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「京極高住」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
'''京極 高住'''('''きょうごく たかすみ''')は、[[但馬国|但馬]][[豊岡藩]]の第2代藩主。
| 氏名 = 京極高住
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| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
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| 特記事項 =
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'''京極 高住'''(きょうごく たかすみ)は、[[但馬国]][[豊岡藩]]の第2代[[藩主]]。豊岡藩京極家4代


== 略歴 ==
{{武士/開始|京極高住}}
万治3年(1660年)8月10日、[[丹後国]][[丹後田辺藩|田辺藩]]主・[[京極高直]]4男として江戸柳原邸で生まれる。[[延宝]]2年([[1674年]])3月18日、豊岡藩主である兄の[[京極高盛|高盛]]の隠居に伴い、その養子としてを継ぎ、従五位下、甲斐守に叙任する。
{{武士/時代|[[江戸時代]]前期から中期}}
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{{武士/終了}}


[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])7月29日、長男の[[京極高栄|高栄]]に家督を譲って隠居した。その後、剃髪して甲斐入道と号した。
万治3年(1660年)8月10日、[[丹後国|丹後]][[田辺藩]]主・京極高直の男として江戸柳原邸で生まれる。[[延宝]]2年([[1674年]])3月18日、代藩主で兄の高盛が[[隠居]]したため、その養子としてを継ぎ、従五位下、甲斐守に叙任する。


享保6年([[1721年]])に高栄が早世し、そのを継いだ嫡孫の[[京極高寛|高寛]]も早世すると、豊岡藩京極家は無嗣断絶で[[改易]]となる。しかし高住が高寛の弟[[京極高永|高永]]の相続を認めるよう幕府に運動したこともあって、3万3000石から1万5000石に減知の上高永に家督を継ぐことが認められた。
本家の[[宮津藩]]京極家が改易された後、豊岡藩京極氏が京極本家となったが、築城が認められなかったため、高住は不満を抱きながら寺社建設に尽力したと言われている。[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])7月29日、長男の京極高栄に家督を譲って隠居した。その後、剃髪して甲斐入道と号した。


享保15年(1730年)8月13日、[[武蔵国]][[足立郡]]渕江の別邸で死去した。享年71。
しかし享保6年([[1721年]])に高栄が早世し、そのを継いだ嫡孫の[[京極高寛]]も早世すると、豊岡藩京極家は無嗣断絶で[[改易]]となる。しかし高住が高寛の弟[[京極高永]]の後継ぎを認めるよう幕府に運動したこともあって、高永に3万3000石から1万5000石に所領を削することで家督を継ぐことが認められた。


== 系譜 ==
享保15年(1730年)8月13日、[[武蔵国|武蔵]]足立郡渕江の別邸で死去。享年71。
*父:[[京極高直]](1633-1663)
*母:[[水野忠善]]の娘
*養父:[[京極高盛]](1650-1709)
*正室:[[松平直矩]]の養女 - [[東園基賢]]の娘
*側室:寿林院 - 難波氏
**長男:[[京極高栄]](1690-1721)
*生母不明の子女
**男子:[[京極高正 (高住の子)|京極高正]]
**男子:[[水野善興]] - 祖母の水野姓を名乗る。高住の隠居時に蔵米二千俵を分知され、別家を興こし旗本寄合。次代の京極高明の時に京極姓に復帰した。


{{先代次代|[[豊岡藩|京極氏(豊岡藩2)藩]]|1674~1714|[[京極高盛]]|[[京極高栄]]}}
{{京極氏主|高三流京極氏|1674年 - 1714年|4代}}
{{豊岡藩主|京極氏|2代|1674年 - 1714年}}


[[Category:京極氏|たかすみ]]
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[[Category:江戸の大名|きようこくたかすみ]]
[[Category:豊岡京極家|たかすみ]]
[[Category:外様大名|きようこくたかすみ]]
[[Category:豊岡藩主]]
[[Category:1660年生]]
{{生没年|きようこくたかすみ|1660年|1730年}}
[[Category:1730年没]]

2022年6月5日 (日) 19:12時点における最新版

 
京極高住
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治3年8月10日1660年9月14日
死没 享保15年8月13日1730年9月24日
改名 土肥之助(幼名)、高住
別名 甲斐入道(号)
諡号 云奴
戒名 興国寺殿普明院大雲道端大居士
墓所 東京都墨田区向島弘福寺
官位 従五位下甲斐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣家継
但馬豊岡藩
氏族 京極氏
父母 京極高直水野忠善の娘
養父京極高盛
兄弟 高盛高元高門高住高里高完森長武正室ら
正室松平直矩の養女
側室:寿林院
高栄高正善興
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京極 高住(きょうごく たかすみ)は、但馬国豊岡藩の第2代藩主。豊岡藩京極家4代。

略歴

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万治3年(1660年)8月10日、丹後国田辺藩主・京極高直の4男として江戸柳原邸で生まれる。延宝2年(1674年)3月18日、先代豊岡藩主である兄の高盛の隠居に伴い、その養子として跡を継ぎ、従五位下、甲斐守に叙任する。

正徳4年(1714年)7月29日、長男の高栄に家督を譲って隠居した。その後、剃髪して甲斐入道と号した。

享保6年(1721年)に高栄が早世し、その跡を継いだ嫡孫の高寛も早世すると、豊岡藩京極家は無嗣断絶で改易となる。しかし、高住が高寛の弟の高永の相続を認めるよう幕府に運動したこともあって、3万3000石から1万5000石に減知の上で高永に家督を継ぐことが認められた。

享保15年(1730年)8月13日、武蔵国足立郡渕江の別邸で死去した。享年71。

系譜

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