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肥田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

肥田氏(ひだし)は、「肥田」をの名とする日本の氏族。「ひだ」は斐陀、斐太、斐陁、飛騨、飛駄、肥田、比多、比田、日田などとも表記する。著名なものとしては、土岐氏庶流のものがあり、代々武家として鎌倉幕府室町幕府を支えた後、織田信長明智光秀豊臣秀吉北条氏康徳川家康の家臣として仕え、江戸時代には旗本幕閣(長崎奉行、勘定奉行)として徳川幕府中枢を支えるとともに、尾張藩水戸藩高松藩の家老を輩出した。また幕末には遣米使節一行として咸臨丸で渡米するなど明治にかけても活躍し新政府の下で文明開化に貢献した。

異流も多く、美濃国土岐郡肥田を発祥とするものを含めて、大きく斐陀国造肥田宿禰・播州肥田氏・美濃肥田氏・豆州肥田氏・遠江肥田氏・比多国造比多氏などがある。また飛騨氏、飛田氏、比田氏、樋田氏、氷田氏、疋田氏、貴田氏も同族の可能性がある。なお、九州の日田氏(ひたし)は豊後大蔵氏のことであり別系統。

家紋は「土岐桔梗」「桔梗」「丸に桔梗」「片喰」「三つ柏」「丸に剣花菱」「丸に太九枚笹」「三つ盛酢漿草」などがある。

2008年(平成20年)現在、日本に1849世帯の肥田姓があり、岐阜、中京、関西圏が多いものの広く日本全国に分布している。首都圏を除き主だった地域では常滑市に87世帯(4%)、可児市48世帯(2%)、土岐市45世帯(2%)、賀茂郡42世帯(2%)、射水郡31世帯(1%)、加東市・西脇市12世帯となっている。

斐陀国造肥田氏

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類聚符宣抄』に康保五年、天禄四年、永祚二年に肥田宿禰維延が見え、『朝野群載』巻十六に「左少史肥田宿禰」と見える人物と同一人物と見られる。この肥田宿禰姓の一族は古代飛騨国豪族であった斐陀国造の後裔とする説がある[1]

美濃肥田氏

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現在の岐阜県土岐市肥田町を発祥の地としているが、歴史の流れと共に居を変え可児肥田氏、尾張肥田氏、伊勢肥田氏、中津川肥田氏、近江肥田氏、江戸肥田氏が確認されている。家紋は「土岐桔梗」「丸に桔梗」。菩提寺は臨済宗妙心寺派天福寺(現在の肥田町)。

肥田氏
家紋
桔梗(土岐桔梗)
本姓 清和源氏土岐氏
家祖 土岐光房
種別 武家
出身地 美濃国土岐郡肥田
主な根拠地 美濃国
尾張国ほか
著名な人物 肥田文左衛門
肥田玄蕃助軌休忠政
肥田孫左衛門
凡例 / Category:日本の氏族
  • 土岐浅野光時 - 承久の乱の際、宮方で出陣敗戦後、浅野判官と改名して土岐市浅野の浅野館に蟄居した土岐氏初代土岐光衡の次男・光時が浅野氏の氏祖となる。(現在の土岐市肥田町浅野)
  • 肥田光房 - 光時の次男・土岐浅野次郎光房が肥田次郎光房を名乗り、肥田氏の氏祖となった(現在の土岐市肥田町)。

土岐宗家5代土岐頼遠岐阜長森移転に伴い、可児市へ移転。肥田氏は土岐明智家や土岐石谷家と共に足利将軍家奉公衆(親衛隊)を務め代々将軍から偏諱を受けていた名族で勇猛豪胆で知られる。しかし応仁の乱前後より足利将軍家や土岐宗家が弱体化し、明応4年(1495年)の船田の乱では石丸方に付いて敗北したために、肥田氏は急速に弱体化し、弘治2年(1556年)の斎藤義龍挙兵により四散し、織田信長明智光秀に仕え、その後、徳川家康に仕える。


              源頼光
               ┃
               ┃
              源国房
               ┃
              源光基
               ┃
              土岐光衡1
               ┣━━━━━━━━━━━┓
               光行2        土岐浅野光時
               ┃           ┃
               光定3        土岐光房(肥田氏祖)
        ┏━━━━━━━━━┫           ┃
    蜂屋定親       頼貞4        肥田光保  
     ┃         ┣━━━━━┓     ┃
    原師親        頼清    頼遠5  肥田有光


土岐肥田氏の代表的な人物

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中津川肥田氏

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土岐肥田氏肥田玄蕃義直系で明智光秀臣 肥田帯刀則家の正室が東濃中津川に定住し中津川肥田氏の祖となる。

  • 肥田帯刀則家 - 肥田玄蕃の子、明智光秀旗下小姓[14]。禁制の地である山崎での戦いを避け勝龍寺での作戦を進言[15]
  • 肥田政平 - 肥田帯刀則宗の子、三右衛門。以降、代々中津川宿問屋役、庄屋を務める
  • 肥田九郎兵衛通光(みちてる) - 肥田帯刀10代目、文化11年(1814年)生、字名士考、南画俳諧指導者、平田篤胤3羽鴉、自由民権運動家
  • 肥田舜太郎 - 肥田帯刀17代目、医学博士、軍医として広島勤務中に原爆被爆、地下室にいて助かる。直後から救援を行う。日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長として活躍。

伊勢肥田氏

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土岐肥田氏系で土岐肥田三郎太郎衛国が伊勢守護代となり伊勢へ移住した。

尾張肥田氏

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え尾張大納言義直付属となる。孫左衛門家は、尾張徳川家の城代家老を拝命する 菩提寺は政秀寺(名古屋市中区)

近江肥田氏

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肥田文左衛門弟肥田与左衛門が織田信長の命により小谷へ移住。近江肥田氏の祖となる。菩提寺は小谷寺

  • 肥田与左衛門 - 永禄10年(1567年)織田信長の命によりお市の方輿入れに警護役として小谷へ赴き城下に居住。小谷城下に3000石を知行する。
  • 肥田加兵衛 - 徳川家康の命により代々、小谷城下の伊部・郡上・留目・別所他を拝領し1800石代官職、伊部宿本陣を務める、その後彦根藩に附属し藩の酒吟味改も務める[17]

江戸肥田氏

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武蔵国埼玉郡(榛沢、比企郡)、上総国を知行し、徳川幕府の旗本あるいは幕閣として江戸に居住した。家紋は「丸に桔梗」。菩提寺牛込蒼龍山松源寺(現、下落合松源寺)。

  • 肥田忠頼 - 忠親嫡男、寛永元年(1624年)徳川秀忠に拝謁、小姓組番士となる。武蔵国埼玉郡に400石を知行。慶安3年(1650年)徳川家綱に付属し西城御書院番小普請となる。
  • 肥田頼次 - 天和2年(1682年)徳川綱吉に拝謁、大番、組頭。
  • 肥田頼時 - 享保2年(1717年)徳川吉宗に拝謁、大番、250石。
  • 肥田十郎兵衛頼常 - 従五位下豊後守3000石。安永5年(1776年)表御右筆、天明4年(1784年)奥右筆、寛政3年(1791年)組頭、同4年(1792年)御勘定吟味役組頭、同10年(1798年)日光東照宮御霊屋普請、寛政11年(1799年)から文化3年(1806年)まで長崎奉行職、天草乱後、治安安定経済復興のため製陶所を設け天草焼、のち亀山焼を作る。在任中、ロシアの外交官ニコライ・レザノフが長崎に来航した際には、遠山景晋と共に事態を無事終息。文化3年(1806年)小普請奉行作事奉行を歴任。文化7年(1810年)勘定奉行に就任した。文化12年(1815年)西丸留守居となった。
  • 肥田頼存(よりつぐ) - 新三郎、武蔵、上総に500石を領す。

豆州肥田氏

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肥田浜五郎

発祥は伊豆国田方郡肥田村(現在の静岡県函南町肥田)であるが戦乱を避け伊豆国賀茂郡八幡野村へ移住した。

土岐系説では土岐肥田頼衡が観応3年(1352年)伊豆守に任ぜられ次男肥田二郎を守護代として肥田村に定住させた説がある。 また伊豆の古代豪族伊豆国造の系統の値氏子孫・肥田宿禰の子孫説がある。平安期に発祥地に居住し肥田氏を称し、在庁官人となる。 その他、藤原時代を築いた秦氏の「はた」が「ひだ」に転化したとの説もある。

北条氏直に仕え、いったん帰農した後に徳川家康に仕え、水戸徳川家の家老、高松藩家老を勤める。幕末明治期に活躍。

豆州肥田氏の代表的な人物

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遠江肥田氏

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藤原北家利仁流加藤氏の流れを汲む遠山氏の支流で、家紋は「三つ盛酢漿草」。

  • 肥田源四郎 - 足利将軍一番奉公衆[21]
  • 肥田兵庫助 - 足利将軍二番奉公衆[21]
  • 肥田助太郎政季 - 宝徳元年(1449年)、8代将軍足利義政より偏諱を授かる。将軍家第20陣張。
  • 肥田左京亮兼直 - 二番衆[22]

播州肥田氏

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現在の兵庫県加東市社を発祥の地としている。播磨国廣野を治めた肥田伊織実道(1185年・寿永4年)が始祖。

 土肥弥太郎遠平と多田八重女との長男、多田弥一郎実道が後に伊織と改名し、源義経より土肥・多田のそれぞれの一字を取り結んだ苗字を勧められ、肥田伊織実道と改名したことから始まる。

その他肥田氏

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  • 肥田左衛門晋 - 奥城(田口城)城主(兵庫県神崎郡)。文久3年(1863年)11月14日、生野の変で但州妙見山にて同志とともに自刃、辞世「かかるとき唯いつまでもながらへてかつてこころを国にむくはん」[23]
  • 肥田孫兵衛 - 静岡県佐久間機織淵

脚注

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出典

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  1. ^ 宝賀寿男両面宿儺と飛騨国造」『古樹紀之房間』、2010年。
  2. ^ 前野家文書
  3. ^ 龍洞寺文書
  4. ^ 吾妻鏡1257年(正嘉元年)
  5. ^ 群書類従24 釈家部
  6. ^ 『相国寺供養記』:『国史大系』35「後鑑」所収
  7. ^ 「群書類従」26、花誉三代記
  8. ^ 永享番帳
  9. ^ 經覺私要鈔
  10. ^ 長享番帳
  11. ^ 東山番帳
  12. ^ 信長公記
  13. ^ a b 寛永諸家系図伝
  14. ^ 大日本史料11編1冊
  15. ^ 山崎合戦図屏風大阪城天守閣所蔵
  16. ^ a b c 名古屋市要
  17. ^ 近江肥田家文書
  18. ^ 小田原衆所領役帳
  19. ^ a b 寛永19年(1642年)、下館分限帳
  20. ^ a b 高松藩士由緒録
  21. ^ a b 永享以来御番帳、文安年中御番帳
  22. ^ 長享徳院江州動座着制
  23. ^ 殉難草

関連項目

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外部リンク

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