藤原清正
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藤原清正(狩野尚信『三十六歌仙額』) | |
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 天徳2年(958年)7月 |
官位 | 従五位上、紀伊介 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 藤原北家良門流 |
父母 | 父:藤原兼輔、母:不詳 |
兄弟 | 雅正、清正、守正、庶正、公正、桑子 |
妻 | 不詳 |
子 | 光舒、女子、源守清室 |
藤原 清正(ふじわら の きよただ)は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔の次男。官位は従五位上・紀伊介。三十六歌仙の一人。
経歴
[編集]延長8年(930年)従五位下に叙爵。朱雀朝では紀伊権介・備前権守・備後権守と地方官を歴任する。
天慶9年(946年)4月の村上天皇の即位に伴い昇殿を許されると、10月に右兵衛権佐、翌天暦元年(947年)には五位蔵人、天暦9年(955年)左近衛少将に任ぜられるなど、武官を務めながら天皇に近侍した。この間の天暦3年(949年)には従五位上に叙せられている。
天徳2年(958年)7月卒去。最終官位は左近衛少将従五位上兼紀伊介。
朱雀・村上朝の宮廷歌人であり、『天暦九年内裏紅葉合』『天暦御時内裏前栽合』『天暦御時中宮歌合』といった天暦年間に開催された内裏歌合に出詠し、多くの屏風歌を制作した。壬生忠見・藤原敦忠らとの交流があった[1]。『後撰和歌集』(8首)以降の勅撰和歌集に計28首が入集[2]。他選家集として勅撰集的な構成を取る『清正集』がある[3]。
官歴
[編集]注記のないものは『三十六人歌仙伝』による。
- 延長8年(930年) 11月22日:従五位下(陽成院御給)
- 承平4年(934年) 正月:紀伊権介
- 時期不詳:豊前守?[4]
- 天慶5年(942年) 3月:備前権守
- 天慶7年(944年) 閏12月2日:見備後権守[5]
- 天慶9年(946年) 4月:昇殿。7月:右兵衛権佐
- 天暦元年(947年) 12月24日:五位蔵人[6]
- 天暦2年(949年) 正月7日:従五位上。2月:兼斎院長官。5月:兼修理権亮、停斎院長官
- 天暦4年(950年) 2月:近江介。3月:還昇
- 天暦9年(955年) 10月:左近衛少将
- 天暦10年(956年) 正月27日:兼紀伊介[7]。10月8日:還昇。
- 天徳2年(958年) 7月:卒去(左近衛少将従五位上兼紀伊介)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。