浅野忠正
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保6年2月17日(1721年3月3日) |
死没 | 明和3年12月16日(1767年1月5日) |
別名 | 通称:藤五郎、定之助、主計、出衛[1]、甲斐 |
戒名 | 大法院殿普山道照大居士[1] |
墓所 | 広島県三原市本町妙正寺 |
主君 | 浅野宗恒→重晟 |
藩 | 安芸広島藩家老 |
氏族 | 浅野氏 |
父母 | 父:忠義、養父:忠晨 |
兄弟 | 忠綏、忠正 |
子 | 藤堂信任室、養子:忠愛 |
浅野 忠正(あさの ただまさ)は、江戸時代中期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第7代。
略歴
[編集]享保6年(1721年)2月17日、三原浅野家第4代忠義の七男として生まれる。宝暦9年(1759年)、兄忠綏の長男で三原浅野家を継いでいた忠晨が病により隠居し、子がなく弟もまだ幼いため、叔父の忠正が家督を相続した。[2]
宝暦9年12月(1760年)、幕府巡見使を三原で出迎える。宝暦13年(1763年)、藩主重晟の藩主襲封の謝恩使として江戸に下向し、将軍家治に拝謁し太刀などを献上した。[1]
明和3年12月16日(1767年)、死去、享年47。菩提寺の妙正寺に葬られた。家督は兄忠綏の三男忠愛が相続した。忠正の娘は伊勢津藩士藤堂信任に嫁ぎ、その次男忠敬が三原浅野家第10代となる。