コンテンツにスキップ

西本明和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西本 明和
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県松山市興居島
生年月日 (1948-10-11) 1948年10月11日(76歳)
身長
体重
181 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手遊撃手投手
プロ入り 1966年 第2次ドラフト1位
初出場 1967年
最終出場 1972年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

西本 明和(にしもと あきかず、1948年10月11日 - )は、愛媛県松山市興居島出身の元プロ野球選手内野手投手)。

巨人中日オリックスで投手として活躍した西本聖は実弟。

来歴・人物

[編集]

愛媛県立松山商業高等学校では1年生の秋からエースとなる。1964年秋季四国大会県予選準決勝に進み、今治南高金子準一と投げ合うが敗退。1965年夏の甲子園予選北四国大会でも決勝に進出。高松商小坂敏彦との投手戦となるが、1-2で惜敗し甲子園出場を逸する。1年上のチームメートに末永正昭がいた。

1966年夏は北四国大会決勝で高松一高の久保陽二(早大-高松一高監督)に投げ勝ち、エース、四番打者として夏の甲子園に出場。準決勝では横山晴久投手を擁する小倉工に苦戦するが1-0で完封勝ち。しかし決勝では、春の選抜の優勝校である中京商加藤英夫矢沢正のバッテリーに抑えられ1-3で敗退、準優勝にとどまる[1]。秋の大分剛健国体は、決勝で津久見吉良修一らと投げ合い1-0で完封勝利、優勝を飾った。

1966年度第2次ドラフト1位で広島カープに入団。投手としてはシュートカーブが武器のサイドスロー。しかし、1968年4月に交通事故で2か月入院。同年10月に一軍に復帰し、10月14日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でプロ初勝利を挙げるも、同年シーズンオフでまたも交通事故でむち打ち症となり、長くその後遺症に悩まされることになる。

1969年は開幕第3戦に先発として起用され、中日星野仙一と投げ合い初完投勝利。同年は夏場に一時失速するものの5勝を記録した。しかし1970年には打撃を買われ内野手に転向する。同期の三村敏之や守備コーチだった広岡達朗が「これほど熱心に練習する選手は見たことがない」と評するほどの真剣かつ豊富な練習量で再起を目指した。努力の甲斐あって9月には遊撃手の定位置を獲得、同年は29試合に先発出場を果たす。翌1971年は故障もあって出場機会に恵まれなかったが、1972年には復活、三塁手として33試合に先発した。しかし1973年肝臓病を患い一度は現役を引退。この後、3年間の入院生活を余儀なくされた。1976年に入団テストを受けて広島に復帰、登録名を西本充志とするものの一軍出場は無く、同年に再び引退する。引退後は表立って球界とかかわらず[2]、広島で二年間、板前修業した後、故郷松山に帰り1978年、松山市内に牛肉料理店「ホームラン」を開業した[2]

明和がカープに入団した当時、弟・はまだ小学生。西本家は貧しく明和が聖の面倒をみた[2]。聖を松山商に通わせ野球をやらせたのも明和であった[2]。ところが巨人で成功した聖は「オレは兄貴に頼んで野球をやらせてもらったんじゃない」「金は月々返済している」と言い返す態度で明和は憤慨していた[2]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1967 広島 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 21 5.0 4 2 2 0 0 3 0 0 3 3 5.40 1.20
1968 3 1 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 33 8.2 8 0 3 0 0 3 0 0 3 3 3.12 1.27
1969 25 10 2 0 0 5 3 -- -- .625 386 92.2 91 14 22 2 4 41 2 0 48 45 4.37 1.22
通算:3年 32 11 2 0 0 6 3 -- -- .667 440 106.1 103 16 27 2 4 47 2 0 54 51 4.32 1.22

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1967 広島 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1968 3 3 3 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .667 .667 .667 1.333
1969 30 41 35 1 6 1 0 0 7 2 1 0 4 0 1 0 1 4 1 .171 .216 .200 .416
1970 57 118 104 8 17 4 0 2 27 5 1 4 1 0 11 0 2 39 0 .163 .256 .260 .516
1971 2 4 4 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .250 .250 .500 .750
1972 55 120 103 12 19 6 0 1 28 13 4 0 2 0 13 0 2 31 2 .184 .288 .272 .560
通算:6年 152 286 249 21 45 12 0 3 66 20 6 4 7 0 25 0 5 75 3 .181 .269 .265 .534

背番号

[編集]
  • 20 (1967年 - 1968年)
  • 51 (1969年 - 1972年)
  • 25 (1973年)
  • 59 (1976年)

登録名

[編集]
  • 西本 明和 (1967年 - 1973年)
  • 西本 充志 (1976年)

脚注

[編集]
  1. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ a b c d e 「追跡調査 消えた金の卵 ドラフト1位指名選手203人の球運」『週刊サンケイ』、産業経済新聞社、1981年12月10日号、200-205頁。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]