民主共和党 (韓国)
韓国の政党 民主共和党(ミンジュコンファダン) 민주공화당 | |
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総裁 | 朴正煕 |
創立 | 1963年2月26日 |
解散 | 1980年10月27日 |
前身政党 | 国家再建最高会議 |
後継政党 | 民主正義党 |
政治的思想 |
軍閥政治 保守主義 韓国の民族主義[1] 権威主義[2] 反共主義 コーポラティズム[3] 国家主義[3] 十月維新 |
政治的立場 | 右翼 - 極右[4][5] |
公式カラー | 青色 |
国会(1967年) |
129 / 175 |
民主共和党 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 민주공화당 |
漢字: | 民主共和黨 |
発音: | ミンジュゴンファダン |
英語: | Democratic Republican Party |
民主共和党(みんしゅきょうわとう)とは、大韓民国の第三共和国と第四共和国時代に存在した政党である。朴正煕大統領(在任期間:1963年~1979年)の与党。略称は「共和党」(공화당 コンファダン)。朴正煕の支持組織である維新政友会と並んで軍事独裁の母体となったが、朴大統領の暗殺によって消滅した。
旧民主共和党の残存勢力は軍事政権を引き継いだ全斗煥大統領の元、民主正義党を結党した。
概説
[編集]1961年5月に発生した軍事クーデター以降の韓国において政権を担っていた軍部勢力(国家再建最高会議、以下「最高会議」)が、軍政から民政へ政権移譲した後も、政権を維持するための手段として創設された政党である。韓国中央情報部(KCIA)の初代部長であった金鍾泌が中心となって結党が進められ、5・16軍事革命理念の継承及び世代交代などを結党理念として1963年2月26日[6]に結成された(中央選挙管理委員会への政党登録は同年5月10日)。
2月26日の結党大会では総裁に鄭求瑛、議長に金貞烈が選出された。その後、2・18声明[7]を撤回して民政参加の意向を固めた朴正煕最高会議議長(8月26日に陸軍大将から予備役に転役)が、8月31日の第3次党大会で党総裁に推挙され、同時に大統領候補指名を受諾した。10月に行われた第6代大統領選挙に立候補した朴正煕が民政党候補の尹潽善を僅差で押さえて当選、直後に行われた第6代総選挙では圧勝して第三共和国における与党としての足場を築いた。
軍部と官僚機構に築いた強力な組織力を活かし、1967年に行われた大統領選挙では朴正煕候補が尹潽善に前回より差をつけて再選、直後に行われた総選挙でも圧勝した。しかし、党内では金鍾泌を中心とした主流派と李厚洛大統領秘書室長や金炯旭韓国中央情報部部長などを中心とする反金鍾泌系の非主流派による対立と勢力争いが事があるごとに続き、国民福祉研究会事件や4・8抗命事件など党幹部や議員の粛清も相次いだ。1969年に憲法の3選禁止規定を半ば強引に改正(3選改憲)して望んだ1971年の大統領選挙で朴正煕候補は3選を果たしたが新民党の金大中候補に肉薄され、直後の総選挙では単独改憲に必要な3分の2を下回る結果となった。
朴正煕大統領が終身政権を目指して行った自己クーデター、所謂10月維新で発足した第4共和国においては共和党とは別に統一主体国民会議選出議員が結成した維新政友会が第2与党として登場し、与党としての地位は相対的に低下した。1979年10月26日に朴正熙大統領が暗殺(朴正煕暗殺事件)された後、金鍾泌が党総裁に就任したが、同年12月29日に起きた粛軍クーデターの翌年、1980年10月27日に公布された第五共和国憲法附則に伴って解散させられた。
全斗煥時代には、旧共和党の政治家で政治風土刷新のための特別措置法による政治活動禁止措置の対象外となった人達が韓国国民党を結成し、政治活動を再開したが、政治活動禁止措置の対象となった金鍾泌など大物政治家は参加せず、少数野党の地位に甘んじた。
党勢推移
[編集]年月日 | 代 | 候補者 | 当落 | 得票率(%) |
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1963年10月15日 | 第5代大統領選挙 | 朴正煕 | 当選 | 46.6 |
1967年5月3日 | 第6代大統領選挙 | 朴正煕 | 当選 | 51.4 |
1971年4月27日 | 第7代大統領選挙 | 朴正煕 | 当選 | 53.2 |
1972年12月23日 | 第8代大統領選挙 | 朴正煕 | 当選 | 99.9 |
1978年7月6日 | 第9代大統領選挙 | 朴正煕 | 当選 | 99.9 |
- 注:第8-9代の得票率は、統一主体国民会議の代議員の投票による
年月日 | 代 | 議席数 | 得票率(%) | ||
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合計 | 地域区 | 全国区 | |||
1963年11月26日 | 第6代総選挙 | 110 | 88 | 22 | 33.5 |
1967年6月8日 | 第7代総選挙 | 129 | 102 | 27 | 50.6 |
1971年5月25日 | 第8代総選挙 | 113 | 86 | 27 | 48.8 |
1973年2月27日 | 第9代総選挙 | 73 | 73 | - | 38.7 |
1978年12月12日 | 第10代総選挙 | 68 | 68 | - | 31.7 |
- 注:8代と9代は中選挙区(一律定数2名)のみ
脚注
[編集]- ^ Kohli, A. (2004). State-Directed Development: Political Power and Industrialization in the Global Periphery. Cambridge: Cambridge University Press. p. 92.
- ^ Kwak, Ki-Sung (2012), Media and Democratic Transition in South Korea, Routledge, p. 31
- ^ a b Kim, B. K. & Vogel, E. F. (eds.) (2011). The Park Chung Hee Era: The Transformation of South Korea. Harvard University Press. p. 125.
- ^ 서중석 (2005). 이 승만 의 정치 이데올로기. ISBN 9788976968029
- ^ “韓國과國際政治” (1995年). 2019年9月10日閲覧。
- ^ “今日の歴史(2月26日)”. 聯合ニュース. (2011年2月26日) 2011年12月10日閲覧。
- ^ 1963年2月18日、朴正煕議長が民政不参加を明らかにした声明。しかし、3月16日には軍政延長とその賛否を問う国民投票を行う旨を明らかにした声明(3・16声明)を発表、在野からの強い反発を招いた。4月8日の所謂「4・8措置」で軍政延長は事実上撤回され、7月27日の「7・27声明」で10月に大統領選挙を11月に国会議員選挙を行い年内に民政委譲する旨を明らかにした。一連の詳細については「3・16声明」を参照。
参考文献
[編集]- 韓国史編纂委員会 金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典』日本評論社
- 中央選挙管理委員会編『大韓民國政黨史 第1輯(1948~1972)』中央選挙管理委員会
- 尹景徹『分断後の韓国政治 : 一九四五〜一九八六年』木鐸社、1986年11月30日。NDLJP:12173192。