声公(せいこう、生年不詳 - 紀元前463年)は、春秋時代の君主。姓は姫、名は勝。范氏中行氏の乱に加担して危難を招き、と激しく争闘して、かれの時代に鄭はますます弱体化した。

声公 姫勝
公(周制による爵位は伯)
王朝
在位期間 紀元前501年 - 紀元前463年
都城 新鄭
姓・諱 姫勝
諡号 声公
没年 紀元前463年
献公

生涯

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鄭の献公の子として生まれた[1]紀元前501年4月、献公が死去すると[2]、声公は後を嗣いで鄭公として即位した[1]紀元前499年と講和した[3]紀元前495年、鄭の罕達が宋軍を老丘で破った[4]紀元前493年、鄭は晋の范氏・中行氏の乱に加担し、罕達率いる鄭軍は范氏のもとに兵糧を輸送した。鄭軍は戚で晋の趙鞅率いる軍と遭遇し、鉄の地で会戦して敗れた[5]紀元前490年、駟秦が鄭人に殺害された[6]紀元前488年、宋の皇瑗が軍を率いて鄭に侵攻した。この年、宋軍がを包囲すると、駟弘が鄭軍を率いて曹を救援した。[7]紀元前486年、鄭軍が宋の雍丘を包囲した。宋の皇瑗が救援の軍を率いて鄭軍をさらに包囲して破った[8]紀元前483年、宋の向巣が鄭を攻撃して鍚を占領し、元公の孫を殺し、嵒を包囲した。鄭の罕達が嵒を救援し、宋軍を包囲した[9]紀元前482年、鄭の罕達が宋軍を嵒で撃破した[10]紀元前480年、鄭軍が宋に侵攻した[11]紀元前475年、斉を中心に廩丘で会盟がおこなわれ、晋に対する攻撃が謀議されたが、鄭が脱落したため、密約は成らなかった[12]紀元前469年、鄭軍は斉軍とともにを攻撃した[13]紀元前468年、晋の智瑶が鄭を攻撃した。鄭の駟弘はに救援を求めた[14]紀元前463年、声公は死去し、子の哀公が鄭公として即位した[1]

脚注

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  1. ^ a b c 史記』鄭世家
  2. ^ 『春秋左氏伝』定公9年
  3. ^ 春秋左氏伝』定公11年
  4. ^ 『春秋左氏伝』定公15年
  5. ^ 『春秋左氏伝』哀公2年
  6. ^ 『春秋左氏伝』哀公5年
  7. ^ 『春秋左氏伝』哀公7年
  8. ^ 『春秋左氏伝』哀公9年
  9. ^ 『春秋左氏伝』哀公12年
  10. ^ 『春秋左氏伝』哀公13年
  11. ^ 『春秋左氏伝』哀公15年
  12. ^ 『春秋左氏伝』哀公20年
  13. ^ 『古本竹書紀年』晋紀出公6年
  14. ^ 『春秋左氏伝』哀公27年
先代
献公
君主
前501年 - 前463年
次代
哀公