藤原仲経
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 仁安2年(1167年)[1] |
死没 | 嘉禎2年12月27日(1237年1月25日) |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 水無瀬家 |
父母 | 父:藤原親信、母:官女半物阿古丸 |
兄弟 | 二条定輔、仲経、親兼、忠遍、信弘、源通宗室、藤原朝経室、源通宗室、藤原朝定室、藤原教成室 |
子 | 仲兼 |
藤原 仲経(ふじわら の なかつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。坊門中納言・藤原親信の二男。官位は正二位・権中納言。二条定輔の同母弟。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 承安4年(1174年)1月5日、叙爵。
- 寿永元年(1182年)10月7日、従五位上。
- 寿永2年(1183年)1月22日、右兵衛権佐。
- 元暦元年(1184年)7月24日、正五位下。
- 文治3年(1187年)1月5日、従四位下。
- 文治4年(1188年)10月14日、備前守を兼ねる。
- 建久元年(1190年)1月24日、従四位上。
- 建久2年(1191年)閏12月4日、丹後守。
- 建久3年(1192年)1月27日、丹後守を止める。
- 建久6年(1195年)1月5日、正四位下[2]。
- 建久7年(1196年)12月25日、伯耆守。
- 建久8年(1197年)9月20日、父・親信の喪が明けて復任。
- 正治元年(1199年)1月20日、内蔵頭。同年6月23日、伯耆守を止める。
- 建仁元年(1201年)1月6日、従三位。
- 元久元年(1204年)1月5日、正三位[3]。
- 元久2年(1205年)1月29日、修理大夫。4月10日、参議。
- 建永元年(1206年)1月13日、備中権守。
- 承元2年(1208年)7月9日、修理大夫を止める。
- 承元4年(1210年)12月17日、権中納言。
- 建暦元年(1211年)3月23日、従二位。9月8日、権中納言を辞し正二位。
- 承久元年(1219年)11月24日、本座を許される。
- 承久2年(1220年)6月15日、出家。
- 嘉禎2年(1236年)12月27日、薨去。享年70。
系譜
[編集]- 父:藤原親信(1137-1197)
- 母:官女半物阿古丸
- 妻:不詳
- 男子:藤原仲兼