忠粛王
忠粛王 王燾 | |
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高麗 | |
第27代国王 | |
王朝 | 高麗 |
在位期間 |
1313年4月20日 - 1330年2月18日 1332年3月21日 - 1339年5月3日 |
諡号 | 忠粛懿孝大王 |
生年 |
至元31年7月7日 (1294年7月30日) |
没年 |
後至元5年3月24日 (1339年5月3日) |
父 | 忠宣王 |
母 | 也速真 |
王后・王配 |
濮国公主 曹国公主 慶華公主 恭元王后 |
妃嬪 | 下記参照 |
子女 | 下記参照 |
陵墓 | 毅陵 |
忠粛王(ちゅうしゅくおう、1294年7月30日 - 1339年5月3日)は第27代高麗王(在位1313年 - 1330年、1332年 - 1339年)。姓は王、名は燾。小字は宜孝。第26代王忠宣王の次男で、母は也速真。蒙古名は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ、Aratnašri)[1]。諡号は忠粛懿孝大王。
生涯
[編集]1299年、江陵君に封ぜられ、後に江陵大君になる。父の忠宣王に従って燕京に行き、元の宮廷で育った。実兄で世子の王鑑が忠宣王との不和で殺害されると後継者となった。1313年4月、高麗国王に冊封され開京へ帰り、6月に延慶宮にて即位。しかし、忠宣王は瀋王の位を兄の江陽公王滋の子の延安君王暠に譲り、これは忠粛王の治世にかけて高麗王室と瀋王の間に葛藤をもたらした。
1318年、耽羅の反乱を平定し、弊害の多かった司審官を廃止した。在位初期には土地兼併と高利貸しを規制したり、元に送る貢女の数を減らすなど、改革に意欲を見せたが、権勢家の反発で大きな効果は得られなかった。一方、正妃で迎え入れた濮国公主とは関係が円満でなく、徳妃洪氏をめぐる痴情争いに巻き込まれた濮国公主が病死する事件が発生した。そのうえ、王暠が高麗の王位を狙うことで忠粛王の地位は不安定になった。結局、1321年に元の皇室より命令を受け、燕京へ召喚され国王の印章を差し押さえられるに至ったが、忠宣王・忠粛王父子に好意的だった泰定帝が即位してから状況は一変し、王位を守ることができた。
1325年、忠粛王は4年ぶりに帰国したが、長い間国内を空けていたうえ、同年に再婚した曹国公主までも難産で死別したため、これ以上政治に興味を喪失してしまった。1330年、子の忠恵王に譲位し再び元に入朝。2年後、忠恵王が廃位されると代わりに復位した。晩年は政事を放置したまま狩りと飲酒で過ごした。1339年、46歳で薨去。
人物
[編集]- 沈着ながらも決断力のある性格で隷書の達人であったと伝えられている。
- 清潔な習慣が保たれ、風呂もよく楽しんでて、1カ月だけで壺10個分の香料と60余枚の手巾を使うほどだった[2]。
- 復位後はしばしば王宮を離れ、地方や都城の外に滞在し、大臣の接見も拒否するのが常であった。このような態度を口実に、瀋王王暠一派が元に忠粛王が政務を管掌することはできないと告発し、これに元は使臣を派遣して追及したことがあった。使臣と対面した忠粛王は、瀋王側の主張に一つ一つ反論し、これまでの経緯を理路整然と解明して使臣を感動させたという。
- 父の忠宣王は荘穆王后所生の混血であり、母の也速真は純粋なモンゴル人で、高麗の歴代王の中でモンゴルの血統が最も濃かった。それでも、本人は自ら高麗人という自覚が強かったようである。1330年、退位した直後に燕京へと旅立つ途中、黄州でちょうど帰国していた息子の忠恵王と遭遇した。この時、忠恵王はモンゴルの風俗に従って胡礼を行ったが、忠粛王は激怒し「お前の親がみんな高麗人なのに、どうして私に胡礼を上げるというんだ?服装も贅沢だね」と忠恵王を厳しく叱責したエピソードがある[3]。
家族
[編集]- 祖父:忠烈王 - 第25代王。
- 祖母:荘穆王后(1259年-1297年)- 元の世祖クビライの娘。名は忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)。
- 父:忠宣王 - 第26代王。
- 母:懿妃 也速真(生年不詳-1316年)- モンゴル出身。ただし皇族出身ではない。
- 異母弟:徳興君 王譓(1314年-1367年)- 母は不詳(宮女)。幼少期に出家した為、婚姻及び子女は無し。元へ派遣されることもしばしばあり、指示で高麗を侵攻し、甥の恭愍王の政権奪取を狙ったが失敗。島流しとなり、流配先で死去。
- 后妃
- 子女
- 孫
脚注
[編集]- ^ サンスクリット語「रत्न श्री Ratna Śrī」に由来する。和訳すれば、「珍宝、吉祥」。
- ^ 『高麗史節要』巻24 忠粛王15年12月条 「王性好潔、一月湯浴之費、諸香十餘盆、苧布至六十餘匹、名曰手巾、多爲内豎所竊、王不之知」
- ^ 『高麗史』巻36 世家 忠惠王即位年閏7月庚寅条 「上王將如元、至黄州、王道上胡跪迎謁、上王曰: 汝之父母皆高麗也、何見我行胡禮? 且衣冠太侈、何以示人? 可速更衣。訓戒嚴厲、王涕泣而出」
- ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 濮國長公主 「濮國長公主亦憐眞八剌、元營王也先帖木兒之女。忠粛三年、王在元、娶之。是年冬、與王來。六年薨。殯於延慶宮、追贈靖和公主、遣元尹任子松、如元告訃。郎將李麟、告訃於營王、營王遣使來弔喪、皇太后亦遣中使於侁不花來弔。七年葬。明年、元中書省遣宣使李常志來、囚公主宮女胡剌赤女子及饔人韓萬福、問公主薨故。萬福云: 去年八月、王御德妃於延慶宮、公主妬、被王歐鼻衄。又於九月、王如妙蓮寺、歐公主、於侁夫介等救之。常志遂執胡剌赤女子及萬福等以歸。白元恒・朴孝脩等上書中書省、辨萬福誣告。是年冬、奉安公主眞於順天寺。忠惠四年、元追封濮國長公主」
- ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 曹國長公主 「曹國長公主金童、元順宗子魏王阿木哥之女。忠粛十一年、王在元、娶之、明年、與王來。從王幸漢陽龍山、生子、是爲龍山元子。未幾、公主薨於行宮、年十八。元遣左司郞脱必來致奠。忠惠四年、元追封曹國長公主」
- ^ 『高麗史』巻89 列傳2 后妃2 慶華公主 「慶華公主伯顔忽都、蒙古女、王在元、娶之。後二年、與王來。五年、開府曰慶華、置官屬。王薨、忠惠再宴公主於永安宮、公主亦邀忠惠宴。及酒罷、忠惠佯醉不出、暮入公主臥内。公主驚起、忠惠使宋明理輩扶之、使不動、且掩其口、遂蒸焉。翌日、公主恥之、欲還於元、使買馬。忠惠命李儼・尹継宗等禁馬市、不得賣馬。元使頭麟等來、進御酒於公主、執忠惠以歸。公主囚贊成事鄭天起於征東省、仍命金之謙權征東省、金資提調都僉議使司。忠惠五年薨、葬以禮。恭愍十六年、元贈諡粛恭徽寧公主」
参考文献
[編集]- 「アジア人物史 5」 集英社 2023年