいろな切り口があっていいわけで、新しい切り口によって、その事象に対する認識が深まっていくこともあるわけですが、外すことのできないポイントもあると思います。例えば世界を巻き込んで重大な影響を与えたような側面は、その外せないポイントとなるでしょう。そのポイントを外していたり、それと齟齬するような発言であったら、発言者は批判を受けても仕方がないでしょう。あえてそうするのなら発言者は、一言断りがあってしかるべきでしょう。
1933年ドイツの全権委任法はなぜ成立したか
1933年3月23日、ドイツの国会で可決された全権委任法(政府に立法権を委ねた法律)は、ナチス独裁確立の一つの画期となるものであるが、南利明「NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-2-」*1を参考にすると、法案が成立したポイントとして次の5つを挙げられる。
- すでに授権法の前例があり、また31、32年には大統領による緊急命令が議会の立法を上回るなか、政府への広範な授権に対して人々の心理的抵抗は強くはなかったこと
- 与党であるナチス党(議席数288)・国家人民党(52)以外の議員が議決に参加しなくても法案の成立が可能となる条件が整えられていたこと
- 共産党議員(81)と一部の社民党議員*2が逮捕されていたこと
- 中央党(74)は、法案に反対してもすでに2月28日の大統領令*3がある限り、ナチスの暴力支配を止めることは不可能と考えたこと
- 上院に当たる連邦参議院議員は州政府の指示に拘束される仕組みとなっていたが、すべての州政府はすでにナチス支配下に置かれていたこと
投票総数535、反対94、賛成441で法案は可決した。反対票を投じたのは社民党だけであった。連邦参議院もそれを全会一致で承認した。
あの手口、学んだらどうかね
都内での講演における麻生発言である。
ナチスについて悪しき例として言及したいのなら、なぜ「手口」という言葉をつかうのか。「教訓」を使えばいいのに。
憲法改正が政治日程に上りつつあるなか、ここ最近の自民党の憲法に関する発言がこわい。危機感とともに記す。
兵役の悪影響
○論説「兵営教育の欠陥」『読売新聞』1903.1.29−30
第一先づ兵営が罪悪を知らない純潔なる青年をして堕落せしむるといふことハ、今日何人も認る事実である、蓋し兵営ハ社会下層の壮年子弟の集る所で、中にハ目に一丁字なきものをさへ混て居るのであるから、其平常の話柄の如きハ、実に卑猥極るもので、其直接の監督者といふたら、矢張是等と其身分、教育に於て径庭のない上等兵と云ふものであるから、平常其兵卒の言動を取締る所が、却て自分の慰み半分、之を奨励する傾向があると云ふことである、而して啻に其談話の卑猥な許りでなく、彼等ハ其休日に相率ゐて常に汚はしい場所に出入りするのを唯一の快楽として居るといふ有様である、
第二の精神的虐待と云ふのハ、兵役の義務を果して帰る壮年子弟ハ、如何に勤勉な者でも、皆労働を嫌がる怠惰者となつて仕舞ふことである、其原因ハ大体二つある、一つハ兵営の精神教育と云ふものが、義勇奉公と云ふ唯非常に処する場合の道徳許り教へる結果、所謂社会的業務に対する熱心忠勇と云ふ様なことハ、之を忽にするからであらう、尚一つの原因ハ今の軍隊教育が常に百姓町人に柄にない武士的精神を鼓吹して、『貴様達ハ軍人でハないか、国家の干城でハないか』と、常に豪放、磊落、空威張の習慣を養はしむる結果、其壮丁が急に皆気位許り高くなり、遂に兵役が済んで家に帰ると、最早や昔の着実な考ハなくなつて、鋤鍬を取つて田野に労働することが嫌になり、さてこそ相帥ゐて巡査や憲兵の様な威張つて飯を食ふことを好む様になり、甚しきハ手の付けられない無頼漢になつて仕舞ふもの迄出来るのである、
このように兵士が堕落し、労働を厭うようになるのを防止する対策として、兵営内の娯楽の充実がなされる。