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木下延重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
木下 延重
時代 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 通称:与右衛門(與右衛門尉)
官位 従五位下周防守
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 木下氏(織田氏
父母 父:木下周防守
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木下 延重(きのした のぶしげ)は、安土桃山時代武将大名豊臣家の家臣。官位従五位下周防守通称は与右衛門で、織田氏の出身ではあるが、木下与右衛門を称した。豊臣政権の奉行衆の1人[1]

略歴

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木下周防守の子で、同じく豊臣秀吉に仕える[2]

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに鉄砲組頭として従軍[2]。天正18年(1590年)の小田原の役でも銃士200名を率いた[2]

文禄・慶長の役では秀吉本陣の御弓鉄砲衆として250名を率いて肥前国名護屋城に駐屯した[2]

文禄2年(1593年)12月から翌年にかけて、豊臣秀次検地奉行として尾張国海東郡を担当。

文禄4年(1595年)正月の秀吉の草津湯治に同行して石川組[3]と福島宿の警護に当たった[2]慶長3年(1598年)の醍醐の花見では西の丸殿(淀殿のこと)に随従[2]。秀吉の死後、遺物金五枚を受領した[2]

慶長4年(1599年)に播磨国内で2万石を領した[2]

慶長5年(1600年)、関ケ原の役では西軍に属して、鉄砲大将として伏見城の戦いに参加[2]。本戦の参加の可能性もある[2]。戦後、改易となって所領は没収された[2]

脚注

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  1. ^ 守矢家文書』では、五奉行とともに政務に携わった十人衆として富田一白佐々行政寺西正勝毛利吉成堀田一継石田正澄片桐貞隆石川光元山中長俊、木下延重の名が挙げられている。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 高柳 & 松平 1981, p. 51.
  3. ^ 組頭石川光元の馬廻衆のこと。

参考文献

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  • 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、51頁。 ASIN B000J9GTRU
  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、84頁。