出門英
出門 英 | |
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出生名 | 加藤 秀男 |
別名 |
水木 英二 出門 ヒデ ヒデ |
生誕 | 1942年12月15日 |
出身地 | 日本 東京府 |
死没 | 1990年6月17日(47歳没) |
ジャンル | 歌謡曲、ボサノヴァ |
職業 | 歌手、作曲家、俳優 |
活動期間 | 1962年 - 1990年 |
レーベル |
東芝音工(水木英二) ポリドール(ユキとヒデ) 日本コロムビア⇒ワーナー・パイオニア(ヒデとロザンナ) ビクター音産(出門英) |
事務所 | 日活 - ? - タマエンタープライズ |
メンバー | ロザンナ・ザンボン(ヒデとロザンナ) |
旧メンバー |
佐藤由紀(ユキとヒデ/初代ユキ) 矢野育子(ユキとヒデ/二代目ユキ) |
出門 英(でもん ひで、1942年〈昭和17年〉12月15日 - 1990年〈平成2年〉6月17日)は、日本の歌手、作曲家(作詞家の担当も有り)、俳優。本名は加藤 秀男(かとう ひでお)。夫婦デュオ「ヒデとロザンナ」の一人として知られる。血液型A型。
妻は歌手でテレビタレントのロザンナ、長男は音楽家・画家の士門(しもん)。次男はミュージシャンの来門(らいもん)。長女はモデルの万梨音(まりおん)。
経歴
[編集]水木 英二(みずき えいじ)の芸名で日活第6期ニューフェースに合格後、日活での約1年間の俳優活動と並行して1962年にソロ歌手として『東京ロマンチックガイ』で東芝レコードからデビュー。
その後、出門 ヒデと改名し、1966年に佐藤由紀と「ユキとヒデ」を結成・活動したが解散。なお、佐藤由紀は後に藤ユキ、さらにアン真理子として再デビュー、「悲しみは駈け足でやってくる」を1969年にヒットさせる。
1968年に、後に妻となるイタリア出身のロザンナ・ザンボンとの男女デュオ「ヒデとロザンナ」を結成。デビュー曲の『愛の奇跡』が大ヒットして、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たす。以降も『愛は傷つきやすく』(1970年)などヒット曲を連発し、1975年2月にロザンナと結婚。
作曲家としても小柳ルミ子に『星の砂』(1977年、作詞は関口宏)を担当し、同年の大ヒットと成る。ほか小柳は『湖の祈り』(1977年)、『螢火』(1980年)、また森昌子へ『彼岸花』(1978年)などを提供した。
俳優としてもテレビドラマでは『必殺仕事人V・旋風編』や『毎度おさわがせします』(第3シリーズ)、映画では『光る女』『東京上空いらっしゃいませ』等の相米慎二監督作品に出演した。
1989年7月にNHKテレビ『思い出のメロディー』のリハーサル中、突如原因不明のひどい下痢に見舞われる。一旦下痢は治まったものの、同年10月に下痢が再発しながらも病院に行かず仕事を続けていた。ようやく年末になって医師の診察を受けた結果、結腸がんと判明(妻のロザンナは出門本人にがんの告知せず)、翌1990年1月に緊急入院。しかし手術時には既にリンパ節・腹膜にも転移が判明、末期がんの段階にあり手遅れの状態だった。同年3月に一時退院し、15日に妻と共に次男の小学校の卒業式に出席。3月17日には出門自らが経営していたゴルフショップの新ブランドの発表会の記者会見を行う。しかし出門の身体は明らかに急激に痩せ、目をサングラスで隠すなどをしており、これが出門の最後の公の場になった。同年4月高熱により再入院、診断の結果結腸がんが肺にまで転移していることが判明した[1]。
敬虔なカトリック信者の妻や子らの「生まれ変わっても家族でありたい」という願いもあり洗礼を受ける。死の2日前に大量吐血し意識不明の重体に陥り、1990年6月17日午後8時38分に入院先の東京都内の病院で死去。47歳没。葬儀は三軒茶屋カトリック教会で執り行われた。死去の8日前に公開された映画『東京上空いらっしゃいませ』が遺作となった。墓所は東京都あきる野市の築地本願寺西多摩霊園にある。
人物
[編集]- 実母をがんで早く亡くしたこともあり、がんの研究・啓発活動や基金事業にも積極的に活動していた。
- ステーキを始めとする肉類の食品が大好物で、250gのレア肉をほぼ毎日のように食べていた。付け合わせの野菜はほとんど手をつけず、典型的な「食肉好きで野菜嫌い」の食習慣だった。
ディスコグラフィ
[編集]- ユキとヒデとしての作品については「ユキとヒデ#ディスコグラフィ」、ヒデとロザンナとしての作品については「ヒデとロザンナ#ディスコグラフィ」を参照。
シングル
[編集]- 水木英二名義
- 全て東芝レコードからリリース。
- 東京ロマンチックガイ/夢に生きる男(1962年12月/JP-1467)
- 思い出を消して行こう/可愛いにくい奴(1963年6月/JP-1552)
- 出門英名義
- 1:ワーナー・パイオニア、2〜7:DISCO VOLANTE
# | 発売日 | A/B面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 規格品番 |
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1 | 1975年 11月 |
A面 | いつの日か人に語ろう | 有馬三恵子 | 中村泰士 | あかのたちお | L-1285R |
B面 | 夜のどこかで | 馬飼野俊一 | |||||
2 | 1979年 11月 |
A面 | きみこそ旅人 | 門谷憲二 | 出門英 | 戸塚修 | DVR-3 |
B面 | 母なる河 | 中村小太郎 | 東海林修 | ||||
3 | 1980年 4月 |
A面 | 愛という出逢い | 喜多條忠 | 中川昌 | DVR-4 | |
B面 | きみこそ旅人 | 門谷憲二 | 戸塚修 | ||||
4 | 1982年 2月 |
A面 | 黄色い花 | 嶺岸未来 | 前田憲男 | DVR-1502 | |
B面 | 花でもあれば | ||||||
5 | 1984年 11月 |
A面 | 野風増 | 伊奈二朗 | 山本寛之 | 石田勝範 | DVR-1504 |
B面 | 男のポケット | 高田ひろお | 壇一郎 | 喜納政明 | |||
6 | 1988年 8月25日 |
A面 | 黄昏に愛をこめて | ありそのみ | 佐藤健 | 船山基紀 | 07L7-4009 |
B面 | 野風増 | 伊奈二朗 | 山本寛之 | 石田勝範 | |||
7 | 1990年 3月25日 |
01 | BIRDIES NIGHT | 佐々木誠 | WPDL-1504 | ||
02 | 25000回のキッス |
タイアップ曲
[編集]年 | 楽曲 | タイアップ |
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1975年 | いつの日か人に語ろう | フジテレビ系テレビドラマ「痛快!河内山宗俊」挿入歌 |
1979年 | きみこそ旅人 | 日本テレビ系テレビドラマ「おだいじに」主題歌 |
1980年 | 愛という出逢い | 日本テレビ系テレビドラマ「おだいじに」挿入歌 |
楽曲提供
[編集]- ヒデとロザンナ
- 笑ってごらん子供のように(作詞:佐藤由紀/作曲:出門英/編曲:田辺信一)
出演作品
[編集]映画
[編集]- 1963年08月25日 霧子のタンゴ (水木英二名義)
- 1977年02月14日 わんぱくパック
- 1984年07月14日 アニメちゃん
- 1987年10月12日 ゴンドラ
- 1987年10月24日 光る女
- 1988年08月13日 ぼくらの七日間戦争
- 1990年06月09日 東京上空いらっしゃいませ
テレビ番組
[編集]- 1974年3月28日 - 非情のライセンス 第1シリーズ 第52話(最終話)「兇悪」安原誠 役
- 1974年4月24日 - 特別機動捜査隊 第651話「姿なき脅迫者」粕谷慎一 役
- 1975年6月9日 - プレイガールQ 第36話 冠吾郎 役
- 1975年10月5日 - 12月28日 爆笑パニック!体当たり60分 - レギュラー
- 1975年10月6日 - 1976年3月29日 痛快!河内山宗俊 - 片岡直次郎 役
- 1986年11月7日 - 1987年3月6日 必殺仕事人V・旋風編 (朝日放送、松竹)- 夜鶴の銀平 役
- 1987年1月27日 - 5月26日 毎度おさわがせします3
- 1987年7月23日 木曜ゴールデンドラマ「愛と青春の挽歌」
- オールスター家族対抗歌合戦(フジテレビ)-審査員と、オープニングテーマ「笑ってごらん」・エンディングテーマ「愛・愛・愛」の歌唱