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利用者‐会話:Taisyo

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これはこのページの過去の版です。Uj (会話 | 投稿記録) による 2012年8月5日 (日) 14:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (下大河・丹那の写真、ありがとうございます)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ウィキペディアにようこそ!

こんにちは。はじめましてSuisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!

ウィキペディアで活動する際にはWikipedia:ガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。よろしければ 自己紹介してみてください。何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することが出来ます。あなたがよきウィキペディアンになることを期待します。

なお、このメッセージは利用者 - 会話ページに何も記入されていない方に投稿しておりますので、すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、お詫びいたします。--Suisui 16:18 2004年4月24日 (UTC)

以前のコメント

以前のコメントは以下を確認してください。

記事「岡本英子」について

はじめまして。一点質問があります。何度かこの記事を編集しているのですが、経歴の一部が同じ箇所だけ脚注部分を残してという雑な形で削除されるということが繰り返されており、削除されたらリバートという形で対応しています。新聞記事には載っているものであるのですが、本人が自身のサイトで公表しているものではないようです。一応経歴を明確にするのに必要であり、「存命人物の伝記」に引っかかるものではないと考えていますが…。どういった対処が必要でしょうか? このような質問をする場所ではないと思いますがどこで聞いたらわからないので、最近この記事を編集されたTaisyoさんにお聞きしようと考えました。よろしくお願い致します。--110.0.36.20 2012年7月21日 (土) 02:54 (UTC)[返信]

余り深く考えずに編集している部分もありますので。「鎌倉女子大学短期大学部卒業」の経歴ですが、別に不利益になる物ではないと思います。ある版に「社会人枠で横浜国立大学に入学」とありますので、別に不自然な物でもないです(社会人入学の件は書いた方が良いと思います)。嘘履歴なら問題ですが、嘘でもなさそうです。確認の手段がないですが、新聞の地元欄に載っているのを出典に使うのは良いことです。利用者名が記事名と同一なので、まずは同一人物かどうか確認することから初めてはどうでしょうか。--Taisyo会話2012年7月21日 (土) 07:10 (UTC)[返信]
お返事ありがとうございます。では、まず本人かどうかの確認と、本人であれば何故消すのか聞いてみたいと思います。--110.0.36.20 2012年7月21日 (土) 14:28 (UTC)[返信]
それと文章の組み立てを思い切って直してみようかと思います。朝日新聞神奈川版は、広島では確認できませんが、ローカル紙の神奈川新聞なら何とかなると思います。単純時系列にしたことで、解りにくい部分もありますので、具体的には学歴と政治家歴を分離する形にしようかと思います。--Taisyo会話2012年7月22日 (日) 01:47 (UTC)[返信]

下大河駅跡の画像

こんにちは。下大河駅跡(現・ポッポ広場)の画像のアップロードおよび当該記事(下大河駅)への貼り付け、ありがとうございました。感謝します。--Straysheep会話2012年8月5日 (日) 12:20 (UTC)[返信]

いえいえ。いつかはやらないといけない課題と思っていましたので。丹那駅も場所推定に悩んでいるようで。正直に私では分かりかねますが、『新修広島市史 第五巻の地図』に結構良い地図があったように思います。その他も図書館や公文書館に行けばあると思いますので、参考までに。道路開発で元の場所に出来ないのは十分に予想できます。それと、モニュメントがある割には由来の碑がない。なんか変な所もあります。--Taisyo会話2012年8月5日 (日) 12:34 (UTC)[返信]

下大河・丹那の写真、ありがとうございます

こんにちは、Uj です。私からも下大河駅跡・丹那駅跡の写真のお礼をします。(いまだに利用者の会話ページの記入の仕方など、Wikipediaの基本的なことがよくわからず、皆さまにも迷惑をおかけしています。)いつも、ありがとうございます。

ところで、宇品線のページに掲載の画像については、古い写真についてはなかなか掲載可能なものがなく、いろいろネットや文献の中には貴重なものを見つけながらもWikipediaに残せないことを残念に思っています。また、私は1986年頃の写真をいくらか撮ったのですがそれらは広島の実家に残しており、現在東京在住であるため、すぐに探すこともままならず、そのままになってしまっています。いつか近いうちに実家に戻った際に、それらの写真を再整理して、使えそうなものはアップしたいと思っていますが、なかなか。。。

なお、丹那駅の所在地ですが、多くの地形図には、桜土手の北側、翠町小学校のすぐ南東側にあったように記載されていますが、最近出版の「長船友則 『宇品線92年の軌跡』(RM LIBRARY 155)」のp.27の写真(1966年)を見ると、駅の背景の並木やまっすぐの線形から、旅客営業の最後には、桜土手を南側に渡った南警察署の西側にあったように見えます。確かに、1986年当時にも、その箇所はホームのようになっていて、上記写真の駅舎があったと思われる個所の歩道(南警察交差点(踏切)の南側の線路東側)が少し広くなっていたことを記憶しています。(これは私が撮った86年の写真にも残っているはずですがすぐには確かめられません。)上記文献の執筆者・撮影者の長船友則さんには、他にもいろいろと直接ご確認したいことがあり、なんとか連絡が取れないものかと思っています。。。

一方で、現在モニュメントが残っている付近の桜土手の北側の東側も、いかにも駅舎があってもおかしくなかったように広くなっており、旅客営業時にこの箇所を撮影した証拠写真などがあれば良いと思っていますが。。

長文になってしまって申し訳ありませんでした。今後とも、忘れたころに少しずつ記事などを追加し、そそっかしくてご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いいたします。 Uj会話2012年8月5日 (日) 13:48 (UTC) |}[返信]

こちらこそです。確かに、ウィキペディアやウィキコモンズだと商用利用できると言う条件もありますので、自作である必要性があったりします(使用許可が得られれば別ですけど、かなり酷です)。昔の写真があるようで。もっとも、実家なので当面は無理でしょうが、定点観測みたいな形で、推測は出来るのでは無かろうかと思います。後ろの黄金山と比較すれば、かなり正確な場所が推定できるのではと思います。ただ、ポンプ場が障害になる可能性もあります。完成時期が1977年ですので。出典の裏を取ることが出来ればいいですが。もっともウィキペディアは出典主義で「正確でなく確認できること」が原則なので、「本に書いていた」で最悪逃げるのでしょうが。--Taisyo会話2012年8月5日 (日) 14:07 (UTC)[返信]
早速ご返答いただき恐縮です。上述の長船さんの文献の丹那の写真は、私が知っている(そう多くはない)記録を覆すもので、桜土手より南側にあったのが最終形だったというのが
ほぼ確実に示されていて、その意味で衝撃的です。早く自分の撮った1986年の写真と比較したい思いです。桜土手より北側にも駅があった時代があるような記録もありますので、
まだ記事としては確定的に記述ができないと思っています。
今回の文献では大須口駅の位置や、猿猴川の旧大洲口橋梁が枕崎台風で壊れ、橋梁が東に移動した経緯なども、私にとって新事実でした。今度広島に帰って図書館などでもいろい
ろ確認する機会を持ちたいと思った次第です。いずれにしろ、こないだ宇品四者協定線が廃止されたと思っていても、いつのまにかあっというまに26年経ちますので、さらに古い
記録は早いうちに記録しておく必要があると切実に感じています。
また長文・乱文になりました。失礼しました。 Uj会話) 2012年8月5日 (日) 23:37 (JST)