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愛知電気鉄道電7形電車

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愛知電気鉄道電7形電車(あいちでんきてつどうでん7がたでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)の前身の一つである愛知電気鉄道によって1926年に9両が製造され、会社合併により名古屋鉄道に引き継がれた、半鋼製の鉄道車両電車)である。初号車の記号番号からデハ3080形とも称する[注釈 1]

なお、本項目では、同系制御車で1両が製造された附3形サハ2020形)、および電7形の派生形式で1両が製造された全鋼製試作車のデハ3090形[2]についても記述する。

概要

半鋼製(電7形・附3形)あるいは全鋼製(デハ3090形)の16m級2扉セミクロスシート車で、新造以来、愛知電気鉄道豊橋線の主力車として後継車種であるデハ3300形などと共に特急急行などに使用された[3]

1935年8月1日に名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併によって名古屋鉄道(2代目)が成立した後も、第二次世界大戦1960年代まで旧愛知電気鉄道由来の線区を中心に、新造以来約40年にわたって主力車として使用された[4][5]

電7形・附3形由来の10両については愛知電気鉄道や三河鉄道などに由来する木造車群と共通の電装品を搭載し、しかも以後の名古屋鉄道で標準となった18m級より約2m短い16m級の小型車体であったこと、それに新造から30年以上が経過し車体が陳腐化していたことなどから、1960年代中盤に17m級新設計軽量構造車体を備える3700系(2代)・3730系の新造が計画された際に、同系機器を搭載していたモ3300形(元デハ3300形)やモ910形(元知多鉄道デハ910形)などの各形式に先んじて木造車群に続く機器供出元に選ばれた[4]。そのため1964年までに全車とも電装解除と台車交換が実施され、以後は直流1,500V電化の各支線区で、そして1965年以降は瀬戸線揖斐線谷汲線と直流600V電化線区で、他の電動車と連結して使用する制御車として運用された[6]。このうち、ク2320形へ改造され、瀬戸線での用途廃止後に揖斐線谷汲線へ転用されたグループに属する4両は、新造車による代替が実施された1997年まで約71年にわたって旅客営業運転に充当され続けた[7]

一方、客用扉にステップのないデハ3090形由来の1両は名古屋本線で架線電圧の統一が成って直通運転が開始された1948年以降、特に需要が増大していた荷物電車代用として限定運用されるようになり[8]、その後正式に荷物電車としての専用設計車体に交換されてデニ2001となった[8]。同車は1969年まで使用された後に廃車となっている[8]

製造経緯

愛知電気鉄道電7形電車
愛知電気鉄道電7形デハ3080
(完成時撮影のメーカーカタログ写真)
基本情報
製造所 日本車輌製造本店
主要諸元
編成 1両 - 4両
軌間 1,067
電気方式

直流1,500V

(架空電車線方式)
車両定員 座席50・立席70
全長 16,888
車体長 15,850
全幅 2,641
車体幅 2,490
全高 4,167
車体高 3,761
台車 ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス 84-27-A
主電動機 ウェスティングハウス・エレクトリック WH-556-J6 直流直巻整流子電動機
主電動機出力 74.6kW
駆動方式 吊り掛け駆動方式
制御装置 ウェスティングハウス・エレクトリック HL単位スイッチ式非自動間接制御器(抵抗制御直並列制御
制動装置 自動直通ブレーキ
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愛知電気鉄道初の半鋼製車

1913年8月31日[9]に現在の常滑線 神宮前 - 常滑間29.5km[10]を全線開業した愛知電気鉄道は、元々商工業が発達していながら名古屋と結ぶ鉄道の便がなかった知多半島東海岸地域の振興を図る目的で建設された[11]、局地的な電気鉄道[12]であった。だが、同社は1917年に有松線として神宮前 - 有松裏(現・有松)間9.7km[10][注釈 2]を開業する。さらに同社は、この有松線を橋頭堡とし、計画が頓挫した東海道電気鉄道[注釈 3]から譲受した地方鉄道法に基づく路線免許[22]を利用して、1920年代中盤に神宮前 - 吉田(現、豊橋)間62.4kmを結ぶ豊橋線の建設[22][注釈 4]に着手する[23]愛知県の県都名古屋市と同県東部の主要都市である豊橋市とを直線主体の線形で結び、全体として東海道本線と完全に競合する[注釈 5]この豊橋線は、本格的な都市間高速電気鉄道を目指した東海道電気鉄道の強い影響下で計画・建設された路線[24]である。この路線は計画当初より速達性を最重視し[25]、400馬力級電動車により表定速度60km/hでの運転を可能とすべく[25]、ドイツのアウグスト・ティッセン製鉄所で1924年11月に製造された[25]75ポンドレール(現在の37kgレール相当[26])を輸入・敷設[25][注釈 6]、勾配は知立以東では最大16.7パーミルに設定[31][注釈 7]、線形は愛電赤坂 - 平井信号所間約8kmを一直線とするなど全体的に直線的な線形とし[34]、信号機として三位色灯式自動信号機を導入[35]、さらには矢作橋 ― 東岡崎間については軌道中心間隔を3.9mまで広げる[31][注釈 8]など高速運転に適する、当時としては思い切った高規格路線を建設[37]、速度の最高水準を目指して[26]半鋼製・全鋼製車両を投入することになった[38]

このため愛知電気鉄道は豊橋線での輸送量増加を睨み[39]、既開業の各線についても軌道強化による軸重上限の引き上げ[40]や複線化[41]、そして路面電車並の直流600Vであった架線電圧の直流1,500Vへの昇圧を段階的かつ積極的に実施した[注釈 9]。軌道強化や複線化は高速運転・輸送能力増強の双方に資する設備投資であり、また架線電圧の昇圧には、同じ電力消費量でも電流量を低く抑えられるためジュール熱による損失を低減できて効率が良く、さらに大出力化や将来の長大編成化に好適という都市間高速電気鉄道では無視できないメリットがあった[44]

この架線電圧の昇圧にあたっては、変電所などの地上施設の機器交換[43]・改修に加え、車両の電装品も直流1,500V対応とする必要があった。そのため、愛知電気鉄道は電6形として直流600Vと直流1,500Vの2電圧に対応[39]し、高回転仕様の電動機を主電動機として搭載した[45]木造16m級新型電車[46]を設計、既設各線の昇圧に先立ち1924年より投入開始していた[45]。もっとも、小刻みに部分開業を繰り返して段階的に東上してきた豊橋線が小坂井に到達する1926年頃には、日本の鉄道車両において重大な転機の一つとなった車体構造の木製から鋼製への移行が始まっていた[47]。電6形の車体はシングルルーフの採用[46]など木造車としては設計時点での最新流行を取り入れた設計であったが、木造車体で大型車を製作した場合、高速運転が大きな負担になり[48]、しかも車体の腐朽が速いこと[48]、そして事故発生時の車体強度が不足することが問題となっていた[48]。そこで、1926年4月1日に豊橋線全体の半分近くにあたる東岡崎 - 小坂井間26.1km[10]が一挙に開業するのに備えて準備された新造車については、機器面では良好な成績を残していた電6形のそれを踏襲しつつ、新機軸である半鋼製車体[49]やパンタグラフ集電[26]を愛知電気鉄道の車両としては最初に取り入れ[26]、さらに接客設備面でも長時間の乗車に適したセミクロスシート配置の採用を行った[49]、画期的な新型車[注釈 10]として設計された。こうして新造されたのが電7形9両[6]附3形1両[6]よりなる、合計10両の半鋼製[37]16m級車[51][2]群である。

愛知電気鉄道デハ3090形電車
愛知電気鉄道デハ3090
電7形を基本とする全鋼製試作車。
(完成時撮影のメーカーカタログ写真)
基本情報
製造所 日本車輌製造本店
主要諸元
編成 1両 - 4両
軌間 1,067
電気方式

直流1,500V

(架空電車線方式)
車両定員 座席50・立席70
全長 16,682.2
車体長 15,850
全幅 2,615
車体幅 2,640
全高 4,122
車体高 3,716
台車 ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス 84-27-A
主電動機 ウェスティングハウス・エレクトリック WH-556-J6 直流直巻整流子電動機
主電動機出力 74.6kW
駆動方式 吊り掛け駆動方式
制御装置 ウェスティングハウス・エレクトリック HL単位スイッチ式非自動間接制御器(抵抗制御・直並列制御)
制動装置 自動直通ブレーキ
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全鋼製試作車

また、これら電7形・附3形とは別に、全鋼製車体を備えるデハ3090形[注釈 11]1両がこれら2形式よりやや遅れて製造された[2]

(参考)山陽本線特急列車脱線事故の被害状況。客車の車体が木製であったため、脱線時に大破し被害を拡大した。

構体のほぼ全てを鋼製とし、従来の屋根や内装に木材を使用する半鋼製車と比較してより強固で安全性が高い、とされた全鋼製車体については、本形式製造の前年にあたる1925年11月[52]川崎造船所阪神急行電鉄向けとして日本初となる510号を試作[53]、翌1926年より600形として量産を開始していた[54][55][56]。この試作車510号は就役わずか1年たらずの1926年10月14日[52]に二重衝突事故に遭遇したが事故の規模に比して被害は最小限で食い止められた[52]。この事故の顛末や、1926年9月に発生した山陽本線特急列車脱線事故木造客車が脱線大破し多数の犠牲者を出したこと、それに1923年関東大震災の際に多数の木造客車が焼失したこと[57]などから、脱線事故の当事者である鉄道省は1927年度予算で製作される新車より電車と客車の鋼製車への全面切替を決定した[58]。このため、車両メーカー・私鉄の各社も鋼製車に対し非常に強い関心を示すようになっており、510号の事故の結果を踏まえて以後の新車を全て全鋼製とする方針を定めた阪神急行電鉄[56]を筆頭に、全鋼製・半鋼製の車両を導入する社局が急増した。

このデハ3090形はそうした技術的・社会的潮流の中で、1926年から1927年にかけての時期に日本の鉄道車両メーカー各社において造られた、全鋼製車体を備える試作車両の1つ[59]である。本形式は愛知電気鉄道の後身である名古屋鉄道の社内において、メーカーである日本車輌製造が自主的に試作した車両を愛知電気鉄道が無償提供を受けたもの、と伝えられていたとされる[60]

その竣工時期は阪神急行電鉄510の事故や山陽本線特急列車脱線事故から間もない1926年12月[2]で、これに少し遅れて同年12月の元号昭和改元された直後に竣工[61]した、渥美電気鉄道デテハ1001[注釈 12]と共に、日本車輌製造本店における全鋼製車体の試作車としての役割を果たした[62]

形式

名古屋市日本車輌製造本店で1926年3月に以下の10両が製造された[51]

  • 電7形
デハ3080 - デハ3084・デハ3086 - デハ3089[51]
制御電動車(Mc)。
  • 附3形
サハ2020
制御車(Tc)。

なお、電7形では上記の通り記号番号デハ3085を欠番としているが、これは末尾が「5」となる車両番号を忌避する愛知電気鉄道の慣習に従ったものである[63]。また、附3形の「附」も「サ」も共に一般には運転台を備えない付随車に用いられる称号あるいは記号であるが、愛知電気鉄道ではこれらを運転台付きの制御車を表すのに用いた[64]

さらに、前述の通り全鋼製車体の試作車として、以下の1両が同じく日本車輌製造本店で1926年12月に製造された[2]

  • デハ3090形
デハ3090
制御電動車(Mc)。
(参考)伊勢電気鉄道デハ121形デハ121
電7形と同一設計の車体を備える同系車。
(完成時撮影のメーカーカタログ写真)

なお、電7形・附3形については当初12両が発注され、中途で2両がキャンセルされたとの説[65]があり、実際にも電7形とほぼ同一設計の車体を備えるデハ121形デハ121・デハ122が近隣の伊勢電気鉄道に在籍した[65]。ただしこのデハ121形は電化前の伊勢鉄道が1925年4月14日に半鋼製付随車として日本車輌製造本店に発注[65]、同年5月5日に半鋼製電動客車へ契約が変更され[65]伊勢電気鉄道本線の電化開業を目前に控えた翌1926年11月に竣工する[66]、という経過を辿っており、その契約時期から愛知電気鉄道からの注文流れであった可能性は低い[65][67]

車体

電7形・附3形とデハ3090形では構造・寸法が共に大きく異なるため、個別に記述する。

電7形・附3形

愛知電気鉄道としては初採用となる、リベット組み立ての鋼製車体に木製の内装や屋根を組み合わせた、いわゆる半鋼製車である[49]

外板は1/16インチ(1.5875mm)厚の軟鋼板[49]を使用し、柱はU字断面の鋼材を組み合わせ[49]、床板は木材を敷き詰めている[49]。メーカーカタログでは車体重量12.3tを公称[49]し、同時代の16m級半鋼製車としては比較的軽量にまとまっている[49]

最大寸法は全高4,167mm[51]、全幅2,641mm[51]、全長16,888mm[51]で、運転台は前後車端部の妻面向かって右側にそれぞれ設置する[51]。側面の窓配置は1 2 D (1) 8 (1) D 2 d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)[51]で運転台側には乗務員扉が無く[51]、車掌台側のみ433mm幅の狭い引戸[注釈 13]による乗務員扉を設置するという珍しいレイアウトとなっている[51]。戸袋窓を含め全て710mm幅[51]となっている側窓の上下には、それぞれウィンドウヘッダー・ウィンドウシルと呼ばれる補強帯が露出して取り付けられており[51]、1,016mm幅の片引式客用扉[51]は低いプラットホームに対応するため、乗降用ステップを内装している[51]。なお、客用扉は手で開閉する手動扉となっている[49]

台枠は主に形鋼によって構成されている[51]。背骨にあたる中梁をほぼ車体全長にわたって貫通させ[51]、これと直交するように置かれた横梁[51]をつなぎ板で結合[51]し、各横梁の端部をつなぐ側梁を車体側板との接合部付近に渡している[51]。このため、同時期の鋼製車で広く採用されていた、強固で台枠中央部の垂下に強いがその重量が過大気味になる魚腹台枠は採用されていない[51]

妻面は平妻で中央に貫通扉を設けた3枚窓構成[51]で、窓下にウィンドウシル、窓上に細いウィンドウヘッダーがそれぞれ取り付けられているのは側面と同様である[51]。窓は客用扉・戸袋窓・妻窓を含め高さ中央付近に中桟を入れた、あるいは2段上昇式として高さ中央付近で2分割した、いわゆる2段窓で統一されている[51]。ただし、運転台脇の側窓に限っては下段を下降式としている[62]。また、客室部の側窓は戸袋窓を含め、下段下部に転落防止用の保護棒が2本取り付けられている[51]

前照灯は同時代の一般的な路面電車と同様に、白熱電球を収めた取り付け式の筒型灯具を1組、貫通扉窓下の専用金具に引っかけて装着・固定する構造となっており[51]、標識灯もこの時代の私鉄電車の一般的な仕様に従い、妻面の車掌台側妻窓下に1灯のみ備える[49]

屋根は屋根高さ3,625mm[51]の浅いシングルルーフで、後継のデハ3300形(屋根高さ3,700mm)より75mm低く[69]、後年編成を組んだ知多鉄道デハ910形(屋根高さ3,713mm)より88mm低い[68]。また、後述するデハ3090形は屋根高さ3,620mmと電7形よりさらに5mm低い[2]

この屋根上ほぼ全長に渡って2列のランボードが設置されており[51]、車体の両端部には枕木方向にも各1列のランボードが設置されている[51]。このため、パンタグラフはこのランボードに三方を囲まれるようにして、一方の台車心皿中心と集電舟の中心を一致させて設置されている[51]。また、このパンタグラフの両側面にはさらに各1列ずつ小型のランボードが設置され[51]、パンタグラフの無い側の車端部にも同様に小型のランボードが設置されて対称配置とされており[51]、2基目のパンタグラフを搭載するためのパンタ台も設置されている[62]。ただし、愛知電気鉄道の傍系会社であった知多鉄道が同じ日本車輛製造本店にて製造させ、本形式と同等の16m級車体にパンタグラフ2基搭載にて竣工したデハ910形[70]とは異なり、図面上でも完成した実車でも、2基目のパンタグラフ搭載は実施されていない[51][49]通風器はガーランド式で左右のランボードの下に等間隔で設置されている[49]

客室は客用扉間の中央部側窓6枚分[51]に24名分の対面配置固定クロスシートを備え[51]、その前後の客用扉を挟んだ前後2枚ずつの側窓に該当する部分にロングシートを設置[51]、ロングシートおよび客用扉部分の床面に主電動機点検用のトラップドアと呼ばれる点検蓋を設ける[51]。固定クロスシート部の背摺面間間隔は1,414mm[51]、各座席の奥行きは457mm[51]で、ロングシートも座席奥行き482mm[51]となっており、メーカーカタログにおいても「特ニ座席ヲ(クロスシート)トシテ乗客ノ乗心地良キ様製作セリ」と座席の乗り心地の良さを強調している[49]。天井は中央部のみ一段高くなった浅いモニター屋根構造[51]で、電6形以前の木造車の構造設計[46]をそのまま踏襲している。室内灯は電6形と同様に白熱電球を収めた灯具を等間隔に6基を天井の中央に配置し[51]、これらの灯具は通風器の通気口と一体構造となっている[51]。また、つり革は両端のロングシート部分にのみ設置されている[51]。定員は120名、座席定員は50名を公称する[51]

塗装は愛知電気鉄道標準のマルーン[63]をベースに、四囲に装飾を施している[49]

デハ3090形

全鋼製車体の試作車として設計されたため、全高4,122mm[2]、全幅2,615mm[2]、全長16,682.2mm[2]、車体長15,850mm[2]、側窓幅700mm[2]、客用扉幅1,020mm[2]、と電7形の基本的なレイアウトは踏襲するものの、これと比較して車体長と客用扉幅以外の各部寸法が若干縮小気味となっている[51][2]

外板は3/32インチ(2.38125mm)厚の軟鋼板[71]で、電7形のそれに比して厚さが1.5倍となっており、柱はU字断面の鋼材を組み合わせ、また全鋼製と言いながら床は木床となっている[71]。全鋼製、しかも外板の厚さを増したにもかかわらず自重はメーカー公表値で32.5t[71]で、電7形同系車の伊勢電気鉄道デハ121形の33.4t[50]よりも若干軽い[注釈 14]

窓配置は電7形と同じ1 2 D (1) 8 (1) D 2 d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)[2]で座席配置や運転台の配置も電7形のそれと同様であるが、向かい合わせの固定クロスシート1ボックス分の線路方向の寸法が電7形で710mm(側窓)*2+64mm(窓柱)*2=1,548mm[51]であったのに対し、本形式では700mm(窓幅)*2+80mm(窓柱)*2=1,560mm[2]としてある。

また、電7形では扉間が約1,840mmでほぼ等間隔となっていた[51]台枠横梁の中心間隔が本形式では1,700mm・1,413mm・1,382mm・1,700mm[2]と車体中央部の横梁が不自然な間隔になっている。ただし、枕梁を大型化するなど強化されている[2]ものの、電7形[51]と同様に魚腹台枠ではなく設計当時最新の形鋼通し台枠となっている[2]

(参考)新京阪鉄道P-6形110
愛知電気鉄道豊橋線を大きく上回る高規格路線として建設された、新京阪鉄道新京阪線の主力車であるP-6形の初期製作グループ。デハ3090形の完成直後に設計製作された全鋼製車で、車体構造・デザイン共に同形式との共通点が多い。
(車体完成時撮影のメーカーカタログ写真)

車体外観の形状面でも若干の相違が見受けられ、本形式の妻面は電7形で緩く円弧を描いていた[51]屋根雨樋が一直線となり[2]、翌1927年に日本車輌製造がその一部の製作を担当することになる、19m級全鋼製大型高速電車である新京阪鉄道P-6形[73]のP-6A形と呼ばれる初期グループと共通する、電7形にも増してスクエア、あるいはキュービックな印象が強調されたエクステリアデザインとなっている。また、運転台側窓は1枚窓へ変更、客用扉内の内装ステップが廃止され[2]、これに伴い下部ドアレールが床面高さまで取り付け位置を引き上げられている[2][74]

前照灯は製作に当たって新造時に作成された図面(図面番号 外 イ 1032)では屋根中央に前照灯を取り付ける構造が示されていた[2]が、完成した実車写真では屋根に前照灯取り付け用の台座が存在せず、貫通扉に前照灯灯具固定用の金具が取り付けられており、電7形と同様、貫通扉に灯具を取り付けて使用されたことが確認できる[71]

屋根構造は木造車時代のそれを踏襲していた電7形[51]と比較して大幅に簡素化されており、室内天井部は段差のない丸屋根構造となった[2]。通風器はガーランド式を踏襲する[2]が、電7形のそれと比較して大型の通風器が左右に6基ずつ2列で計12基設置されている[2]。また電7形で特徴的だったランボードは、デハ3090ではパンタグラフ部を除く屋根中央に3枚並べたものを1組にして1列[2]、パンタグラフの両脇に各1列と簡素化された[2]。続くデハ3300形以降では通風器配置の変更に伴いパンタ部以外のランボードの2列化を実施された[69]ものの、室内天井部の構成などは概ねデハ3090形のものが踏襲されている[69]

公称定員は120名[2]、座席定員50名[2]で車体幅がやや縮小されたものの[2]、電7形と共通の値とされている[2]

主要機器

(参考)愛知電気鉄道デキ370形デキ372
BLW社製電気機関車のデッドコピー品。
(参考)パシフィック電鉄No.1624
BLW社原設計の車体・台車をパシフィック電鉄自社工場でデッドコピーして製作された。

初の直流1,500V電化対応車となった電6形の電装品を踏襲採用したため、主要電装品は愛知電気鉄道では電5形より採用が始まった[75]、アメリカのウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社が開発した製品で揃えられている[75]。これらの機器を搭載した車両群は搭載されたWH社製単位スイッチ式手動加速制御器の名称(HL:Hand acceleration , Line voltage)から名古屋鉄道社内でHL車と通称された[76]。これらは、名岐鉄道デボ800形1934年)に始まり、より高度かつ高機能な電動カム軸式自動加速制御器とより強力な電動機[注釈 15]を搭載する通称AL車[76](AL:Automatic acceleration , Line voltage)[注釈 16]と並んで、名古屋鉄道の在籍車両を二分する一大勢力を形成した。第二次世界大戦後に名鉄でSR車(Super Romance Car)と呼ばれるカルダン駆動発電ブレーキ付多段制御器を搭載する高性能車[76]が開発・実用化された後、大出力の電動機を搭載するAL車がなおも最大8両編成[79]を組んで特急や高速などの優等列車に充当され続ける一方で、HL車は低出力・低速度かつブレーキシステムの制約で長大編成化が困難であったことや、AL車と総括制御できないことなどから、徐々に2線級扱いされるようになっていった[4]

なお、愛知電気鉄道では本形式に先立ち、1925年[80]デキ370形として本形式の台車を担当したBLW社(車体・台車)とWH社(電装品)の2社の合作[80]による複電圧対応[80]の凸型電気機関車を2両、アメリカから輸入している[80]。このデキ370形は同時代のアメリカのインターアーバンで広く普及していた凸型電気機関車そのもの、あるいはその縮小版[注釈 17]である。

この時代、日本においては東洋電機製造の設立(1919年)[82]日立製作所の分離独立(1920年)[82]、そして三菱電機の分離独立(1921年)[82]、とその後の日本の鉄道車両製造に重要な役割を果たすことになる電機メーカーの設立が相次いで主要電気機器の国産化が本格化しており[82]、空気ブレーキシステムも1930年代までには国産化され[83]、台車も1920年代中盤には国産品の供給が一般化していた[84]。そのため本形式が製作された時期には輸入機器の採用実績はそれまでと比較して激減しており、国鉄でも本形式と同じ1926年製造のモハ30形以降、メーカー各社の共同設計による国産機器の全面採用に踏み切っていた[85]。この時期以降日米開戦までの間に日本に輸入された電車用機器は、本形式のボールドウィンA形台車やWH-556-J6、それに後継形式であるデハ3300形の一部で採用されたボールドウィンAA形台車のように、当時のアメリカにおける最新設計のサンプル導入としての性格を備えたものにほぼ限られることになった[86]。そのため1925年以降、日本車輌製造本店(車体)、三菱造船所(車体)、WH社(電装品)、東洋電機製造(電装品)、それに三菱電機(電装品)の各社の合作により、この種のアメリカ製凸型電気機関車をデッドコピーした凸型電気機関車は愛知電気鉄道自身のデキ370形増備車7両を含め日本各地の電化私鉄へ供給され[87][88][89]、また本形式のために輸入された最新バージョンのボールドウィンA形台車は、車体を製作した日本車輌製造の手によりD形台車としてデッドコピー品が第二次世界大戦後まで多数製作され[90]、さらに日本国内の別メーカーや鉄道会社の直営工場などによって孫コピーされてさえいる[91][92][84]

このように、当時の鉄道先進国アメリカから車両そのものや主要機器を輸入して導入された本形式とデキ370形は、共に以後日本の車両・機器メーカー各社が製作に携わることになる、私鉄向け電車・電気機関車の設計にそれぞれ重大な影響を及ぼしており[93]、中でも特に本形式のボールドウィン84-27-A 台車については、台車研究で著名な鉄道研究家の吉雄永春が「その後のわが国の台車の礎となった台車です」と評する[94]ほどの大きな影響を残した。

電装品

主電動機はWH社製直流直巻整流子電動機のWH-556-J6(端子電圧750V時1時間定格出力74.6kW、定格回転数985rpm[45]を各台車に2基ずつ吊り掛け式で装架する[45]。WH-556-J6は、先行する電6形や後続のデハ3300形にも採用された機種[45]で、定格回転数900rpm以下の低定格回転数かつ強トルク特性の電動機が一般的であったこの時代の量産電車用電動機としては異例の高定格回転数[45]特性の電動機である。このWH-556-J6は、愛知電気鉄道や同社傍系の知多鉄道以外では大阪鉄道西武鉄道武蔵野鉄道東武鉄道信濃鉄道長野電鉄、と比較的平坦な線形の直流1,500V電化路線[45]を中心に主にWH社製制御器とセットで導入された[45]。定格出力はやや低めであるが、この時代の日本を代表する電車用輸入電動機の1つである[45]

本形式の設計当時に量産されていた国鉄の電車用制式電動機は、国内メーカー各社の合同設計によりその後長く国鉄制式電車用電動機の基本となったMT15(1926年設計)[95]であるが、この電動機で定格回転数653rpm[95]、国鉄最後の量産電車用吊り掛け式電動機となったMT40Bでも定格回転数870rpm[96]であり、国鉄制式の電車用電動機では定格回転数が900rpmを超える量産機種は存在しない[97]。私鉄向けでも900rpmを超える定格回転数の電車用主電動機が日本のメーカー各社で一般に量産されるようになるのは、1930年代に入り東京横浜電鉄および目黒蒲田電鉄向けモハ510形日立製作所HS267(端子電圧750V時1時間定格出力94kW、定格回転数1,000rpm:1931年設計)や名岐鉄道デボ800形用東洋電機製造TDK-528/5F(端子電圧600V時1時間定格出力94kW、定格回転数950rpm:1934年設計)などが設計製作されるのを待つ必要があった[98]

本形式が製作された1920年代中盤の時点では、主回路の直並列切り替え抵抗制御を行う通常の制御器とは別に、主電動機の界磁の途中にタップを立て[99]、界磁接触器と呼ばれるスイッチ装置を介して界磁を一部バイパスすることで界磁を弱め[99]、高速回転時に大きな出力を得ることを可能とする[99]弱め界磁制御の導入は一般的ではなかった[注釈 18]。そのため、この時代の電車においては、主電動機の全界磁定格回転数と駆動装置の歯数比、それに車輪径の3つの要素が最高運転速度を決定する主な要因であった。同時代の一般的な電車用電動機に比して特に定格回転数が高く、しかも高回転域まで良く伸びる優れた出力特性を備えていたこのWH-556-J6[45]は、名古屋鉄道では後年、3700系や3730系、それに3780系に歯数比3.045[注釈 19]の設定で転用搭載され、最後まで弱め界磁制御機能を付加されないまま[注釈 20]、本線・支線系統の普通列車から支線特急[104]まで、名古屋鉄道の直流1,500V電化線区のほぼ全線区において[104]1996年まで多数が使用され続けた[105]

制御器は、WH社が開発したHL単位スイッチ式手動加速制御器を搭載する[63]。この制御器は電車線からの電力を抵抗で電圧降下させて低電圧の制御電源とする回路構成であるため、補助電源に使用する電動発電機は特に必要としない[76]

集電装置は、従来のトロリーポールに代えて[26]、大型で2本の集電舟を備える菱枠パンタグラフを1基[51]、横型碍子支持で搭載する[51]

機械装置

台車はJ.G.ブリル社製の鍛造釣り合い梁式台車であるBrill 27MCB-2を装着した電6形[46]とは異なり、同じく釣り合い梁式ではあるが形鋼組み立て構造で両抱き式基礎ブレーキ装置への対応が容易なBLW社製ボールドウィン84-27-Aを装着する[51]

もっとも、この台車は製作当時の最新仕様であるDepressed形と称するU字形状の釣り合い梁を備えていたものの[106]、基礎ブレーキ装置はこの種の高速電車用としては珍しく当初車輪の一方からのみブレーキシューを押し付ける片押し式踏面ブレーキであった[107]

この台車は、日本に来着したボールドウィンA形としては最末期に輸入されたもの[107]で、前述の通り日本車輌製造D形台車をはじめ日本の車両・台車メーカー各社が模倣し大量生産されたこの種の釣り合い梁式台車のスケッチ元となった機種でもある[107]

車輪径は864mm(2フィート10インチ:タイヤ新品時)[51]、軸距はこの時期の電車用台車としては標準的な2,134mm(7フィート[107][51]で、この台車の型番に含まれる「84-27-A」の「84」は84インチ=7フィート、即ちこの軸距の値を示す[108]。また、続く「27」は1台あたり27×1,000=27,000ポンド≒12.2tの心皿荷重に耐える設計であることを示す[108]

なお、この台車は1930年代中盤までに日本車輌製造の手により、基礎ブレーキ装置が車輪の前後からブレーキシューを締め付けることで制動をより確実にする両抱き式踏面ブレーキに改造されている[107]

ブレーキは、連結運転用の自動空気ブレーキと単車運転用で応答性の良い直通ブレーキの2種のブレーキを切り替え可能な自動直通ブレーキを搭載したとされる[60]。実際にも戦前戦後の電動車時代を通じてブレーキホースが自動空気ブレーキ用の元空気溜管とブレーキ管の2本1組で実装されていたことが当時撮影された写真で確認できる[1]

なお、後年の瀬戸線転用以降は電7形・附3形由来の10両全車がWABCO設計のSCE非常直通ブレーキを搭載している[109]

連結器は鉄道省制式の下作用式基本自動連結器(並形自動連結器)を装着する[49][51]。なお、メーカーカタログでは「連結運轉ニハ鐵道省基本自働聯結器ヲ取付タリ」とわざわざ特記している[49]

運用

豊橋線・名古屋本線時代

1948年まで

電7形・附3形は豊橋線の小坂井到達直前に竣工後、1926年4月1日の神宮前 ― 豊川間直通運転開始時[110]に運用を開始[62]し、予定通り1927年6月1日に豊橋線神宮前 - 吉田間が全通した際には、両ターミナル間を結ぶ特急急行に電6形[5]などと共通運用され、日本における長距離高速電車のトップグループ[62]となった。

豊橋線では神宮前 ― 吉田間を直通する急行は1時間間隔で運行され[26]、そのうちの1往復を速達列車として特急とした[26]。特急は神宮前 - 吉田間62.4kmを63分[26]、急行は72分[26]で結び、その表定速度はそれぞれ59km/h・52km/h[26]となった。これらはその運行開始前の時点で日本最速であった阪神急行電鉄(現:阪急電鉄神戸線各駅停車の51km/hを抜く高速運転[26]であった。

こうして電7形を筆頭とする400馬力電動車の威力で速達化を実現した豊橋線の全通は、名古屋・岡崎・豊橋の沿線主要3都市間を結ぶ交通事情に大きな変化をもたらした[111]。特に、従来は三河鉄道線を利用して一旦刈谷まで出て、そこで東海道本線へ乗り換える、遠回りなルートを経由せねばならなかった知立周辺の利用者にとっては、同駅から名古屋や豊橋と直結する豊橋線のもたらした速達効果は絶大なものであった[111]

(参考)愛知電気鉄道デハ3300形デハ3303
電7形の後継形式。車体が2m延長されるなど大型化し、台車もこれに伴い強化されたが、電装品やブレーキシステムは共通で制御シーケンスに相互互換性があったため、長らく共通運用された。

1928年にはデハ3300形を筆頭とする半鋼製18m車グループが電7形・附3形の増備車として運用を開始、同グループは車体寸法は拡大されたものの主電動機や制御器、ブレーキシステムといった主要機器がほぼ共通[注釈 21]で制御シーケンスやブレーキシステムに相互互換性があったことからこれらは本形式と混用され、急行などの営業列車での併結運転も実施されている[3]

その後、愛知電気鉄道は堀田 - 笠寺間の複線化工事完成[112]を機会に、1930年9月1日に運転開始した超特急「あさひ」で神宮前 - 吉田間の所要時間を57分(表定速度65.7km/h)に短縮した[112]

だが、同年10月1日に運転開始された京阪電気鉄道新京阪線のP-6形による超特急天神橋西院(仮)間を34分30秒で結んで表定速度67.4km/hを達成したため[113]、愛知電気鉄道が電7形によって達成し、保持していた高速運転の日本記録は3年で他社に更新される結果となった。なお、戦前の日本内地で最速列車のレコードホルダーとなったのは阪和電気鉄道の「超特急」(1933年12月20日運転開始[114])である。この列車は電7形のそれの2倍に当たる200馬力級電動機を搭載するモタ300形・モヨ100形のノンストップ運転により、阪和天王寺 - 東和歌山間61.2kmを45分(表定速度81.6km/h)で結んだ[115]

1930年ごろ撮影の写真を用いた絵葉書ではデハ3300形の前照灯が貫通扉に設置され[3]、1930年9月運転開始の超特急「あさひ」に運用されたデハ3300形は貫通扉に大型のヘッドマークを掲げ、前照灯が屋根上固定となっている[112]。このことから、愛知電気鉄道ではデハ3300形竣工以降の早い時期に前照灯が貫通扉への取り付け式から屋根上中央への固定に変更されたと考えられ、実際にも1934年5月撮影のデハ3080の写真では前照灯が屋根上に取り付けられている[1]。また、前述のとおりこれと前後して1930年代中盤までには台車の基礎ブレーキ装置がアメリカ流の機構による片押し式[107]から、より大きな制動力が得られる両抱き式へ改造されている[107]

愛知電気鉄道は1935年に8月1日に名古屋以西・以北の各路線を建設していた名岐鉄道と合併[116]し、ここに現在の名古屋鉄道が発足する[116]。その際に各社からの引継車間で形式・車番の競合が発生したことから形式番号の整理が行われ、本形式及び派生形式は以下のとおり新形式称号の付与と改番が実施された[117]

デハ3081 - デハ3084・デハ3080・デハ3086 - デハ3089 → モ3200形モ3201 - モ3209[117]
サハ2020 → ク2020形ク2021[117]
デハ3090 → モ3250形(初代)モ3251[62]

また、この改番と前後した時期に、旧愛知電気鉄道・知多鉄道系の車両については塗装が従来の愛知電気鉄道標準色であったマルーン[63]から合併相手である名岐鉄道で標準色であったダークグリーンへ変更されている[63]

各車とも戦時中に混雑緩和のため扉間のクロスシートがロングシートに改造され[63]戦後名岐線と豊橋線の電圧統一が成って統合され、名古屋本線と改称された1948年5月16日[118]まで、豊橋線で特急をはじめとする優等列車に使用された[4]

1948年から1965年まで

第二次世界大戦後、モ3200形・モ3300形といった愛知電気鉄道由来でHL制御器搭載の半鋼製車電動車群は、東西直通の開始に伴い20両が新造された3800系[119]以降の新形車の就役開始で名古屋本線の特急運用から外されて常滑線や河和線などへ運用線区を拡大[4]、知多鉄道由来の同系車であるモ910形などと共に木造制御車を連結して各線で急行・準急などの速達列車に充当されるようになった[4][注釈 22]

この時期、ク2021については1948年にモ3200形と同一の機器を用いて電装を実施し、制御車(Tc)から制御電動車(Mc)へ車種が変更されている[6]。これに伴い、同車は以下のとおり改称・改番された。

ク2020形ク2021 → モ3200形モ3210[117]

一方、客用扉にステップを持たない全鋼製試作車のモ3251は戦後、1948年5月の名古屋本線の架線電圧昇圧工事完成[120]とそれに伴う新岐阜 - 豊橋間の直通運転開始で特に需要が増大していた[8]、荷物輸送運用へ充当されることになり、青一色に塗装されて[2]旅客車としての形式称号を保ったまま荷物車代用として使用された[8]。ただし、この時代のモ3251の塗装については灰紫色であった、との記述も存在しており[8]、名古屋鉄道の旅客車が濃緑色に塗装されていた当時、青系統の塗料で塗装されていたことはほぼ確実であるものの、正確な塗色については明らかになっていない。同車はその後、1953年に名古屋車輛工業にて荷物電車としての専用設計車体へ更新され[121]デニ2001となっている[62][8]

モ3250形モ3251 → デニ2000形デニ2001

本車は後年、遅くとも1960年頃までには主電動機が本来のWH-556-J6から名古屋鉄道社内の予備品流用と見られる三菱電機MB-98Aへ交換され[122]、さらに台車交換[8]が実施されて本来のボールドウィン84-27-Aが3700系あるいは3730系へ転用されていたことが確認されている[123]

このデニ2001は名古屋本線で荷物電車として使用された後、1969年に廃車された[8]。以後、同車が担当していた荷物電車運用はモ800形両運転台車に引き継がれている[8]

1950年代後半に入ると、監督省庁である運輸省からモ3200形の連結相手であった旧電6形をはじめとする愛知電気鉄道・三河鉄道由来の木造車群について、早期の淘汰が強く求められる状況となった[注釈 23]。これは火災対策や衝突事故時などの乗客の安全性確保の観点から、燃えやすく脆弱な木造車が危険と判断されたためである[124]。これを受けて名古屋鉄道でも、当時は未だに多数を保有していた木造車について緩みや腐食などの老朽化が目立つようになっていたこと[75]もあり、軽量構造の全金属製車体を新造、これに木造車から取り外した、まだ十分使用に耐える主要機器[75]を艤装することで、車両製作コストを抑制しつつ速やかな木造車の淘汰を図る計画が立てられた[75]

(参考)名古屋鉄道3700系ク2711ほか
木造車各形式やモ3200形などから供出された電装品や台車を流用して製作された車体更新車の第1グループ。本系列に機器を供出したモ3200形3両はク2300形へ改造された。

この車体更新工事により、以後の使用にも耐える主要機器を搭載していた旧愛知電気鉄道電5形・電6形などの木造車群の淘汰が実施された[75]が、最初の機器流用車となった3700系では当初主電動機の非力さを補うため全電動車方式での車両製作をもくろんだ[125]こともあり、該当木造車群を機器供出元としただけでは電装品をはじめとする主要機器が不足した。このため、1959年にそれらの木造車と同系の機器を搭載するモ3200形の中から3両を選出、これらから3700系へ電装品や台車を供出する[6]ことで電動車の種車不足を補い、余ったこれら3両分の車体については低出力などの事情で機器供出対象とならなかった木造車などから流用の旧式台車と組み合わせ、制御車(Tc)へ改造されることとなった[6]。この改造の際には、片運転台化と片隅式運転台の全室式への改造、それらに伴う運転台側乗務員扉の新設と車掌台側乗務員扉の運転台側と同寸の開き戸への変更[126]、運転台を撤去した方の車端部についての車掌台側乗務員扉の撤去と一般的な客用窓の設置、それに段差のついた複雑なモニター屋根構造であった天井部の単純な丸屋根への改装[126]などの大掛かりな改修を実施して、以下のようにク2300形(2代)に改称された[127][117]

モ3200形モ3203・モ3207・モ3209 → ク2300形ク2301 - ク2303

これら3両の機器供出先となったのはモ3700形モ3719 - モ3721[104]であるが、その正確な対応関係は明らかとなっていない[104]

名古屋鉄道で木造車の淘汰が急速に進行していた1960年代中盤のこの時期、本形式は新造から40年が経過し、車体の疲弊や接客設備の陳腐化が目立ち始めていた。そのため、これらについても木造車と同様に車体更新が必要な状況となった[4]

(参考)名古屋鉄道3730系ク2736ほか
モ3200形やその他の半鋼製HL車から機器供出を受けて製作された車体更新車第2グループ。本系列へ機器供出したモ3200形7両はク2320形へ改造され、モ3200形は形式消滅となった。

そこで、1964年9月にモ3200形のまま残っていた7両について、その電装品や台車を3700系の改良形にあたる3730系へ供出、既に廃車済みの木造車から転用の台車を装着の上で、以下のように片運転台の制御車であるク2320形へ改造された[117]

モ3200形モ3201・モ3202・モ3205・モ3204・モ3206・モ3208・モ3210 → ク2320形ク2321 - ク2327

これによりモ3200形は形式消滅となったが、3730系への供出車については他の供出元各形式と同様、機器供出元と供出先の正確な対応が全く判然としない[104]。ただし、台車についてはモ3200形10両とモ3250形1両の合計11両分しか輸入されていないボールドウィン84-27-A[106]が、1967年8月の現車調査の時点でモ3719・モ3720・モ3731 - モ3737・モ3749・モ3774の11両に装着されていたことが確認されている[123]

ク2320形は車体の内外について大規模な改造工事を実施したク2300形とは異なり、運転台は片隅式のままに留められ、運転台側乗務員扉の新設を行わず車掌台側乗務員扉も引き戸のまま残された。さらには連結面側の旧乗務員室も主幹制御器やブレーキ制御弁といった機器を撤去しただけで、車掌台側乗務員扉を含め、乗務員室区画を撤去せずそのまま残しており、総じて簡易な改造に留められた[127]。なお、両形式とも前述の事情から、台車は以下のとおり廃車となった木造車から捻出された台車に交換されている[128]

  • ク2301
ボールドウィンタイプの形鋼組み立て台車[127](ボールドウィンA形台車の模倣品[94])を装着。
  • ク2302・ク2322・ク2324
ブリル27MCB-1を装着[127]
  • ク2303・ク2323・ク2325・ク2327
日本車輌製造42-84-MCB-1[127](ブリル27MCB-1の模倣品[129])を装着。
  • ク2321・ク2326
ブリル27MCB-2A[注釈 24]を装着。27MCB-1と42-84-MCB-1の基礎ブレーキ装置が片押し式の踏面ブレーキであったのに対し、この台車については車輪の前後からシューを締め付ける両抱き式に改造されていた[128]

この間、1962年にモ3208が事故に遭遇、妻面が大破した。この復旧の際に、踏切事故の発生を抑止すべく、運転台の床面高さをかさ上げすることで座席に着座して運転する乗務員の前方見通しを改善し、これにあわせて妻面窓や運転台側側窓の下辺の高さを引き上げる、いわゆる高運転台化改造工事が同車の運転台双方に対して施工されている[131]。なお、この改造では従来のリベット組み立てではなく全て溶接で妻面周辺の組み立てが実施され、併せて妻面周辺のウィンドウシル・ウィンドウヘッダーは省略されている[131]。この高運転台仕様は、電装解除によりモ3208がク2326へ改番された後も維持された[132]

モ3200形全車が電装解除された時点では、本形式は主要機器を3730系へ供出する前のモ910形やモ3300形・モ3350形といったHL制御器搭載電動車と編成を組み、名古屋本線や直流1,500V電化の支線各線での運用が継続された[4]。この時期には、例えばク2300形3両は電装解除前のモ910形とMc-Mc-Tcの3両編成を組んで運用されていたことが記録されている[4]

瀬戸線時代

瀬戸線特急車時代のモ900形モ901(左手前)とク2300形ク2301(右奧)。両形式の屋根高さの相違に注意。

名古屋鉄道で木造車が在籍する最後の線区の1つとなった、という事実[注釈 25]が示すように、瀬戸線は1960年代中盤当時、路線の一端が名古屋市の都心部に乗り入れるという好条件の下で乗客数が急増していたにもかかわらず、5500系以降冷房付き高性能車の導入が進んでいた名古屋本線などの他線区と比較して車両や地上設備の体質改善が著しく遅れていた。特に車両については、1948年以降の同線では前身である瀬戸電気鉄道からの引継車だけではなく、尾西鉄道[136]や三河鉄道[137]東美鉄道[137]、そして碧海電気鉄道[138]、など名古屋鉄道に統合された中でも傍系に属する[139][140]各私鉄由来の、『あたかも名鉄創世記の車輛の縮図のような』と評される[134]ほど種々雑多な車両が運用される有様[134]であった。

1960年代当時の瀬戸線は名古屋鉄道の本線系統において標準であった直流1,500V電化ではなく、路面電車並の直流600V電化のままであった[141]。しかも名古屋側のターミナルである堀川 - 東大手の間で国の特別史跡である名古屋城の外堀の中に線路を敷設[142]しており、都心との連絡には大津町での名古屋市電との乗り換えが必須で、実質的に堀川ではなく同駅が名古屋側ターミナルとして機能する状況[143]であった。

また、旧久屋駅付近にあった通称「サンチャインカーブ」(半径3チェイン≒60m[144])のように時速20km/hの速度制限がかかるほどの急カーブ[145]が多数存在[注釈 26]、さらには戦後になってもなお、本町西方に上下線の列車がここですれ違うことを阻むガントレットが残存する[148][注釈 27]など、問題が山積していた。

こうした瀬戸線の地上設備改良については、最終的に堀川 - 東大手間の廃止[142]と、これの代替となる地下新線の建設による名古屋市中心部のへの乗り入れ[150]、それ以外の区間の一部高架化とこれに伴う線形改良[151]、そして瀬戸線全区間の架線電圧の直流1,500Vへの昇圧実施[152]、などによって解決が図られたが、その実現までには、実に10年以上もの長い時間を要した[153]

このような状況下、瀬戸線では種々雑多な小型老朽車、特に木造車の一掃を迫られていた[154]。そこで、当時残存していた木造車の代替用[154]として、3700系・3730系への機器供出を経て本線系統で遊休状態となっていた16m級半鋼製制御車、つまり愛知電気鉄道電7形由来のク2300形およびク2320形と、知多鉄道デハ910形由来のク2330形が選ばれた[155]。16m級車であれば急曲線区間の多かった、当時の瀬戸線でも問題なく運用可能[155]であったためである。

かくして、1965年から1966年にかけて、これら3形式の瀬戸線への転属措置が順次とられた[155]。その際、一旦3730系への機器供出により電装品を供出した[70]後、制御車化の際に交換された台車まで3730系への再供出対象とされた[155]結果、車体のみとなっていたク2330形が、瀬戸線在籍の木造車であるモ600形(初代)などを廃車して捻出された電装品および台車と組み合わせることで再電装され[154]、一方の車端部にのみ運転台を設置する片運転台の制御電動車(Mc)であるモ900形[154]となった。

残るク2300形とク2320形は、このク2330形改めモ900形とMc-Tcの2両固定編成を組んで運用された[155][注釈 28]。もっとも、モ900形は7両が在籍した[70]が、ク2300形とク2320形は合計10両が在籍しており[6]、制御電動車と制御車各1両で2両編成を組んだ場合、ク2320形は3両が余剰となった。そのため、これら3両はモ600形(初代)の増備車で同形式と同様に「デッカーシステム」由来の制御器を搭載する、つまり再電装後のモ900形と同等の制御器を搭載するモ700形と連結して運用されることとなった[109]

その後、モ900形とク2300形・ク2320形の固定編成はまずク2300形を含む3編成(モ901 - モ903・ク2301 - ク2303)が1966年に新設された瀬戸線特急車として指定された[158]。これに伴い、サービス改善のため各車の客用扉間に設置されていたロングシートの大半を転換式クロスシートに交換[159]してセミクロスシート車に改造し、本線のパノラマカーと同様の逆さ富士形行先・種別表示板を掲げて運用されることになった[158]。この段階ではモ904-ク2324が予備車指定となっていたが、同編成は塗装をスカーレットに変更されただけであった[70]

この特急は好評で、瀬戸線乗客の増加傾向が見られたことから1968年には増発が実施され、前回と同様にモ900形+ク2320形で3編成6両(モ904 - モ906・ク2322 - ク2324)が特急車として追加指定された。この際、モ900形は全車とも扉間座席を転換クロスシート化されたが、ク2320形は前回予備車指定であったク2324のみ転換クロスシート装備とされた[159][155]

この2度に分けた特急車への格上げ改造工事の際には、ク2300形全車とク2322 - ク2324が連結相手となるモ900形と共にミュージックホーンの取り付けや室内灯の蛍光灯への交換を実施し、順次スカーレットに塗装された[6]

残るクハ2320形の一般車4両は従来通りダークグリーンのままであった。ただし、モ900形を含む編成の中で唯一特急指定から外れたモ907-ク2321については、1972年に一般車仕様のまま塗装がダークグリーンからスカーレットに変更された。つまり、瀬戸線でモ900形とペアを組んで運用されたク2300形・ク2320形は、特急車指定の有無にかかわらず最終的に7両全車がスカーレットに塗装されている。さらに後年、揖斐線・谷汲線へ転出したグループについてもダークグリーンからスカーレットへの塗装変更が実施されたため、電7形・附3形由来の10両は全車がスカーレットに塗装された経歴を持つ[155]

特急車については1968年7月にモ902-ク2302編成で試験的に窓下に200mm幅の白帯を巻いたところ好評であった[155]ため、他の5編成についてもこの塗装が実施された[155]。また特急車は全車とも客用扉を自動扉化[155]、一部については窓サッシ交換に伴い運転台側妻窓の1枚窓化を実施している[160][131]

1971年当時の編成は以下の通り[117]

特急車
(1966年指定)
モ901 ク2301
Mc Tc
モ902 ク2302
Mc Tc
モ903 ク2303
Mc Tc
特急車
(1968年指定)
モ904 ク2324
Mc Tc
モ905 ク2322
Mc Tc
モ906 ク2323
Mc Tc
一般車
モ907 ク2321
Mc Tc
モ704 ク2325
Mc Tc
モ702 ク2326
Mc Tc
モ703 ク2327
Mc Tc

だが、そうした華々しい運用の一方で、1973年6月[161]より瀬戸線車両の体質改善を目的として、近代的な17m級全金属製車体を備える3700系10両[注釈 29]について、主要機器の降圧改造を実施の上で本線系統からの転入が実施された[161]。これにより一般車のク2325・ク2327が余剰となり[164]、両車は瀬戸線と同様に直流600V電化で、瀬戸線以上に厳しい車両状況にあった揖斐線・谷汲線へ転用された[6]。この際、それまで手動のままであった客用扉に扉鎖錠装置が追加され[162]、さらに1978年には自動扉化が実施されている[162]

揖斐線・谷汲線時代

ク2323(旧電7形デハ3080)+モ704 (黒野駅、1988年)
モ750形(左端)およびモ700形(中央)と連結して運用されるク2320形(右端)

瀬戸線が栄へ地下線で延長されるのに先行して1978年3月19日に実施された同線の直流600Vから直流1,500Vへの架線電圧昇圧と、これに伴う本線系統からの3780系[165]・3730系[166]の転入、および瀬戸線向けとしては1936年のガソリンカー以来42年ぶりの完全新車となる6600系の新製投入[167]によって、同線在籍のク2300形およびク2320形はペアを組むモ900形と共に全車が余剰となった。モ900形については7両全車が北陸鉄道福井鉄道へ譲渡された[156]が、本形式についてはク2300形全車とク2320形ク2321・ク2322・ク2324の合計6両がそのまま廃車となった[168]。一方、ク2320形の残る2両、つまりロングシートのまま特急に使用されていたク2323と一般車で高運転台仕様のク2326の2両については再転用が図られ、揖斐線・谷汲線へ投入された[162][169]

揖斐線・谷汲線は瀬戸線と同様、本線のみならず他の各支線とも直接接続せず、岐阜市内線を介して名古屋本線や各務原線と連絡する[135]、という立地条件の悪さなどから「名鉄の離れ小島」[135]とまで呼ばれ、モータリゼーションの嵐が吹き荒れた時代には路線廃止が検討されるほどの状況であった[135]。しかし、起死回生策として1967年より運転を開始した市内線直通急行が一定の成功を収めた[135]ことから路線廃止の議論は沙汰止みとなり[135]、1970年代に入ると、1965年以降事実上手つかずのまま放置されていた車両の体質改善が実施されることになった[169]。その際、直流600V電化で残っていた瀬戸線の近代化に伴う車両転入で余剰となった車両が揖斐線・谷汲線へ再転用されることとなり[169]、同様の事情で余剰となったモ700形やモ750形と共に、ク2320形が1973年と1978年の2回に分けて2両ずつ投入された[169]ものであった。

ク2323・ク2326の揖斐線・谷汲線への転用の際には、従来白熱電球を使用していた前照灯が定電圧回路付きのシールドビームへ交換された[162]。また、1978年には全車について自動ワイパーが妻面の運転台側妻窓に取り付けられている[162]

また、一部については運転台側妻面窓枠のアルミサッシ化や戸袋窓のHゴム支持化改造工事が実施されている[131]

その後は残されたク2320形ク2323・ク2325 - ク2327の4両がモ750形や片運転台式に改造されたモ700形と連結して運用された[132]

1997年4月に連結運転可能な岐阜市内線・揖斐線直通車であるモ780形が新造[7]されると、ク2320形は同年4月5日のダイヤ改正を前に定期運用を離脱[7]、同年5月20日付で4両全車が廃車[170]となった。

車歴

電7形・附3形→モ3200形・ク2020形→ク2300形・ク2320形
竣工時
形式称号
竣工時
記号番号
竣工年月 名鉄統合時
記号番号
改造後
記号番号
(電装)
改造年月
(電装)
改造後
記号番号
(電装解除I)
改造年月
(電装解除I)
改造年月
(高運転台化)
改造後
記号番号
(電装解除II)
改造年月
(電装解除II)
改造年月
(特急車
整備I)
改造年月
(特急車
整備II)
除籍年月
電7形 デハ3080 1926年3月 モ3205 ク2323 1964年9月 1968年 1997年5月
電7形 デハ3081 1926年3月 モ3201 ク2321 1964年9月 1978年3月
電7形 デハ3082 1926年3月 モ3202 ク2322 1964年9月 1968年 1978年3月
電7形 デハ3083 1926年3月 モ3203 ク2301 1959年 1966年 1978年3月
電7形 デハ3084 1926年3月 モ3204 ク2324 1964年9月 1968年 1978年3月
電7形 デハ3086 1926年3月 モ3206 ク2325 1964年9月 1997年5月
電7形 デハ3087 1926年3月 モ3207 ク2302 1959年 1966年 1978年3月
電7形 デハ3088 1926年3月 モ3208 1962年 ク2326 1964年9月 1997年5月
電7形 デハ3089 1926年3月 モ3209 ク2303 1959年 1966年 1978年3月
附3形 サハ2020 1926年3月 ク2021 モ3210 1948年 ク2327 1964年9月 1997年5月
デハ3090形→モ3250形→デニ2000形
竣工時
記号番号
竣工年月 名鉄統合時
記号番号
改造後
記号番号
改造年月 除籍年月 備考
デハ3090 1926年12月 モ3251 デニ2001 1953年 1969年8月 全鋼製試作車

脚注

注釈

  1. ^ もっとも、正式な書類上でこの形式称号を使用していた期間は存在せず、愛知電気鉄道と名岐鉄道の合併による2代目名古屋鉄道成立時の大改番の際に、直接電7形からモ3200形へ改形式されている[1]
  2. ^ 当時愛知電気鉄道は有松線と共に常滑線尾張横須賀から分岐し知多半島東海岸の半田に至る半田線[13]の建設を準備していた[14]が、大正初期の不況で業績が悪化したため[15]、沿線人口が多く収益が期待できる有松線の建設を優先することとし[15]、鉄道省武豊線と競合する半田線は計画中止としている[15]。有松線の開業は、1914年の軽便鉄道補助法に基づく政府補助金の交付(1917年上半期まで)[16]と第一次世界大戦勃発に伴う日本国内の景気回復を受け、さらに熱田 - 豊橋間を結ぶ高速電気鉄道の建設を画策する尾三電気鉄道への対抗の必要が生じたこと[17]から、特に優先して実施された[17]
  3. ^ 尾三電気鉄道として御器所村(現在の名古屋市昭和区)から下地町(現在の豊橋市下地町)までの免許を取得した後、福澤桃介を創立委員長に迎えて会社設立[18]。この東海道電気鉄道は最終的には東京 - 大阪を結ぶ長大な高速電気鉄道線の建設計画を立てていた[18]が、その最大の資本提供者で過去に日本電気鉄道(東京 - 大阪間電気鉄道敷設を計画)の計画も推し進めていた安田善次郎1921年に暗殺されて資金繰りがつかなくなったため、計画は頓挫した[18]。計画の頓挫後、東海道電気鉄道は美濃電気鉄道と愛知電気鉄道の両社へ救済合併の申し入れを行った[19]が、美濃電気鉄道がこの申し入れを断り、愛知電気鉄道はこの申し入れを数度の交渉の後で受け入れた[19]ため、東海道電気鉄道の保有していた免許線は以後、愛知電気鉄道によって保有・建設されることとなった[19]。なお、東海道電気鉄道社長となった福澤桃介は1917年まで[20]、後に愛知電気鉄道社長となる藍川清成常務の懇望に応えて愛知電気鉄道社長を務めており[20]、この人的関係から愛知電気鉄道は東海道電気鉄道の救済合併と計画線免許の承継[15]による路線建設計画の続行を図ったと考えられている[21]
  4. ^ 有松裏 - 新知立(仮)間9.2kmを1923年4月1日、新知立(仮) - 西岡崎間11.4kmを1923年6月1日、西岡崎 - 東岡崎間1.3kmを1923年8月8日にそれぞれ開業した後、東岡崎 - 小坂井間26.1kmを1926年4月1日に一挙に開業、最後に残った伊奈 - 吉田間5.0kmを1927年6月1日に開業してようやく全線開業にこぎ着けている[10]
  5. ^ 神宮前から矢作川付近までは概ね東海道本線と平行して敷設されているが、それ以東は矢作川を渡って岡崎の市街地へ到達し、ここから豊橋まで本宿赤坂国府と内陸寄りの集落を結ぶ経路を採る。このため若干経由地は異なるものの、直進して矢作川を渡らず川沿いに南下し、蒲郡から海岸沿いに豊橋に至る経路を選定した東海道本線よりも忠実に旧東海道をトレースする経路[22]となっている。
  6. ^ 75ポンドレールは日本では1904年の日露戦争後、輸送量が増大したことに対応し、国鉄での採用が1906年に始まった[27]。そのため、1914年の東京駅開業時[28]をはじめ、豊橋線建設の時点で国鉄の幹線系統においては普及が進んでいたが、そうした幹線系統ですら側線などには60ポンド(30kg)レール以下の軽い軌条を採用する例が少なくなかった[28]。1915年の時点では「普通の60封度、軌条」という記述が業界紙で使用されており[29]、豊橋線全通直前の1925年に鉄道省大臣官房研究所が編纂した分岐器の明細図では37kgレールと30Kgレールに対応する図のみが掲載されていて、100ポンド(50kg)レールの掲載はない[30]
  7. ^ 第二次世界大戦前の日本の郊外電気鉄道では、最急勾配は33パーミルとするのが一般的[32]で、蒸気機関車を使用する鉄道でも通常は25パーミルから40パーミルまでと定められていた[33]
  8. ^ 軌道中心間隔は1,067mm軌間の地方鉄道では条件によらず3.35m以上、国鉄でも停車場外で3.6m以上と定められていた[36]
  9. ^ 有松線→岡崎線の架線電圧昇圧は1925年6月15日実施。一方、常滑線の昇圧実施は1929年1月18日である[42]。なお、この昇圧工事での際に不要となった岡崎線の直流600V対応変電機器一式は、合併した西尾鉄道から引き継いだ西尾線の電化時に流用・移設されている[43]
  10. ^ メーカーである日本車輌製造が発行したカタログでは、本形式とその姉妹車である伊勢電気鉄道デハ121形[50]に限り、他の形式で用いられていたような「郊外用高速度電動客車」などではなく、「急速度用電動客車」と特に銘打たれていた[49]
  11. ^ 従来の形式付与ルールを適用すれば「電8形」とされるべき車両であるが、本形式以降、形式:電x形、記号番号デハxxxxという形式番号の付与ルールが改められたらしく、初号車の記号番号がそのまま形式として扱われるようになっている[2]
  12. ^ 後の豊橋鉄道モ1401。デハ3090の図面が図面番号 外 イ 1032で1926年4月10日作成[2]、デテハ1001の図面が図面番号 外 イ 1008で1926年4月15日作成[61]となっており、図面作成日付と図面番号の順序の入れ替わりが生じている。
  13. ^ 狭幅とすることで、隣接する側窓とこの乗務員扉が干渉しないように設計されている[51]。愛知電気鉄道(および傍系の知多鉄道[68])では続くデハ3300形[69]以降でも車掌台側の乗務員扉を通常よりも広幅の引戸とし[68]、隣接する側窓を戸袋窓とする[68]ことで乗務員室からの手小荷物の積み卸しが容易となるように設計していた[63]が、本形式において開き戸ではなく狭幅の引戸を採用した理由は定かではない。
  14. ^ 全鋼製車として先行した阪神急行電鉄510でも実測車体重量が12.204英トン[72]で、同寸法の半鋼製車である700形(12.22英トン)より軽かったことが記録されている[72]
  15. ^ HL車がその大半で後述するWH-556-J6や三菱電機MB-98、芝浦SE-132などの端子電圧750V時1時間定格出力が75kW級の電動機を搭載したのに対し、AL車では東洋電機製造TDK528/5Fや芝浦SE-139といった端子電圧750V時1時間定格出力が110kW級の電動機を搭載した[77]
  16. ^ ただし、デボ800形に実際に搭載されたのはWH社あるいはそのライセンシーである三菱電機製のAL電空単位スイッチ式自動加速制御器[76]ではなく、全く系譜の異なるイギリス・イングリッシュ・エレクトリック(EE)社系の「デッカー・システム」と総称される技術に基づいて設計製作された、東洋電機製造製のES系電動カム軸式自動加速制御器[78]である。
  17. ^ 例えば、サザン・パシフィック鉄道1911年にBLW社とWH社に発注し、同鉄道傘下のパシフィック電鉄でNos.1601 - 1610となった60t級凸型電気機関車[81]は、車体のレイアウトや釣り合い梁式の台車などの基本設計はデキ370形と酷似していた。なお、パシフィック電鉄は1925年から1926年にかけてNos.1619 - 1631として、製作コスト削減のため自社トーランス工場でNos.1601 - 1610の車体・台車をデッドコピーした60t級電気機関車を量産している[81]。つまり、BLW社製品のデッドコピーは何も日本に限った話ではなく、アメリカ本国でも同様に行われていたのである。
  18. ^ 日本の高速電車における弱め界磁制御の導入は、阪神急行電鉄51形(製造初年:1920年。架線電圧直流600V、ゼネラル・エレクトリック(GE)社製PC-5電空カム軸式自動加速制御器搭載)を嚆矢とする[100]が、本格的な普及は149.2kW級電動機の搭載で最高速度120km/hを達成したとされる新京阪鉄道P-6形(1927年)[101]を筆頭に、阪和電気鉄道モヨ100形(1930年)[101]参宮急行電鉄デ2200形(1930年)[101]、そして、鉄道省モハ32形(1930年)[48]と1920年代後半以降となった。
  19. ^ この歯数比と車輪径(860mm)、それに電動機の全界磁定格回転数(985rpm)の関係から、全界磁定格速度は約52km/hとなる[102]
  20. ^ 弱め界磁制御機能の付与にあたっては、元々この機能に対応しない電動機の場合、界磁コイルを一旦解いてその途中に回路短絡用タップを立てて巻き直し、そのタップから界磁接触器まで配線を引き出さねばならず、大改造が必要であった。名古屋鉄道では本来弱め界磁機能搭載で竣工していた筈[103]3880系においても、東京急行電鉄時代に界磁巻線から引き出された配線を撤去していた[103]ためにこの機能の再整備を断念した[103]、という経緯があった。
  21. ^ 台車が、本形式のBW-84-27Aを模倣しつつ車体大型化に合わせて心皿荷重上限を16tへ拡大した日本車輌製造D16[69]と、従来と同じボールドウィン製だが改良新型のAA形で、心皿荷重上限が35,000ポンド(≒15.875t)に引き上げられたBW-84-35AA[107]の併用となった以外は制御器も電動機も同一である。
  22. ^ 第二次世界大戦後に撮影されたモ3209の写真(福島隆雄撮影)[1]では、モ3200形と旧愛知電気鉄道や三河鉄道などに由来するHL制御器搭載の木造制御車がペアを組み、Mc-Tc+Mc-Tcの4両編成で急行運用に充当されていたことが確認できる。また、この時期には従来妻面の車掌台側腰板部に1灯のみ設置であった標識灯が妻面腰板部左右に各1灯設置となり、貫通路上部周辺に幌吊り用金具や水切が追加設置されていた[1]
  23. ^ この種の通達は、1951年桜木町事故やその直後に起きた大阪市営地下鉄1号線での車両発火事故など、車両火災事故が頻発した事への反省から、特に混雑度の高い都市部の路線で木造車を運用する大手私鉄各社に対して実施された[124]
  24. ^ 27MCB-1の大荷重対応版。サフィックスに示される数字は枕ばねに用いる重ね板ばねの列数を示し、27MCB-2では2列の重ね板ばねを備える。軸距と荷重上限で型番を示したBLW社とは異なり、J.G.Brill社の型番付与ルールでは台車の規模とサフィックスの数字の間には必ずしも相関があるわけではなく、長軸距で大型の台車枠であるにもかかわらず枕ばねが2列であったために27MCB-2とされた形式も存在した[130]
  25. ^ 名古屋鉄道から木造車が全車廃車された1966年の時点で、木造車が残っていたのは揖斐線と瀬戸線の2線区[4]で、共に直流600V電化[133]かつ本線系統との接続駅を持たない孤立線区[134][135]であった。
  26. ^ 2013年の時点でもなお、喜多山付近に半径166mのS字曲線が残存しており[146]、瀬戸線向け最新鋭車の4000系が本線系一般車で標準となっている軽量のボルスタレス台車ではなく、重くとも転向性能に優れるボルスタ付き台車を装着する原因となっている[147]
  27. ^ ガントレットは戦前には久屋の西、久屋橋の下にももう1カ所存在した[148]が、これは1935年にそこで起きた電車の正面衝突事故が原因で改良工事が実施され、廃止となっていた[149]
  28. ^ なお、このモ900形およびその機器流用元となったモ600形は、瀬戸線転属前の制御車3形式が電動車時代から搭載していたHL制御器とは制御シーケンスに互換性のない、「デッカーシステム」由来の東洋電機製造ES-155電動カム軸自動加速制御器を搭載していた[156][157]
  29. ^ この時点でなお、瀬戸線にはク2320形一般車を筆頭としてドアエンジンさえ設置されていない、前近代的な接客設備の車両が多数在籍し[162]、サービス面や保安面で深刻な問題となりつつあった。これら3700系10両は、冷房こそ未設置であったもののそれ以外は充分な水準の接客設備を備えており、『瀬戸線近代化の第一歩』[163]として重要な役割を果たした。もっとも、17m級で本形式やモ900形と比べて大柄な3700系の瀬戸線入線に当たっては、車両限界や急曲線区間通過などの実地確認[158]や、それに伴う調整などさまざまな問題が存在した[158]とされる。

出典

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参考文献

書籍

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  • 藤井信夫『車両発達史シリーズ4 阪急電鉄 京都線』関西鉄道研究会、1995年。 
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雑誌記事

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