三友國五郎
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三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 - 1983年)は、日本の地理学者、考古学者。吉野ヶ里遺跡の発見者。
来歴・人物
[編集]旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)[2]、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て[3]、1931年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した[1]。
卒業後は旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)の教諭となる[1]。当地では北九州郷土史研究会に参加した[1]。1934年に吉野ヶ里遺跡を学会に報告し、七田忠七とともに発見者となった[1]。
1938年に日本統治下の朝鮮にあった旧制平壌第三中学校に転任[1]、1940年に旧制平壌第一中学校に移る[4]。この時期には、朝鮮で有光教一らが実施した発掘調査にも参加した[1]。
その後、鹿児島師範学校教授となる[5]。学制改革後は、鹿児島大学文理学部教授を経て、1952年に埼玉大学文理学部教授となる[1]。鹿児島大学時代には薩南諸島やトカラ列島の学術調査をおこない、埼玉大学時代は県内の発掘調査指導に当たった[1]。
学界では埼玉考古学会初代会長(1954年)、埼玉遺跡調査会委員長(1959年)に就任し、歴史地理学会では常任委員(編集担当)を務めた[6]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “三友國五郎”. 熊谷デジタルミュージアム. 2024年11月2日閲覧。
- ^ 『埼玉県立熊谷中学校一覧』埼玉県立熊谷中学校、1921年2月、p.58(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション、第一学年丙組に在籍)
- ^ 浦和高等学校(編)『浦和高等学校一覧』浦和高等学校、1924年7月、p.177(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。第一学年の文科丙類に在籍)
- ^ 大蔵省印刷局 [編]『官報』1940年7月22日、p.749(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大蔵省印刷局 [編]『官報』1945年12月5日、1945年12月5日、p.38(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 歴史地理学会(編)『歴史地理学紀要 4』歴史地理学会、1962年、p.216(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)