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'''ベルベル人'''(ベルベルじん)は、[[北アフリカ]]([[マグリブ|マグレブ]])の広い地域に古くから住み、[[アフロ・アジア語族]]の[[ベルベル諸語]]を[[母語]]とする人々の総称。北アフリカ諸国で[[アラブ人]]が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する[[先住民族]]である。形質的には
'''ベルベル人'''(ベルベルじん)は、[[北アフリカ]]([[マグリブ|マグレブ]])の広い地域に古くから住み、[[アフロ・アジア語族]]の[[ベルベル諸語]]を[[母語]]とする人々の総称。北アフリカ諸国で[[アラブ人]]が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する[[先住民族]]である。形質的には、元来は[[コーカソイド]]だったと考えられるが、[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]など混血により一部[[ネグロイド]]化した部族も見られる。[[宗教]]は[[イスラム教]]を信じる。


ベルベル人という名称は[[ローマ人]]による蔑称である<ref>{{Cite book|和書|title=改訂版 世界の民族地図|date=1997年12月20日|year=|publisher=作品社|author=高崎通浩|page=243|edition=初版第1刷|NCID=BA33978970|isbn=4878932910}}</ref>。ベルベルの呼称は、[[ギリシャ語]]で「わけのわからない言葉を話す者」を意味する[[バルバロイ]]に由来し<ref>{{Cite web|和書|title=サハラ砂漠のラクダ使いに1日密着してわかったこと「チャンスがあれば観光客をナンパ」「世界中の言葉を使いこなす」など|url=https://rocketnews24.com/2017/09/19/955030/|website=ロケットニュース24|date=2017-09-19|accessdate=2019-11-21|language=ja}}</ref>、[[ヨーロッパ]]の諸言語で Berber と表記されることによる。
元来は[[コーカソイド]]だったと考えられるが、一部に[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]など形質が[[ネグロイド]]化した部族も見られる。[[宗教]]は[[イスラム教]]を信じる。

ベルベル人という名称は[[ローマ人]]による蔑称である<ref>{{Cite book|和書|title=改訂版 世界の民族地図|date=1997年12月20日|year=|publisher=作品社|author=高崎通浩|page=243|edition=初版第1刷|NCID=BA33978970|isbn=4878932910}}</ref>。ベルベルの呼称は、[[ギリシャ語]]で「わけのわからない言葉を話す者」を意味する[[バルバロイ]]に由来し<ref>{{Cite web|title=サハラ砂漠のラクダ使いに1日密着してわかったこと「チャンスがあれば観光客をナンパ」「世界中の言葉を使いこなす」など|url=https://rocketnews24.com/2017/09/19/955030/|website=ロケットニュース24|date=2017-09-19|accessdate=2019-11-21|language=ja}}</ref>、[[ヨーロッパ]]の諸言語で Berber と表記されることによる。


自称は'''アマーズィーグ'''(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)である。'''アマジグ人'''、'''アマジク人'''という呼称もこれ由来である。イマジゲンと呼ばれることも多い。
自称は'''アマーズィーグ'''(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)である。'''アマジグ人'''、'''アマジク人'''という呼称もこれ由来である。イマジゲンと呼ばれることも多い。


== 居住地域 ==
== 居住地域 ==
ベルベル人は{{仮リンク|カビール|en|Kabylie|FIXME=0|label=}}、{{仮リンク|シャウィーア|en|Chaoui people}}、{{仮リンク|ムザブ人|en|Mozabite people|FIXME=0|label=}}、[[トゥアレグ]]の4部族をはじめ、[[リーフ地方|リーフ人]]、{{仮リンク|シェヌアス|en|Chenouas}}、{{仮リンク|シルハ|en|Shilha people}}、{{仮リンク|ザイエン|fr|Zayanes|en|Zayanes}}、[[:en:Igawawen|Igawawen]]、[[グアンチェ]]、[[イバード派]]、{{仮リンク|シウィ人|en|Siwi people|label=}}などの諸部族に分かれる。東は[[エジプト]]西部の砂漠地帯から西は[[モロッコ]]全域、南は[[ニジェール川]]方面まで[[サハラ砂漠]]以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、[[アルジェリア]]で同5分の1、その他、[[リビア]]、[[チュニジア]]、[[モーリタニア]]、[[ニジェール]]、[[マリ共和国|マリ]]などでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主に[[フランス]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ドイツ]]などに居住している他、北米では[[カナダ]]の[[ケベック州]]にも居住している。
ベルベル人は[[カビール人|カビール]]、{{仮リンク|シャウィーア|en|Chaoui people}}、{{仮リンク|ムザブ人|en|Mozabite people}}、[[トゥアレグ]]の4部族をはじめ、[[リーフ地方|リーフ人]]、{{仮リンク|シェヌアス|en|Chenouas}}、{{仮リンク|シルハ|en|Shilha people}}、{{仮リンク|ザイエン|fr|Zayanes|en|Zayanes}}、[[:en:Igawawen|Igawawen]]、[[グアンチェ族|グアンチェ]]、[[イバード派]]、{{仮リンク|シウィ人|en|Siwi people|label=}}などの諸部族に分かれる。東は[[エジプト]]西部の砂漠地帯から西は[[モロッコ]]全域、南は[[ニジェール川]]方面まで[[サハラ砂漠]]以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、[[アルジェリア]]で同5分の1、その他、[[リビア]]、[[チュニジア]]、[[モーリタニア]]、[[ニジェール]]、[[マリ共和国|マリ]]などでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主に[[フランス]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ドイツ]]などに居住している他、北米では[[カナダ]]の[[ケベック州]]にも居住している。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
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ベルベル人の先祖は[[タドラルト・アカクス]](1万2000年前)や[[タッシリ・ナジェール]]に代表される[[カプサ文化]](1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。
ベルベル人の先祖は[[タドラルト・アカクス]](1万2000年前)や[[タッシリ・ナジェール]]に代表される[[カプサ文化]](1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。


ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、[[フェニキア]]から北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がった{{仮リンク|フェニキア人 (紀元前12世紀)|de|Phönizier|nl|Feniciërs|ru|Финикийцы|label=フェニキア人}}<ref>フェニキア人をラテン語で「{{仮リンク|ポエニ人|en|Punics}}」という。カルタゴに住むフェニキア人とその末裔を、後のローマ人はポエニ人と呼んだ。</ref>が[[カルタゴ]]などの交易都市を建設すると、[[ヌミディア]]の[[ヌミディア人]]や[[マウレタニア]]の{{仮リンク|マウリ人|en|Mauri people}}などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。また、古代エジプト王朝とは緊密な関係にあり、傭兵となって王国軍の主力になり活躍することもあれば、王権の弱体化によって[[エジプト第22王朝|王位を簒奪]]することもあったし、ナイルデルタ地域へ略奪に来ることもあった。[[古代ギリシア]]ではキレナイカ以東のベルベル人のことを[[古代リビュア|リビュア人]]と称していた。西のマウリやヌミディアのマッサエシュリ部族とマッシュリー部族は部族連合を組んで集権的な国家を整えていくが、東のガラマンテス族達は小部族が合従連衡する状態から抜け出せないまま現代に至り、[[2011年リビア内戦|リビア内戦]]の遠因となった。
ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、[[フェニキア]]から北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がった{{仮リンク|フェニキア人 ||}}<ref group="注釈">フェニキア人をラテン語で「{{仮リンク|ポエニ人|en|Punics}}」という。カルタゴに住むフェニキア人とその末裔を、後のローマ人はポエニ人と呼んだ。</ref>が[[カルタゴ]]などの交易都市を建設すると、[[ヌミディア]]の[[ヌミディア人]]や[[マウレタニア]]の{{仮リンク|マウリ人|en|Mauri people}}などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。また、古代エジプト王朝とは緊密な関係にあり、傭兵となって王国軍の主力になり活躍することもあれば、王権の弱体化によって[[エジプト第22王朝|王位を簒奪]]することもあったし、ナイルデルタ地域へ略奪に来ることもあった。[[古代ギリシア]]ではキレナイカ以東のベルベル人のことを[[古代リビュア|リビュア人]]と称していた。西のマウリやヌミディアのマッサエシュリ部族とマッシュリー部族は部族連合を組んで集権的な国家を整えていくが、東のガラマンテス族達は小部族が合従連衡する状態から抜け出せないまま現代に至り、[[2011年リビア内戦|リビア内戦]]の遠因となった。


=== ローマ帝国 ===
=== ローマ帝国 ===
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{{仮リンク|イブラーヒーム1世 (アグラブ朝)|en|Ibrahim I ibn al-Aghlab|label=イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブ}}が[[イフリーキヤ]]で自立し[[アグラブ朝]]([[800年]] - [[909年]])を興した。{{仮リンク|ウバイドゥッラー・アッマフディ・ビッラー|en|Abdullah al-Mahdi Billah|label=ウバイドゥッラー}}がアグラブ朝を倒し、[[ファーティマ朝]]([[909年]] - [[1171年]])を興すと、ベルベル人はその支配下で[[ズィール朝]]([[983年]] - [[1148年]])を興した。ズィール朝に[[アルジェ]]が建設された。
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=== タイファ期 ===
=== タイファ期 ===
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=== オスマン帝国 ===
=== オスマン帝国 ===
16世紀には、東から[[オスマン帝国]]が進出した。[[1533年]]には[[アルジェ]]の[[海賊]]、[[バルバロス・ハイレディン|バルバロッサ]]がオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国は[[ザイヤーン朝]]を滅ぼした。オスマン帝国の治下では[[トルコ人]]による支配体制が築かれ、前近代を通じて、{{仮リンク|バリ諸国|en|Barbary Coast}}におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラ語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。アルジェの[[デイ (オスマン帝国)|デイ]]は、沿岸のキリスト教国の船を{{仮リンク|バリ諸国|en|Barbary Coast}}の[[バルバリア海賊]]を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。
16世紀には、東から[[オスマン帝国]]が進出した。[[1533年]]には[[アルジェ]]の[[海賊]]、[[バルバロス・ハイレディン|バルバロッサ]]がオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国は[[ザイヤーン朝]]を滅ぼした。オスマン帝国の治下では[[トルコ人]]による支配体制が築かれ、前近代を通じて、[[バリア海岸]]におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラビア語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。アルジェの[[デイ (オスマン帝国)|デイ]]は、沿岸のキリスト教国の船を[[バリア海岸]]の[[バルバリア海賊]]を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。


19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、[[第一次バーバリ戦争]](1801年 - 1805年)と[[第二次バーバリ戦争]]([[1815年]])、[[1817年]][[8月27日]]、[[アルジェ砲撃]]等が行なわれた。
19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、[[第一次バーバリ戦争]](1801年 - 1805年)と[[第二次バーバリ戦争]]([[1815年]])、[[1817年]][[8月27日]]、[[アルジェ砲撃]]等が行なわれた。
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== 遺伝子 ==
== 遺伝子 ==
[[ファイル:Distribution of haplogroup E (YDNA) and migration routes.png|サムネイル|ハプログループEの分布<ref>{{Cite journal|last=Cole|first=Christopher B.|last2=Zhu|first2=Sha Joe|last3=Mathieson|first3=Iain|last4=Prüfer|first4=Kay|last5=Lunter|first5=Gerton|date=2020-06-01|title=Ancient Admixture into Africa from the ancestors of non-Africans|url=https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.06.01.127555v1|journal=bioRxiv|pages=2020.06.01.127555|language=en|doi=10.1101/2020.06.01.127555}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Bergström|first=Anders|last2=Stringer|first2=Chris|last3=Hajdinjak|first3=Mateja|last4=Scerri|first4=Eleanor M. L.|last5=Skoglund|first5=Pontus|date=2021-02|title=Origins of modern human ancestry|url=https://www.nature.com/articles/s41586-021-03244-5|journal=Nature|volume=590|issue=7845|pages=229–237|language=en|doi=10.1038/s41586-021-03244-5|issn=1476-4687}}</ref>]]
[[Y染色体]]は[[ネグロイド]]系[[ハプログループE (Y染色体)#E1b1b系統|ハプログループE1b1b系統]]が75<ref>Bosch, E; Calafell, F; Comas, D; Oefner, P; Underhill, P; Bertranpetit, J (2001). "High-Resolution Analysis of Human Y-Chromosome Variation Shows a Sharp Discontinuity and Limited Gene Flow between Northwestern Africa and the Iberian Peninsula". The American Journal of Human Genetics 68 (4): 1019–29. doi:10.1086/319521. PMC 1275654. PMID 11254456.</ref>-93%<ref>Cruciani, F; La Fratta, R; Santolamazza, P; Sellitto, D; Pascone, R; Moral, P; Watson, E; Guida, V et al. (2004). "Phylogeographic analysis of haplogroup E3b (E-M215) y chromosomes reveals multiple migratory events within and out of Africa". American Journal of Human Genetics 74 (5): 1014–22. doi:10.1086/386294. PMC 1181964. PMID 15042509.</ref>みられる。地域や部族によって形質的な差はあるが、コーカソイドとネグロイドの混合人種であることが考えられる。
[[Y染色体]]は[[ハプログループE (Y染色体)#E1b1b系統|ハプログループE1b1b系統]]が75<ref>Bosch, E; Calafell, F; Comas, D; Oefner, P; Underhill, P; Bertranpetit, J (2001). "High-Resolution Analysis of Human Y-Chromosome Variation Shows a Sharp Discontinuity and Limited Gene Flow between Northwestern Africa and the Iberian Peninsula". The American Journal of Human Genetics 68 (4): 1019–29. doi:10.1086/319521. PMC 1275654. {{PMID|11254456}}.</ref>-93%<ref>Cruciani, F; La Fratta, R; Santolamazza, P; Sellitto, D; Pascone, R; Moral, P; Watson, E; Guida, V et al. (2004). "Phylogeographic analysis of haplogroup E3b (E-M215) y chromosomes reveals multiple migratory events within and out of Africa". American Journal of Human Genetics 74 (5): 1014–22. doi:10.1086/386294. PMC 1181964. {{PMID|15042509}}.</ref>みられる。


== 著名なベルベル人 ==
== 著名なベルベル人 ==
*
* [[マシニッサ]] - [[ヌミディア]]王。
* [[マシニッサ]] - [[ヌミディア]]王。
* [[ユグルタ]] - ヌミディア王。
* [[ユグルタ]] - ヌミディア王。
102行目: 115行目:
* [[聖モニカ|モニカ]] - [[アウグスティヌス]]の母。
* [[聖モニカ|モニカ]] - [[アウグスティヌス]]の母。
* [[アレイオス]] - [[アリウス派]]の祖。
* [[アレイオス]] - [[アリウス派]]の祖。
* [[ターリク・イブンズィヤード]] - [[西ゴート王国]]、[[アンダルス]]の征服者。[[ジブラルタル]]の語源である「ジャバル・ターリク(ターリクの山)」の由来となった人物。
* [[ターリク・イブンズィヤード]] - [[西ゴート王国]]、[[アンダルス]]の征服者。[[ジブラルタル]]の語源である「ジャバル・ターリク(ターリクの山)」の由来となった人物。
* {{仮リンク|ユースフ・イブン=タシュフィーン|en|Yusuf ibn Tashfin|label=ユースフ・イブン=タシュフィーン}} - [[ムラービト朝]]の建設者。
* {{仮リンク|ユースフ・イブン=タシュフィーン|en|Yusuf ibn Tashfin|label=ユースフ・イブン=タシュフィーン}} - [[ムラービト朝]]の建設者。
* [[イブン・トゥーマルト|イブン=トゥーマルト]] - [[ムワッヒド朝]]の建設者。
* [[イブン・トゥーマルト|イブン=トゥーマルト]] - [[ムワッヒド朝]]の建設者。
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* [[ジネディーヌ・ジダン]] - 元[[サッカーフランス代表]]、サッカー指導者。
* [[ジネディーヌ・ジダン]] - 元[[サッカーフランス代表]]、サッカー指導者。
* [[ロリーン]] - [[スウェーデン]]の音楽家。
* [[ロリーン]] - [[スウェーデン]]の音楽家。
* [[カリム・ベンゼマ]] - [[サッカーフランス代表]]、[[レアル・マドリード]]所属
* [[カリム・ベンゼマ]] - [[サッカーフランス代表]]、[[レアル・マドリード]]所属


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
{{Reflist}}
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* {{仮リンク|ベルベル系ユダヤ人|en|Berber Jews}}
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* [[ムーア人]]
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* [[バルバリア海賊]] - ヨーロッパ人にバルバリア海岸(ベルベル海岸)と呼ばれた北アフリカ沿岸で活動した[[海賊#ババリア海賊|海賊]]。
* [[バルバリア海賊]] - ヨーロッパ人にバルバリア海岸(ベルベル海岸)と呼ばれた北アフリカ沿岸で活動した[[海賊#ババリア海賊|海賊]]。
* [[バルバラ]]、[[バーバラ]]
* [[バルバラ]]、[[バーバラ]]
* [[リーフ共和国]]
* [[リーフ共和国]]
* [[アザワド]]
* [[アザワド]]
* [[ムッセム]] - ベルベル人の祭り。
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{{Authority control}}
== 外部リンク ==
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{{Normdaten}}

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[[Category:アフリカの先住民族]]
[[Category:アフリカの先住民族]]

2024年3月7日 (木) 13:33時点における最新版

ベルベル族
総人口
不明
居住地域
言語
ベルベル諸語アラビア語フランス語スペイン語(スペインとモロッコ)
宗教
イスラームが支配的。
ベルベル人の旗
伝統舞踊を披露するモロッコのベルベル人
ベルベル人の男性
ベルベル人の少年

ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカマグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族ベルベル諸語母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的には、元来はコーカソイドだったと考えられるが、トゥアレグ族など混血により一部ネグロイド化した部族も見られる。宗教イスラム教を信じる。

ベルベル人という名称はローマ人による蔑称である[1]。ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来し[2]ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。

自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)である。アマジグ人アマジク人という呼称もこれ由来である。イマジゲンと呼ばれることも多い。

居住地域

[編集]

ベルベル人はカビールシャウィーア英語版ムザブ人英語版トゥアレグの4部族をはじめ、リーフ人シェヌアス英語版シルハ英語版ザイエンフランス語版英語版Igawawenグアンチェイバード派シウィ人英語版などの諸部族に分かれる。東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリアで同5分の1、その他、リビアチュニジアモーリタニアニジェールマリなどでそれぞれ人口の数%を占める。北アフリカのアラブ部族の中にはベルベル部族がアラブ化したと考えられているものも多い。ヨーロッパのベルベル人移民人口は300万人と言われ、主にフランスオランダベルギードイツなどに居住している他、北米ではカナダケベック州にも居住している。

歴史

[編集]

先史時代

[編集]

ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。

ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。紀元前10世紀頃、フェニキアから北アフリカの沿岸に至って勢力範囲が広がったフェニキア人 [注釈 1]カルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアヌミディア人マウレタニアマウリ人英語版などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。また、古代エジプト王朝とは緊密な関係にあり、傭兵となって王国軍の主力になり活躍することもあれば、王権の弱体化によって王位を簒奪することもあったし、ナイルデルタ地域へ略奪に来ることもあった。古代ギリシアではキレナイカ以東のベルベル人のことをリビュア人と称していた。西のマウリやヌミディアのマッサエシュリ部族とマッシュリー部族は部族連合を組んで集権的な国家を整えていくが、東のガラマンテス族達は小部族が合従連衡する状態から抜け出せないまま現代に至り、リビア内戦の遠因となった。

ローマ帝国

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古代カルタゴ英語版前650年 - 前146年)の末期、前219年第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア前202年 - 前46年)でも紀元前112年から共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。ラテン語公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。

ヴァンダル王国

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ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマニアに出自するヴァンダル人が北ヨーロッパからガリアヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。この王国の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語はやはり下位言語であった。

ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。

東ローマ帝国

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ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語が公用語として通用した。ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。

イスラーム帝国

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7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人イスラム教徒ウマイヤ朝)が北アフリカのエジプトに侵攻・征服し、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ(マグリブ征服英語版)。ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年)英語版)を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝ワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイル英語版や将軍ウクバ・イブン・ナフィ英語版によってベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。

イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。711年アンダルスイベリア半島)に派遣されてグアダレーテ河畔の戦い西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。

マグリブアンダルスでのベルベル革命英語版739年 - 743年)、750年アッバース革命の後、756年ムサラの戦いスペイン語版カタルーニャ語版後ウマイヤ朝756年 - 1031年)が成立。

イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブ英語版イフリーキヤで自立しアグラブ朝800年 - 909年)を興した。ウバイドゥッラーがアグラブ朝を倒し、ファーティマ朝909年 - 1171年)を興すと、ベルベル人はその支配下でズィール朝983年 - 1148年)を興した。ズィール朝にアルジェが建設された。

タイファ期

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11世紀12世紀タイファ期には、イスラム化して以降熱心なムスリム(イスラム教徒)になっていたベルベル人は、モロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家ムラービト朝1040年 - 1147年)、ムワッヒド朝1130年 - 1269年)を相次いで興した。ベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったムラービト朝ムワッヒド朝でも、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。

ベルベル人もイベリア半島に侵入し、アンダルスに入った。ベルベル人が樹立した征服王朝のナスル朝グラナダ王国1232年 - 1492年)の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語を用いていたとされる。ベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。時とともにベルベル人・アラブ人・イベリア人の三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プールに影響を与えた。

ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝、チュニジア地域にはハフス朝というベルベル人王朝が興隆した。マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国により1340年にはチュニスが占領された。しかしスルタンであるアブー・アルハサン・アリーにより王朝は一時的に持ち直し、1347年にはチュニスを奪回した。しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリスの死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。マリーン朝は最終的に15世紀の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。

モリスコ追放

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1492年ナスル朝が滅亡すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコとされた。モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブへと追放された(モリスコ追放)。現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。

オスマン帝国

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16世紀には、東からオスマン帝国が進出した。1533年にはアルジェ海賊バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バルバリア海岸におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラビア語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。アルジェのデイは、沿岸のキリスト教国の船をバルバリア海岸バルバリア海賊を率いて襲撃し、キリスト教徒を奴隷にしていた。

19世紀になると、キリスト教徒の奴隷を解放する為に、第一次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)と第二次バーバリ戦争1815年)、1817年8月27日アルジェ砲撃等が行なわれた。

フランス植民地

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19世紀以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。

遺伝子

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ハプログループEの分布[3][4]

Y染色体ハプログループE1b1b系統が75[5]-93%[6]みられる。

著名なベルベル人

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脚注

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注釈

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  1. ^ フェニキア人をラテン語で「ポエニ人英語版」という。カルタゴに住むフェニキア人とその末裔を、後のローマ人はポエニ人と呼んだ。

出典

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  1. ^ 高崎通浩『改訂版 世界の民族地図』(初版第1刷)作品社、1997年12月20日、243頁。ISBN 4878932910NCID BA33978970 
  2. ^ サハラ砂漠のラクダ使いに1日密着してわかったこと「チャンスがあれば観光客をナンパ」「世界中の言葉を使いこなす」など”. ロケットニュース24 (2017年9月19日). 2019年11月21日閲覧。
  3. ^ Cole, Christopher B.; Zhu, Sha Joe; Mathieson, Iain; Prüfer, Kay; Lunter, Gerton (2020-06-01). “Ancient Admixture into Africa from the ancestors of non-Africans” (英語). bioRxiv: 2020.06.01.127555. doi:10.1101/2020.06.01.127555. https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.06.01.127555v1. 
  4. ^ Bergström, Anders; Stringer, Chris; Hajdinjak, Mateja; Scerri, Eleanor M. L.; Skoglund, Pontus (2021-02). “Origins of modern human ancestry” (英語). Nature 590 (7845): 229–237. doi:10.1038/s41586-021-03244-5. ISSN 1476-4687. https://www.nature.com/articles/s41586-021-03244-5. 
  5. ^ Bosch, E; Calafell, F; Comas, D; Oefner, P; Underhill, P; Bertranpetit, J (2001). "High-Resolution Analysis of Human Y-Chromosome Variation Shows a Sharp Discontinuity and Limited Gene Flow between Northwestern Africa and the Iberian Peninsula". The American Journal of Human Genetics 68 (4): 1019–29. doi:10.1086/319521. PMC 1275654. PMID 11254456.
  6. ^ Cruciani, F; La Fratta, R; Santolamazza, P; Sellitto, D; Pascone, R; Moral, P; Watson, E; Guida, V et al. (2004). "Phylogeographic analysis of haplogroup E3b (E-M215) y chromosomes reveals multiple migratory events within and out of Africa". American Journal of Human Genetics 74 (5): 1014–22. doi:10.1086/386294. PMC 1181964. PMID 15042509.

関連項目

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外部リンク

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