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ヨアヒム・シュトライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨアヒム・シュトライヒ
名前
ラテン文字 Joachim Streich
基本情報
国籍 ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1951-04-13) 1951年4月13日
出身地 ヴィスマール
没年月日 (2022-04-16) 2022年4月16日(71歳没)
身長 173cm[1]
体重 70kg[1]
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1967-1975 東ドイツの旗 ハンザ・ロストック 141 (58)
1975-1985 東ドイツの旗 1.FCマクデブルク 237 (171)
代表歴
1969-1984 東ドイツの旗 東ドイツ 98 (53)
監督歴
1985-1990 東ドイツの旗 1.FCマクデブルク
1990-1991 ドイツの旗 ブラウンシュヴァイク
1996-1997 ドイツの旗 FSVツヴィッカウ
獲得メダル
男子 サッカー
1972 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヨアヒム・シュトライヒ(Joachim Streich, 1951年4月13日 - 2022年4月16日[2])は、ドイツ(旧東ドイツ)出身の元サッカー選手サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード東ドイツ代表として102試合に出場し最多得点記録を打ち立てたことから、「東ドイツの最高のサッカー選手」「東のゲルト・ミュラー」と呼ばれた[3]

経歴

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地元のアウフバウ・ヴィスマールでサッカーを始め、1967年ハンザ・ロストックでデビューを飾った。その後、1975年1.FCマクデブルクへ移籍し、1985年に引退するまでリーグ通算378試合出場229得点を記録した。

東ドイツ代表としては1969年12月8日に行われたイラク代表との国際親善試合でデビュー[4]1974 FIFAワールドカップ予選では10得点をあげワールドカップ初出場に貢献し、1974年西ドイツで開催された本大会では2得点をあげて2次リーグ進出に貢献した[4]。その後、1984年10月20日に行われたユーゴスラビア代表戦を最後に代表から退くまで、国際Aマッチ102試合に出場し55得点を記録した[4]。なお、この記録は1972年ミュンヘンオリンピックの試合を含んだもので[4]ドイツサッカー連盟の公式サイトでは98試合出場53得点としている[1]

現役引退後は指導者の道へ進み、古巣のマクデブルクで5年間に渡って監督を務めた後、1990年4月11日ブンデスリーガ2部アイントラハト・ブラウンシュヴァイクの監督に就任した[5]。シュトライヒは東欧革命により社会情勢が変化する中、西側のクラブと契約を結んだ最初の指導者となった[5]。その後、1997年FSVツヴィッカウの監督を務めた。

脚注

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  1. ^ a b c Joachim Streich”. Deutscher Fußball-Bund e.V.. 2016年9月29日閲覧。
  2. ^ Wirch, Mirko. “1. FC Magdeburg: Joachim Streich erliegt seiner Krankheit” (ドイツ語). www.volksstimme.de. 2022年4月16日閲覧。
  3. ^ Der beste Fußballer der DDR: Joachim Streich”. 11 Freunde (2011年10月3日). 2016年9月29日閲覧。
  4. ^ a b c d Joachim Streich - Century of International Appearances”. rsssf.com. 2016年9月29日閲覧。
  5. ^ a b DDR-Rekordspieler Streich wird Rekordtrainer”. Deutscher Fußball-Bund e.V.. 2016年9月29日閲覧。

外部リンク

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