水野忠鼎
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 延享元年5月16日(1744年6月26日) |
死没 | 文政元年8月3日(1818年9月3日) |
改名 | 浅野長孝(初名)、水野忠鼎 |
別名 | 式部(通称) |
墓所 | 茨城県結城市の万松寺 |
官位 | 従五位下左近将監 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 肥前唐津藩主 |
氏族 | 浅野氏、水野氏(忠元流) |
父母 |
浅野宗恒、和泉 水野忠任 |
兄弟 |
浅野重晟、忠鼎、浅野長員、浅野長包、 松平定功正室 |
妻 | 水野忠任養女 |
子 | 忠光、内藤正国、忠方、忠寛、米倉昌俊、内藤政璟、石川総師正室、水野貞利正室、大岡忠正正室、水野忠純室ら |
水野 忠鼎(みずの ただかね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。肥前国唐津藩2代藩主。忠元系水野家9代。水野忠邦の祖父である。
略歴
[編集]延享元年(1744年)、安芸国広島藩6代藩主・浅野宗恒の次男として誕生する。明和4年(1767年)9月18日、唐津藩初代藩主・水野忠任の養子となる。同年11月1日、10代将軍・徳川家治に拝謁する。同年12月16日、従五位下・左近将監に任官する。安永4年(1775年)9月23日、忠任の隠居により、家督を継いだ。
安永8年(1779年)8月12日、幕府の奏者番に就任した。藩政においては二本松義廉を登用して財政改革を行なったが、天明の大飢饉に見舞われて失敗に終わった。享和元年(1801年)に藩校・経誼館を設置している。
文化2年(1805年)9月5日、長男の忠光に家督を譲って隠居し、文政元年(1818年)に死去した。享年75。
系譜
[編集]父母
正室
子女
- 水野忠光(長男)生母は袖(正室)
- 内藤正国[1](四男)
- 水野忠方
- 水野忠寛
- 米倉昌俊[2](九男)
- 内藤政環[3](十男)
- 久(次女) ー 石川総師正室
- 美尾 ー 水野貞利正室後に片桐貞彰正室
- 栄 ー 大岡忠正正室
- 琴 ー 水野忠純室