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渡辺競

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渡辺 競
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 治承4年(1180年
別名 源三、滝口大夫
官位 左衛門尉
主君 源頼政
氏族 嵯峨源氏渡辺氏
父母 渡辺昇渡辺満の子?)?
渡辺省?
兄弟 (濯の父)?、?、?、?
(奥州渡辺氏(島ヶ原渡辺氏)の祖?)
特記
事項
の兄とする説あり(『前賢故実』)。
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渡辺 競(わたなべ の きおう/きそう)は、平安時代末期の武将源頼政の家臣。

略歴

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右馬允渡辺昇渡辺満の子?)、あるいは渡辺播磨次郎省の子と伝わる。

父祖以来摂津源氏の郎党である渡辺氏の一族として、源頼政の忠実な臣下として行動し、保元元年(1156年)の保元の乱などにおいて頼政に従い出陣したことが見える。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵にあたっては、当初偽って敵方の平宗盛に投降し、その愛馬『南鐐』を奪って頼政の元に参陣。その際、先立って頼政の嫡男・仲綱が愛馬のことで宗盛に辱めを受けていたことの報復として、馬のたてがみと尾の毛をそり、尻に「昔は何両、今は平宗盛入道」の焼印をして突き返し、宗盛を激怒せしめたという逸話が知られる(『平家物語』四・競)。宗盛は「必ず競を生け捕りにせよ」との命を出すが、競は宇治平等院において奮戦の末に自害した。

異説としては、伊賀国阿拝郡島ヶ原村に逃れ、その子孫が「島ヶ原渡辺氏」あるいは、「島ヶ原党」を名乗ったとされる。家紋は三星下一文字を同じくした。また、子・(なつく)[1]の後裔も奥州相馬氏の家臣となった奥州渡辺氏(島ヶ原渡辺氏)を初めとして、その子孫を後世に伝えたとされる。

その人物像については、『源平盛衰記』14・「三位入道入寺事」に、「弓矢取りては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男なり」と描写されている。

脚注

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  1. ^ 松浦氏一族の大河野知の子の鶴田馴鶴田氏の祖)と混同される。