鍛冶昇
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かじ のぼる 鍛冶 昇 | |
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本名 | 鍛治昇 |
生年月日 | 1931年8月16日 |
没年月日 | 2021年10月21日(90歳没) |
出身地 | 日本 三重県桑名市 |
職業 |
テレビ演出家 映画監督 プロデューサー |
ジャンル | 映画、テレビドラマ |
鍛冶 昇(かじ のぼる、1931年8月16日 - 2021年10月21日[1])は、日本のテレビ演出家、映画監督、プロデューサー。三重県桑名市生まれ。日本映画監督協会会員。日本映画テレビプロデューサー協会会員。
来歴
[編集]1945年、慶応義塾大学仏文科卒業。日活撮影所助監督部入社後、主に滝沢英輔、市川崑、斎藤武市の助監督をつとめる。1965年、テレビ映画「山のかなたに」で監督デビュー。1969年に日活を退社後フリーを経て国際放映のプロデューサーとして活動。
1988年〜1994年、日活芸術学院にて映像創作科の専任講師として、映画演出、映画企画製作などの科目を担当。
作品
[編集]映画
[編集](特記以外は製作日活)
- 佳人 (1958年)‐ 助監督
- 東京の孤独 (1959年)‐ 助監督
- 世界を賭ける恋 (1959年)‐ 助監督
- 裕次郎の欧州駈けある記 (1959年)‐ 助監督
- あじさいの歌 (1960年)‐ 助監督
- 霧笛が俺を呼んでいる (1960年)‐ 助監督
- 俺は死なないぜ (1961年)‐ 助監督
- さようならの季節 (1962年)‐ 助監督
- 太平洋ひとりぼっち (1963年 日活・石原プロ)‐ 助監督
- 愛と死をみつめて (1964年)‐ 助監督
- うず潮(1964年)‐ 助監督
- 大日本殺し屋伝(1965年)‐ 助監督
- 父と娘の歌(1965年)‐ 助監督・脚本
- おゆきさん(1966年)
- 二人の銀座(1967年)
- 東京ナイト(1967年)
- ある少女の告白 禁断の果実(1968年)
- 青春の鐘(1969年)
- 恋のつむじ風(1969年)
- 野蛮人のネクタイ(1969年)
- 股旅(1973年、日本ATG他)‐ キャスティングディレクター
- 勝利者たち (1993年 円谷プロ)‐ 松林宗恵監督と共同演出
- わが映画人生 鍛冶昇監督 (2007年 日本映画監督協会) 出演
テレビドラマ
[編集]- 山のかなたに(1966年 NTV)
- 雨の中に消えて(1966年 NTV)
- 愛妻くん(1966年 NTV)
- 特だね記者(1966-1967年 NTV)
- あいつと私(1967年 NTV)
- ある日わたしは(1967~1968年 NTV)
- 花と果実(1968年 NTV)
- ドロボーイ(1968年 NTV)
- 若い川の流れ(1968-1969年 NTV)
- S・Hは恋のイニシァル(1969年 NTV)
- 耳飾り (「火曜日の女シリーズ」1969年 NTV)
- 男一番!タメゴロー(1970年 テレビ朝日)
- 明日のしあわせ (1970年 テレビ朝日)
- 独身のスキャット(1970年 TBS)
- 偽れる妻(1971年 フジテレビ)
- ガッツジュン(1971年 TBS)
- 帰ってきたウルトラマン(1971-1972年 TBS)
- 飢える魂 (1972年 フジテレビ)
- ただいま浪人(「四騎の会ドラマシリーズ」1972年 フジテレビ)
- 木枯し紋次郎(1972-1973年 フジテレビ)
- 恋人たちへの鎮魂歌(「土曜日の女シリーズ」1973年 NTV)
- 特別機動捜査隊(1973年 テレビ朝日)
- 追跡(1973年 関西テレビ)
- 風の中のあいつ (1973-1974年 TBS)
- 丹下左膳 乾坤編(1974年 読売テレビ)
- 少年探偵団(1975-1976年 NTV)
- 7人のリブ(1976年 関西テレビ)
- 怪人二十面相(1977年 フジテレビ)
プロデュース
[編集]- ふしぎ犬トントン(1978-1979年 フジテレビ)
- あばれはっちゃくシリーズ(1979-1985年 テレビ朝日)
- 旅がらす事件帖(1980-1981年 関西テレビ)
- 夏のページ(1990年 にっかつ児童映画)
脚注
[編集]- ^ a b “会報 No.492 2021年 11,12月号”. 日本テレビプロデューサー協会 (2021年12月9日). 2021年12月29日閲覧。