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牧野忠清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

牧野 忠清(まきの ただきよ、元和6年(1620年) - 元禄6年2月5日1693年3月11日))は、旗本第2代三根山領主。牧野忠成の五男。通称は半右衛門。室は大久保忠知の娘。子女は牧野忠貴

初め父・忠成の意向で家老・稲垣平助則茂の養嗣子となるが、牧野家に復し徳川家綱の小姓となり、慶安3年(1650年)には西城書院番士となり、蔵米300俵を給され、のちに本城書院番士となる。明暦2年(1656年)2月5日、書院番頭に昇進する。同年12月、300俵加増され、布衣を着ることを許される。万治元年閏12月18日(1659年)、兄・定成の後嗣となり遺跡を相続。それまでの600俵は収公される。万治3年(1660年)、兄の定成の菩提を弔うために小さな庵の本堂を再建し、その寺号を一山寺とした。寛文5年(1665年)、職を辞す。延宝2年(1674年)、越後長岡藩の幼君牧野忠辰の補佐をした。延宝6年(1678年)、日光山門主と京に赴く。天和2年(1682年)5月29日、致仕し幽閑と号する(法名も同じ)。忠貴が跡を継いだ。葬地は西応寺町(東京都港区芝2丁目)の西応寺。