高倉寿子

明治・大正時代の皇室女官

高倉 寿子(たかくら かずこ[1]1840年10月6日天保11年9月11日[2] - 1930年昭和5年)1月27日)は、明治大正期の典侍。女房名新樹

高倉寿子

公家高倉家の出身(高倉永胤の三女)[2]左大臣一条忠香に出仕[3]1868年忠香の三女美子(のちの昭憲皇太后)が明治天皇皇后として入内する際、輔導役として宮中に入り典侍となる。のち女官長となり、皇后宮大夫の意見を皇后に伝えたり、皇后の公式行啓等に必ず参加したり、女官たちの監督等、宮中の事柄を取り仕切った。皇太后の没後、1915年職を辞し京都に隠棲。1930年死去。享年91。

脚注

編集
  1. ^ 山川三千子『女官 明治宮中出仕の記』、講談社学術文庫
  2. ^ a b 『日本赤十字社社員記念写真帖 第1輯』日本赤十字社社員記念写真刊行会、1923年、p.22。
  3. ^ 20世紀日本人名事典. “高倉 寿子とは”. コトバンク. 2021年4月10日閲覧。

関連項目

編集