虎と馬が私の心の大草原を駆け巡る。

嘘だけど。そんなに広くないし潤っていません。だいたい走り回る余地なくぎゅうぎゅう詰め。胸いっぱい。

「ボクの大好きなお母さんは、ボクを預ける託児所を必死に探しています…ボクのことキライなのかな?」ってなると思うんだけど…。 | wagonR35〜R35デザイナーに見えるもの

子供いないのに言うのも恐縮なんですが…、

ニュースで毎日世のお母さんたちが「託児所がない、ない」言ってるんですが、それを見ている子供たちの気持ちのこと、お母さんたちはどう考えてるんだろう…。

世のお母さんたちは、ちゃんと「ボクの気持ち」を、気にかけてあげてるのかな?


なにか世の中のひずみな気がしますね、ボクらはいいけど…子供らにはね…。

ここまで引用。
こういうナイヴさはたまりませんね。
「ボク」という言葉が「書き手」と「読み手の子ども」、そして想像上の「託児所を探している母親の子ども」の三重の意味にとれるという高度な自己愛表現が私こと読み手の幼児期の虎とか馬とかをところてんのごとく記憶から絞り出してくれます。いや私には子どもいませんけどね。そっちも想像上か。
父母が働いていた我が家では、当然のように私は保育所に行ってました。そこにはキライとかなんとかの論理が入り込む余地はありません。まあ最初はぎゃーぎゃー泣いたそうですけどね。泣くのにも体力要りますからね。そんなに毎日ぎゃーぎゃー言ってられなかったんじゃないでしょうか。最後の方にはそこそこ楽しくやってたそうですよ。
問題は小学校に入ってからでね。終業から父母が帰ってくるまではタイムラグがあるわけです。それまでは私は鍵っ子生活。兄弟では一番年上だった私は、父母が弟たちを保育所から救い出して帰ってくるのをじっと待っていました。必殺仕事人の再放送見ながらね。今と変わらずインドア派だったのですが、そのころ買ってもらった折り紙の本にも魅了されていまして、ある日のこといつになく熱中してスーパーの袋いっぱいに折り紙が折れたんですね。結果にはあまり興味がなかったんですが、さすがにその量には自分でもびっくりしました。いや、このときの気持ちを正直あまり覚えていないのですが、大量に作って折り紙に飽きたところだったんでしょうね。こんなに作っても帰ってこないのか、まだかなーって感じですかね。玄関の開く音、母のただいまの声に、私は袋持ってすっ飛んでいきましたよ。
「おかえり! ねえ、折り紙折れた!」
褒めてほしかったんだと思います。母は返事をしません。見たこともない表情でね、私は母のはじめて見る表情にショックでした。今ならはっきりわかるのですが、見えたのは哀れみと悔恨でした。そのとき私は折り紙なんて見せなければよかった、というような気持ちだったでしょうか、たぶん。そうか、私はかわいそうな子どもなのか。ごめんなさいと思われなければ気付かなかったのに。
家に独りで残してごめんね、と母が口にしたかどうかは覚えていません。そのあとの記憶もはっきりしないのです。あとになって、罪悪感でいっぱいだった、と言われましたので、そのあたりごっちゃになっている可能性は高い。
まあインドア派の私がそのあとできるだけ外遊びに出ようとしたのはそんな経緯ですよ。


母親の罪悪感が、あの瞬間私こと子どもに歪んだかたちで伝達した、という事実として私は認識しています。
なんで記事を読んで私がこんなことを思い出したか。
そう、母に罪悪感を抱かせたのはお前のようなやつなのだな、という恨み節です。筋違いもはなはだしいですね。
ザコンの戯れ言、見苦しい読み物で失礼しました。ああ書ききれてよかった、すっきりした。