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土岐頼泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土岐 頼泰
時代 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 延宝5年8月19日1677年9月15日
改名 次大夫、縫殿助(通称
戒名 功勛院殿英山道雄大居士
墓所 養源寺(東京都文京区)
幕府 江戸幕府 書院番士、目付
主君 徳川忠長徳川家光徳川家綱
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼次、母:湯島武房の娘
兄弟 土岐頼勝土岐頼高土岐頼泰
山岡景重の娘
土岐頼克、娘(梶川分重妻)、梶川頼照、娘(伊東祐春妻)
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土岐家由来書
2005年(平成17年)4月まで養源寺にあった代々の墓
2005年(平成17年)4月まで養源寺にあった代々の墓

土岐 頼泰(とき よりひろ/よりやす)は、江戸時代前期の旗本

土岐頼次の三男。母は湯島武房の娘。山城国生まれ。通称または幼名は縫殿助、次大夫。妻は山岡景重の娘(蓮壽院殿妙量日覺尼)。子に長男頼克、次男梶川頼照、長女(梶川分重妻)、次女(伊東祐春妻)がいる。

寛永2年(1625年)より徳川忠長に仕えるが、寛永9年(1632年)に忠長が改易された際に勘気をこうむって処士となる。寛永13年(1636年)12月10日に赦免を受け、寛永15年(1638年)に書院番士となり300石の知行を賜る[1]

慶安元年(1648年)1月2日に目付となる。翌慶安2年(1649年)に西尾忠昭田中藩に転封された際には、その仰せを伝える役目を担った。慶安4年(1651年)8月16日に布衣の着用を許され、11月21日に廩米300俵を加えられた。万治2年(1659年)2月6日、仰せにより日光山に赴き、博徒を放逐した[1]

寛文7年(1667年)12月8日に職を辞し、延宝4年(1676年)12月6日に致仕。延宝5年(1677年)8月19日死去[1]。墓所は東京駒込の白華山養源寺。戒名は功勛院殿英山道雄大居士。

脚注

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  1. ^ a b c 寛政重修諸家譜』巻第二百八十四