泥田坊
泥田坊(どろたぼう)は、鳥山石燕による画集『今昔百鬼拾遺』にある妖怪[1]。
概要
画図での泥田坊は顔が片目のみで手の指が3本しかなく、泥田から上半身のみを現した姿で描かれている[1][2]。解説文によれば、北国に住む翁が、子孫のために買い込んだ田を遺して死んでしまい、その息子は農業を継ぐどころか酒ばかり飲んで遊びふけっており、夜な夜な田に一つ目の者が現れ「田を返せ、田を返せ」と罵ったとある[1]。
このことから一般には、農業を営む老人が田を遺して死んだ末、放蕩息子を怨んで泥田坊という妖怪と化したものとされる[2]。太平洋戦争の時期には、基地建設のために多くの農地が撤収され、農民は反対したために逮捕されたり、行き場を失って浮浪者となったり自殺したりと不遇な死を遂げたことから、昭和に入ってから彼らの怨念が泥田坊と化して祟りを起こしたとの説もある[2]。
文学博士・阿部正路の説によれば、人間の手の5本指は2つの美徳と3つの悪徳を示し、瞋恚、貪婪、愚痴という3つの悪徳を知恵と慈悲の2つの美徳で抑えているので、3本指の泥田坊は悪徳のみで生きる卑しい存在としている[2]。
妖怪研究家・多田克己は、『今昔百鬼拾遺』の泥田坊は石燕が言葉遊びで創作したものであり、遊郭の新吉原を意味しているとの説を唱えている。江戸時代では「北国」とは吉原の異称であり、新吉原は田園に作られたために吉原田圃とも呼ばれていた。「泥」は放蕩の蕩(どろ)に通じ、「翁が死ぬ」は翁亡くす→置なくす、即ち質草を流すことに通じるというのである。また多田は「田を返せ」という台詞を「田を耕せ」という意味に解釈しているが、田を耕すとは性交を意味する隠語であり、「田を返せ」は客引きの台詞という意味にもとれる。多田はこのように言葉の意味を解き、泥田坊とは新吉原のことを妖怪の姿として描いたものと解釈している[1]。
また、紀州藩御殿医・品川玄湖の狂歌師としての雅号「泥田坊夢成」、または何もかも台無しにすることを意味する慣用句「泥田を棒で打つ」をもとにした創作物との説もある[3]。
小説家・山田野理夫の著書『東北怪談の旅』には、「ドロ田坊」と題して山形県の怪談が以下のように述べられている。庄内に住むアキという女が、夫の半左衛門が川の工事に狩り出されてずっと家を空けているので、毎日家で怠けていた。しかし周囲から「田で働いているみんなと同じように家から出ろ」と言われ、仕方なく家を出たものの、田植えもせずにぶらぶらしていた。あるとき山へ入ったアキは、見かけない若者に会い、彼と契って毎日楽しむようになった。やがて半左衛門が仕事を終えて家へ帰ると、アキがいない。人づてにアキがよく山へ行っていると聞き、その山へ行ったところ、蛇を股に巻きつけたアキが卵を産み落としていた。呆れた半左衛門は、アキに蛇の妻になれと言い、離婚を言い渡した。アキが山を降りて田のあぜ道を歩いていたところ、田から泥だらけの坊主「ドロ田坊」が現れ、「蛇の子を産むより田植えをしろ」と言い放ったという[4]。
富山県にも同様の怪談・伝説が残っている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。