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桑原楽之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桑原 楽之
名前
カタカナ クワハラ ヤスユキ
ラテン文字 KUWAHARA Yasuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1942-12-22) 1942年12月22日
大日本帝国の旗 大日本帝国, 広島県広島市
没年月日 (2017-03-01) 2017年3月1日(74歳没)
日本の旗 日本, 広島県広島市[1]
身長 180cm[2]
体重 74kg[2]
選手情報
ポジション FW
ユース
1958-1960 日本の旗 広島大学附属高校
1961-1964 日本の旗 中央大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1965-1972 日本の旗 東洋工業 94 (53)
通算 94 (53)
代表歴
1966-1970 日本の旗 日本 12 (5)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1968 サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - 2017年3月1日[3])は、広島県広島市白島(現中区)出身[4]サッカー選手。実兄は桑原弘之1968年メキシコシティオリンピック銅メダリスト[5]

来歴

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8人兄弟で男は弘之と楽之の二人だけ[4]1960年代の日本サッカーのメッカ・広島に生まれ、幼少期からサッカーに親しむ[4]。広大付属小、広大付属中学の抽選をいずれも落ちて白島小、幟町中学に進む[4]。白島小の隣りに広島市立基町高等学校があり、5年生の時に渡辺正佐伯博司がプレーしていて、楽之はいのまにか同校でボール拾いを始める。入学した幟町中学にはサッカー部がなかったが、桑原を中心に創部[4]。実兄の弘之がコーチを勤めた。

1959年、3度目の正直で広大付属高校に入学。付属中学以外の中学からの入学者は、がり勉タイプと決まっていたが、楽之がサッカーに熱中するので担任がびっくりしたという逸話が残る[4]。1年からすぐレギュラーとなり2年の時、エースフォワードとして桑田隆幸野村尊敬小城得達溝手顕正船本幸路らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体は準優勝、3年時はベスト8。AFCユース選手権1961の日本代表にも小城と共に選出された[4]

中央大学に進学してサッカー部に入部して1年からレギュラー。1962年、小城や同郷の野村六彦岡光龍三らと長沼健宮本征勝川淵三郎らを擁して天皇杯3連覇を狙った古河電工を決勝で破り中大に初優勝をもたらした。大学単独チームでの優勝は四半世紀ぶりであった。

1965年中大を卒業後、東洋工業(現マツダ)へ入社、蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島F.C)に入団。日本サッカーリーグ(JSL)初年度から主力フォワードとして、実兄の弘之や共に東洋入りした小城、桑田、小沢通宏石井義信今西和男松本育夫らとリーグ4連覇を含む5回の優勝と3度の天皇杯制覇に貢献した。FWとしては足の速い方ではなかったが、天性のバネと鋭い突破力を持ち[4] ゴール前でアクロバティックなプレーを得意とするセンターフォワード(CF)だった。また浮き球の処理も上手かった[6]。JSL初年度で最大のライバルだった八幡製鉄との一回戦、試合終了30秒前に劇的ゴールを挙げ、引き分けに持ち込んだ殊勲者でもある[4]。東洋工業では94試合に出場して53得点、21アシストを記録した[1]

1966年7月のドネツク選抜戦でサッカー日本代表として初出場[2]。1968年のメキシコシティ五輪の日本代表にも選出され、1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、ブラジルのセンターバックが巨漢のため、釜本邦茂HBに下げヘディングの強い桑原がFWとして先発出場、桑原が競り合ってこぼれ球を釜本が狙うという作戦を取った。

2017年3月1日12時20分、広島市内の病院で肺炎のため死去[7][1]

所属クラブ

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個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 東洋 8 JSL 13 7 -
1966 14 9 -
1967 13 11 -
1968 14 8 -
1969 5 -
1970 14 9 -
1971 4 - -
1972 JSL1部 0 -
通算 日本 JSL 94 53 -
総通算 94 53 -

代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 12試合 5得点(1966-1970)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1966 4 2 5 1 9 3
1967 1 1 3 0 4 1
1968 2 1 7 1 9 2
1969 4 1 13 1 17 2
1970 1 0 0 0 1 0
通算 12 5 28 3 40 8

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1966年12月14日 タイ王国の旗バンコク  マレーシア ○1-0 長沼健 アジア大会
2. 1966年12月17日 タイ王国の旗バンコク  タイ ○5-1 アジア大会
3. 1966年12月18日 タイ王国の旗バンコク  イラン ●0-1 アジア大会
4. 1966年12月19日 タイ王国の旗バンコク  シンガポール ○2-0 アジア大会
5. 1967年09月27日 日本の旗東京都 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場  フィリピン ○15-0 オリンピック予選
6. 1968年03月31日 オーストラリアの旗メルボルン  オーストラリア ●1-3 国際親善試合
7. 1968年10月14日 メキシコの旗プエブラ  ナイジェリア ○3-1 オリンピック
8. 1969年10月10日 大韓民国の旗ソウル  オーストラリア ●1-3 ワールドカップ予選
9. 1969年10月12日 大韓民国の旗ソウル  韓国 △2-2 ワールドカップ予選
10. 1969年10月16日 大韓民国の旗ソウル  オーストラリア △1-1 ワールドカップ予選
11. 1969年10月18日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●0-2 ワールドカップ予選
12. 1970年07月31日 マレーシアの旗クアラルンプール  香港 ●1-2 岡野俊一郎 ムルデカ大会

得点数

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# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1966年12月17日 タイ王国の旗 タイバンコク タイ王国の旗 タイ 5-1 勝利 1966年アジア競技大会
2
3 1967年9月27日 日本の旗 日本東京 フィリピンの旗 フィリピン 15-0 勝利 メキシコ五輪予選
4 1968年3月31日 オーストラリアの旗 オーストラリアメルボルン オーストラリアの旗 オーストラリア 1-3 敗戦 親善試合
5 1969年10月12日 大韓民国の旗 韓国ソウル 大韓民国の旗 韓国 2-2 引分 1970 FIFAワールドカップ・予選

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  1. ^ a b c 元日本代表の桑原楽之氏が死去 メキシコ五輪で銅』(プレスリリース)日刊スポーツ、2017年3月2日https://www.nikkansports.com/soccer/news/1786099.html2017年3月30日閲覧 
  2. ^ a b c 国際親善試合”. 日本サッカー協会. 2017年3月30日閲覧。
  3. ^ 桑原楽之氏死去(サッカー・メキシコ五輪日本代表) 時事ドットコム 2017年3月1日付
  4. ^ a b c d e f g h i 週刊サッカーマガジン、1967年6月号、p38-41
  5. ^ 日本サッカー殿堂 掲額者 第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)日本代表チーム”. 日本サッカー協会 (2024年5月28日). 2024年5月28日閲覧。
  6. ^ 報知新聞運動部『サッカーへの招待』報知新聞社、1978年、p27
  7. ^ 元日本代表FWの桑原楽之氏が死去…メキシコ五輪銅メダルに貢献”. ゲキサカ (2017年3月1日). 2019年12月20日閲覧。
  8. ^ 日本サッカー殿堂 掲額者 第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)日本代表チーム”. 日本サッカー協会 (2024年5月28日). 2024年5月28日閲覧。

参考文献

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  • 『サッカーマガジン』1967年6月1日号

関連項目

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外部リンク

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