鄒作華
鄒 作華(すう さくか、繁体字: 鄒作華; 簡体字: 邹作华; 繁体字: 鄒作華; 拼音: Zōu Zuòhuá; ウェード式: Tsou Tso-hua、1894年5月11日(清光緒20年4月初7日) - 1973年(民国62年)11月7日)は、中華民国(台湾)の軍人・政治家。東北陸軍(奉天派)出身で砲兵を専門とする。後に国民革命軍に属した。字は岳楼。吉林将軍管轄区吉林府(現在の永吉県)出身。
事績
[編集]奉天派での台頭
[編集]初めは吉林優級師範附属高等小学で学んだが、1908年(光緒34年)に吉林陸軍小学へ入学し、卒業後は吉林で孟恩遠の部隊で見習軍官[1]を経て1914年(民国3年)には陸軍第一予備学校に進学した。1916年(民国5年)、保定陸軍軍官学校5期生に進学し、留学生予備隊に編入される。翌1917年(民国6年)に日本へ留学、久留米市の野砲兵第24連隊で実習に従事し、陸軍士官学校第12期砲兵科で学んだ。卒業後の1919年に帰国、段祺瑞率いる参戦軍の教導団に砲兵教官として所属、副隊長、団長代理を経て、後に重砲営営長を務める[1]。同年10月に東三省巡閲使衛隊混成団参謀となり、これ以降は奉天派に属した[2][3]。
1922年(民国11年)11月、東三省陸軍砲兵第4団団長に就任、1925年(民国14年)には砲兵第1旅旅長に昇進している。同年11月、郭松齢が張作霖に反旗を翻して東北国民軍を結成すると、総司令部参謀長に起用される。しかし、鄒は張作霖と内通しており[4]、12月7日の錦州占領後、時間稼ぎを企図した鄒は、郭松齢に3日間の部隊の休息を具申した。事実、将兵は連日の戦闘と凍傷で疲弊しきっていたため、郭松齢もこれに同意したが[4]、張作霖はこの間に反撃に転じ、東北国民軍は瓦解。鄒は郭の逃亡を見届けると全軍に戦闘停止命令を下し、張学良に電話でこれまでの状況を報告した[5]。張配下に戻ったのちは郭敗死の功績から累進し、1926年(民国15年)、奉天派の砲兵総司令となり、翌1927年(民国16年)には砲兵軍軍長を務める。北京政府が中国国民党の北伐軍に敗北すると、鄒も東北に戻り、興安区屯墾督弁に任ぜられた。張学良が国民政府へ易幟すると、鄒もこれに追随している。[2][3]
国民政府での活動
[編集]1930年(民国19年)1月、鄒作華は青天白日勲章などを授与された。1933年(民国22年)5月、国民政府軍事委員会北平分会委員に任命される。翌1934年(民国23年)9月には陸軍砲兵学校校長に転任、まもなく同校教育長として実務に当たった。1935年(民国24年)4月、陸軍少将銜を授与される。日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、全国砲兵総指揮に任命された。1940年(民国29年)、軍事委員会砲兵総指揮に改組され、同年5月には吉林省政府主席に任ぜられたが、名目のみで実際に省政府は組織されなかった。[6]1943年(民国32年) 12月、国民政府参軍処参軍に任命され、1945年(民国34年)5月には国民党第6期中央執行委員候補に選出されている。[2][3]
日中戦争終結後の1945年(民国34年)9月、鄒作華は東北行営政治委員会委員に任命され、1947年(民国36年)10月、国民政府主席東北行轅政治委員会常務委員となった。同年11月、陸軍二級上将銜を授与される。1948年(民国37年)2月、戦略顧問委員会委員に任命され、同年3月には行憲国民大会代表に選出された。1949年(民国38年)、国共内戦敗北に伴い台湾に逃れた。1953年(民国42年)に退役し、以後、総統府国策顧問、光復大陸設計研究委員会委員を歴任する。国民大会では、1954年(民国43年)2月の第2回会議と1960年(民国49年)2月の第3回会議でいずれも会議主席団主席を務めた。1973年(民国62年)11月7日、台北市にて病没。享年80(満79歳)。[2][3]
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 杉山祐之『覇王と革命 中国軍閥史一九一五‐二八』白水社、2012年。ISBN 978-4-560-08256-0。
中華民国(国民政府)
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