天道法師
天道法師(てんどうほうし)は、対馬に伝わる伝説上の人物である。宝野上人(ほうやしょうにん)や天道菩薩とも呼ばれる[1]。
概要
[編集]『対州神社誌』によれば、天道法師の伝承は以下の通りである[1]。
対馬の南部にある豆酘に照日某という人物の娘がおり、天智天皇の御世の白鳳13年2月17日〔ママ〕(後の記述から逆算すると683年)に、太陽の光を浴びて(朝日に向かって用を足したとする伝承も存在する)感精して生まれた神童が、のちの天道法師であった。天道法師は朱鳥6年11月15日〔ママ〕 (後の記述から逆算すると692年)に、9歳にして仏門に入り、奈良の都で修行を重ね、神通力を得て、文武天皇の御世の大宝3年(703年)に対馬に帰国した。霊亀2年(716年)、天童33歳の時に、元正天皇(文武とする伝承も存在する)が病に倒れた折に、対馬から飛行して奈良へ赴いて病を治し、「宝野上人」の号を賜い、対馬の銀山を停止し、豆酘からの年貢や采女の献上が赦され、「天道の地(後のオソロシドコロ)」をアジールとすることを許可された。天道法師は卒土山(現在の竜良山、天道法師の墓があるオソロシドコロ)において亡くなり、その母は久根之矢立山に葬られたという。
対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳二月十七日、此女日輪之光に感して有妊て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥六壬辰年十一月十五日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶三癸卯年、対馬州に帰来る。霊亀2丙辰年、天童三十三歳也。此時に嘗て、元正天皇不豫有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。天道吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、竝、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉可免罪科矣、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者、是也。其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍略之。不詳也。
多久頭魂神や八幡神との関係
[編集]天道法師は、母神=神魂神(神産巣日神)・子神=多久頭魂神の母子2神として対馬で信仰されており、これは神功皇后(母神)、応神天皇(子神)という八幡信仰や、豊玉姫命(母神)、鸕鶿草葺不合尊(子神)との類似性や関連性が指摘されている[2][1]。
対馬の母子信仰は、八幡信仰も含めて、元来九州に多く存在した母子信仰の1つであったと考えられており、対馬に某神に対応する某御子神(和多都美神に対する和多都美御子神など)が多く存在していたことが記されていることも同様な理由であるとされる[1]。
また、天道法師の伝説は、『八幡愚童訓』に伝わる鹿児島神宮の縁起と似通っており、実際に対馬には鹿児島神宮から勧請された八幡宮がいくつか存在する[1]。
卒土山とアジールについて
[編集]天道法師は卒土(そと)山に葬られ、そこは後にアジールとして機能した(伝承によれば天道法師がアジールとすることを願い出たという)が、これについて、馬韓諸国に各々存在した「別邑(アジールとされる)」である「蘇塗(そと)」との関連性を指摘されている[3][1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 鈴木棠三『対馬の神道』三一書房、1972年。