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繆荃孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
繆荃孫
プロフィール
出生: 1844年9月20日
死去: 1919年民国8年)12月22日
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 清の旗 江蘇省常州府江陰県申港鎮繆家村
職業: 教育家・蔵書家
各種表記
繁体字 繆荃孫
簡体字 缪荃孙
拼音 Miào Quánsūn
ラテン字 Miao Ch'uan-sun
和名表記: ぼく せんそん/びゅう せんそん
発音転記: ミャオ チュエンスン
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繆荃孫
繆荃孫の肖像画(『清代学者象伝』)

繆 荃孫(ぼく せんそん/びゅう せんそん[1])は、末から中華民国にかけての教育家・蔵書家。目録学金石学の大家であり、中国における図書館学の先鞭をつけた人でもある。菼之または筱珊、号は芸風老人

生涯

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幼時より学問を始め、11歳で五経を修めた。17歳の時、太平天国軍が江陰に進入したため、継母とともに淮安に逃れ、麗正書院で文字学・訓詁学音韻学を学んだ。21歳の時に成都に移り、そこでは文学史学・文字考訂を学んだ。24歳の時、挙人となる。張之洞幕友となり、『書目答問』の編集に深く関わった。

1876年進士となって翰林院編修の地位を授かり、以後十数年校勘作業に当たる。1888年には南菁書院院長、1891年には灤源書院院長となった。1894年には南京鐘山書院院長、常州龍城書院院長となり、1901年には江楚編訳局総裁となった。1902年、鐘山書院が江南高等学堂に改組されると学堂監督となった。両江総督府は師範学校の建設を決定し、繆荃孫を総長に任命し、繆の指揮で三江師範学堂が設立された。さらに徐乃昌柳詒徴ら七教授とともに日本に学校制度の視察に赴いた。三江師範学堂は東京大学に倣ったもので、南京国子監の旧跡に建設された。その後両江師範学堂、南京高等師範学校と改称され、現在の南京大学のもととなった。1907年、江南図書館(現在の南京図書館)の建設計画に参加し、総裁となった。1909年、北京京師図書館(現在の中国国家図書館)の創設にも関わり、正監督となった。1914年には清史の編纂に招かれ、清史稿のうち儒林伝、文苑伝、循良伝、孝友伝、隠逸伝を著した。

著作

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  • 『芸風堂文集』
  • 『芸風堂蔵書記』
  • 『芸風堂読書記』
  • 『芸風堂続記』

纂集

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  • 『書目答問』
  • 『続修四庫全書提要』
  • 『清学部図書館善本書目』
  • 『清学部図書館方誌目』
  • 『続国朝碑伝集』
  • 『碑伝集補遺』
  • 『芸風堂金石目』
  • 『常州詞録』
  • 『南北朝名臣年表』
  • 『近代文学大綱』

方誌

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  • 『順天府志』
  • 『湖北通志』
  • 『江蘇通志』
  • 『江陰県続志』

編刊

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  • 『雲自在龕叢書』
  • 『藕香零拾』
  • 『煙画東堂小品』
  • 『対雨楼叢書』

代撰

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脚注

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  1. ^ 日本語読み「ぼく せんそん」なのは、『(新版)世界人名辞典 東洋編〈増補版〉』(東京堂書店、1994.7)、『中国史人名辞典』(新人物往来社、1984.5)。他方、『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(TBSブリタニカ、1972.9~1974.12)、『コンサイス外国人名事典 第三版』(三省堂、1999.4)、『中国人名事典』(日外アソシエーツ、1993.2)、『大百科事典』(平凡社、1984.11~1985.6)、『世界大百科事典 第2版』(平凡社)等では、ヨミを「びゅう せんそん」として排列する。