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下平用彩

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下平用彩

下平 用彩(しもだいら ようさい、文久3年5月16日1863年7月1日) - 大正13年(1924年2月23日)は、三重県出身の医師、第四高等学校金沢医学専門学校金沢医科大学教授

略歴

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紀伊国紀州藩阪本村(現在の三重県南牟婁郡御浜町)に新宮藩に仕える漢方医の父「秀作」、母「きん」の長男として生まれる。明治9年(1877年)に三重県立医学校(現在の三重県立大学)に入学し、明治22年(1889年)10月に帝国大学医科大学を卒業、同年11月に同大学の助手となり第二医院外科部に勤務。明治23年(1890年12月23日に医術開業免状を授与され、明治24年(1891年5月15日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第6代院長となり、明治26年(1893年11月3日に山梨医会会長に就任、明治30年(1897年)9月に山梨県病院院長を辞し[1]、同年10月11日に第四高等学校医学部教授に任ぜられた。その後、同校医学部が金沢医学専門学校、金沢医科大学と変遷することに併せ、引き続き両校の教授を務めた。

金沢医学専門学校教授時代の明治39年(1906年)8月に文部省から外科皮膚病花柳病研究のためドイツ、ベルギー、スイス三国の欧州留学を命ぜられ、スイスのベルン大学においてコッヘル教授、コルレ教授に師事するなどし、細菌学免疫学を修めて明治43年(1910年)10月に帰国した。大正元年(1912年12月27日に学位論文「ビール氏欝血療法ニ関スル実験的研究」、「所謂腸ノ伸張胃瘍発生ニ就イテノ実験的研究」及び「甲状腺ノ結核病伝染ニ就イテノ実験的研究」により医学博士の称号を受けた。大正9年(1920年)に石川県金沢病院の外科部長、大正12年(1922年4月1日の金沢医科大学の開校に伴い同大学の附属医院長となった。

大正11年(1922年)10月には在職25年を記念して金沢医科大学附属医院の入口に胸像が建立されている。

地方病の病体解剖

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山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)撲滅に尽くした医師の一人である吉岡順作により開かれた、山梨県における最初の試みである地方病の病体解剖の執刀は、明治30年(1897年6月6日に当時の山梨県病院院長であった下平によりなされており、6月8日付の山梨日日新聞がその模様を伝えている。

死体解剖の模様
予記の如く一昨日午後二時より西山梨郡清田村字向村寺院(盛岩寺)に於て同村杉山なかの死体を開剖せしが同日午前十時より東山梨郡東八代両郡の医師は西山梨郡甲運村甲運亭[2]に会合して諸般の打合せを為し正午十二時同寺院に赴きしが来会する者五十七名客員には山梨病院より下平、近藤、一野辺、諸角、岡、村上の六氏[3]及び中巨摩郡よりは小沢鹿十郎氏[4]出張し執刀は下平氏助手は吉岡、辻、久保川、岡の諸氏[5]にして法の如く精密なる解剖を行ひ各臓器を悉く剖検し尚ほ疑はしき個所は顕微鏡を以て検査をなしたるが既に既に日没頃に際したれば充分の検証を得難かりし由なれども内蔵の変化中殊に脾臓の肥大肝臓の委縮門脈系統の変状は病理上大に研究を要すべきものにして該病は此等の現象に依りて現発せらるべきものに相違なかるべきものに相違なかるべしという孰れ其の報告は充分なる顕微鏡的な検査を遂げたる上之を発表する筈なり因みに記す本病は本県下に最も多く又女子よりは男子の患者多く病原は飲用水の不良に基くものにして不治の病症なりといへり同日吉岡医師は両郡の医師を代表し仏前において右の弔詞を朗読したり (弔詞略)
— 明治30年(1897年)6月8日付「山梨日日新聞」

また、大日本衛生会山梨支部が発行する「大日本衛生会山梨支部会報」第八号(明治30年)に掲載された、医師の小沢鹿十郎による「地方病性腹水ニ就テ」と題する報告文の文末に、下平の付記として地方病についての意見が述べられている。

「地方病性腹水ニ就テ」の付記
小沢氏ノ所謂「地方病性腹水病」ニ就テハ余モ久シク氏ニ感ヲ同ウシ之ガ研究ニ従事シツツ有ルモ未ダ充分ノ成績ヲ得ルニ至ラズ只余ハ茲ニ一言シ置カンコトハ本病ハ恐ラク一種ノ動物性寄生虫ニ因スル者ニシテ余ハ嘗テ本病ノ為ニ斃レタル者ノ屍体ヲ剖見シテ肝臓内ニ無数ノ顕微鏡的小虫卵ヲ見タルコト是アリ 医学士 下平用彩
— 「大日本衛生会山梨支部会報」第八号 明治30年(1897年)

叙位叙勲

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著作

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  • 『診断学』吐鳳堂書店 明治20年(1887年)刊
  • 『新纂 外科汎論』吐鳳堂 明治29年(1896年)刊
  • 『新纂 外科総論』吐鳳堂 明治38年(1905年)刊
  • 『新纂 外科各論』吐鳳堂 大正7年(1918年)刊

訳書

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  • 『産科攬要』ハアーケ著 明治21年(1888年)刊
  • 『列氏生殖器病学』エドムンドレッセル著 明治23年(1890年)刊
  • 『婦人病学(朱氏)』カール・シュロエーデル著 明治23年(1890年)刊
  • 『簡明外科各論』アルノー・クルエベ著 英蘭堂 明治24年(1891年)刊
  • 『臨床化学的診法』タツバネル著 吐鳳堂 明治25年(1892年)刊
  • 『生殖器病学(列氏)』エドムンドレッセル著 明治27年(1894年)刊
  • 『列氏皮膚病学』エドムンドレッセル著 吐鳳堂書店 明治29年(1896年)刊

親族

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脚注

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  1. ^ 甲府市相生町時代の狭隘な山梨県病院の改築について、当時の山梨県知事清棲家教に開陳した積極的意見が容れられず、これを不満として辞任。
  2. ^ 現在の甲府市川田町の平等川に架かる甲運橋の袂にあった料亭
  3. ^ 下平は下平用彩、近藤は当時の山梨県病院副院長(後の第7代院長)の近藤節蔵、一野辺は後に島根県松江病院長を務めた眼科医員の一之辺省三、諸角は後に甲府市常盤町で諸角医院を開業した諸角原甫、岡は後に甲府市魚町で岡假診療所を開業した岡大吉、村上は当時、第四高等学校医学部教授の村上庄太
  4. ^ 文久3年(1863年)9月に巨摩郡上高砂村(後の中巨摩郡御影村、現在の南アルプス市)に生まれ、山梨県病院の医員を務めた後、明治24年頃に田之岡村で医院を開業。その後は御影村に移転し愛生医院を開業していたが、明治37年(1904年)3月に東京に転じ大正13年(1924年)に千葉県内において逝去。
  5. ^ 吉岡は吉岡順作、辻は、文久3年(1862年)6月26日に山梨郡国府村(後の東山梨郡岡部村、現在の笛吹市)生まれ、明治20年(1887年)9月14日に医師登録した東山梨郡岡部村の辻保順病院の六代目医師。明治39年(1906年)6月9日に静岡県庵原郡蒲原町で逝去した辻直記。作家辻邦生の祖父
  6. ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
  7. ^ 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。

参考文献

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  • 『中巨摩郡志』昭和3年(1928年)刊
  • 『創立七十周年記念 山梨県病院史稿抄』昭和15年(1940年)刊
  • 『金沢大学医学部百年史』金沢大学医学部百年史編集委員会編 昭和46年(1971年)刊
  • 『金沢大学医学部第一外科 百年の歩み』金沢大学医学部第一外科学教室百年史編集委員会編 昭和60年(1985年)刊
  • 『写真で見る北陸の外科発達史』寺田喜朔編 昭和60年(1985年)刊
  • 銀杏散りやまず辻邦生 新潮社 平成元年(1989年)刊
  • 『北陸医史』北陸医史学同好会編 平成3年(1991年)刊