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鈴木重朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
鈴木 重朝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 元和年中(16151624年[注釈 1]
別名 通称:孫三郎、孫市?[2][注釈 2]
戒名 不明[1]
墓所 不明[1]
主君 豊臣秀吉秀頼伊達政宗徳川家康頼房
水戸藩家老[4]
氏族 雑賀党鈴木氏
兄弟 重朝、孫三郎?[注釈 3]、金大夫[7]
重次、重信、金三郎[7]
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鈴木 重朝(すずき しげとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名水戸藩重臣・雑賀氏の祖。

生涯

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重朝は雑賀党鈴木氏の生まれとみられるが、『水府系纂』記載の家譜には「其先未詳」とあり、確かなことは分からない[8]石山合戦本願寺方として活躍した鈴木孫一重秀と同一人物とする説や[9]、重秀の子またはその一族とする説がある[10]鈴木眞哉は重秀の弟や甥といった重秀に近い人物との見方を示し[6]、武内義信は重秀の子の可能性が高いとしている[11][注釈 4]

鈴木重秀は本能寺の変の後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属したとみられるが[13]、重朝もまた秀吉に仕えている[14]文禄元年(1592年)4月以降[15]朝鮮出兵に伴って、重朝は肥前名護屋城に在陣している[16][注釈 5]。文禄2年(1593年)10月には、秀吉のの稽古に際し弓鉄砲衆が警固しているが、その中に重朝とみられる「鈴木」の名がある(『駒井日記』)[18]。文禄4年(1595年)1月に、秀吉が草津への湯治に出向いた際には、美濃土岐宿の警備を行っていた[19]。秀吉没後は、その子・秀頼に直仕する鉄砲頭となっている[20]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して伏見城を攻め、城将・鳥居元忠を討ち取った(伏見城の戦い[21]。戦後、重朝は浪人となる[22]。『水府系纂』によると、その後重朝は伊達政宗のもとに寄食し、政宗の仲介で鳥居元忠の主である徳川家康から許されたという[23]。慶長11年(1606年)、重朝は家康に直臣として召し抱えられ、常陸国に3,000石を与えられた[24]。しばらくして、家康の子である水戸徳川家徳川頼房に付けられた[24]

元和年中(16151624年)に重朝は死去した[注釈 1]。墓所や法号については不明で[1]、重朝本人は水戸徳川家に仕えていなかった可能性も考えられる[25]

跡を継いだ子の重次は、鈴木孫三郎から雑賀孫市へと名を改めた[26]。重次は藩主・頼房の子である重義を養子として迎え[27][28][29]、雑賀家は水戸藩の重臣として続いた[30][4]

逸話

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伏見城の戦いで鳥居元忠所用の「紺糸素縣縅二枚胴具足」が重朝の手に渡ったが、重朝は元忠の子の忠政に返還を申し出た[31]。すると忠政は深く感銘し、重朝にこの具足を譲ったという[31]。この具足は2004年(または2003年[32])に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈された(なお兜は幕末期に新調されている)[31]

また、重朝は「八丁念仏団子刺し」という太刀を所持していた[33]。ある晩に、重朝がこの刀で人を斬ると、斬られた者は念仏を唱えながら八丁ほど歩いてから二つになって倒れ、この刀を杖にしていると路上の石が団子のように串刺しになっていたということが名前の由来という[33]明治維新後、雑賀家から水戸徳川家へと渡った[34]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『水府系纂』による[1]。『新補水城実録』では寛永4年(1627年)の死去とされるが、鈴木眞哉は『新補水城実録』における誤りを『水府系纂』で訂正したものと捉え、元和年中の没とするのが正しいとしている[1]
  2. ^ 家譜では、重朝が鈴木孫三郎から雑賀孫市に改名したとされるが、確証はない[3]
  3. ^ 『水府系纂』に重朝の弟として記されているが、『新補水城実録』には孫三郎という弟の記載はない[5]。鈴木眞哉は、成人した兄弟で同じ名を名乗るとは考えにくいとして、紀州徳川家にいた別家の鈴木孫三郎(寛永15年〈1638年〉に死去。鈴木重秀の子か)を系譜の上で弟に位置付けたと推測する[6]
  4. ^ 雑賀家の家譜に「其先未詳」とあることについて、鈴木眞哉は、重朝の父が著名な重秀であれば子孫がその存在を知らないこともそれを書き忘れることもないとして、重秀と重朝を親子とする説を否定する[12]。一方武内善信は、水戸藩の重臣でありながら土豪出身という低い出自を持つ雑賀家がそれを隠そうとしたことによるものとし、重秀の子であることへの反証にはならないとしている[11]
  5. ^ 後世の編纂物では、これより前の天正18年(1590年)の小田原征伐の際、「鈴木孫三郎」が忍城攻めに加わったとされるが、当時の陣立書で小田原攻めへの参加が確認できるのは「鈴木孫一郎」であるため、誤りの可能性がある[17]

出典

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  1. ^ a b c d e 鈴木 1984, p. 214.
  2. ^ 鈴木 1984, p. 204; 鈴木 2004, pp. 162, 164.
  3. ^ 鈴木 1984, pp. 204–205, 214; 鈴木 2004, p. 164.
  4. ^ a b 水戸市史編さん委員会 編『水戸市史 中巻(一)』水戸市、1968年、191頁。全国書誌番号:68006788 
  5. ^ 鈴木 1984, p. 220; 鈴木 2004, p. 165.
  6. ^ a b 鈴木 2004, p. 165.
  7. ^ a b 鈴木 1984, p. 221.
  8. ^ 鈴木 1984, pp. 203–206.
  9. ^ 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1962年、129–130頁。全国書誌番号:63001227 
  10. ^ 和歌山市史編纂委員会 編『和歌山市史 第1巻 自然・原始・古代・中世』和歌山市、1991年、1008頁。全国書誌番号:92017003 
  11. ^ a b 武内 2018, pp. 373–374, 377.
  12. ^ 鈴木 1984, p. 205; 鈴木 2004, pp. 164–165.
  13. ^ 鈴木 1984, pp. 187–188; 鈴木 2004, p. 158.
  14. ^ 鈴木 1984, p. 206; 武内 2018, p. 372.
  15. ^ 鈴木 1984, pp. 206, 209.
  16. ^ 鈴木 1984, pp. 206, 209; 武内 2018, p. 372.
  17. ^ 鈴木 1984, pp. 194–195, 208–209.
  18. ^ 鈴木 1984, p. 208.
  19. ^ 鈴木 1984, p. 208; 武内 2018, p. 372.
  20. ^ 鈴木 1984, p. 210.
  21. ^ 鈴木 1984, pp. 209–211.
  22. ^ 鈴木 1984, pp. 211–212.
  23. ^ 鈴木 1984, pp. 212–213.
  24. ^ a b 鈴木 1984, p. 213.
  25. ^ 鈴木 1984, p. 214; 鈴木 2004, p. 164.
  26. ^ 鈴木 2004, pp. 165–166.
  27. ^ 武内 2018, p. 373.
  28. ^ 千葉新治 編「桃源遺事」『義公叢書』早川活版所、1909年、41–42頁。全国書誌番号:40018674https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781759/36 
  29. ^ 奥田源三「徳川氏累系」『徳川光圀』普及舎、1894年。全国書誌番号:40018675https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781760/9 
  30. ^ 鈴木 1984, p. 204.
  31. ^ a b c ザ・AZABU 第44号”. 港区麻布地区総合支所 (2018年6月21日). 2020年11月7日閲覧。
  32. ^ 塙和也「敵将への敬意伝え400年 徳川の忠臣の鎧、大阪城に展示(時の回廊)」『日本経済新聞』2015年3月27日。2023年12月6日閲覧。
  33. ^ a b 鈴木 1984, p. 215.
  34. ^ 高瀬真卿刀剣談』日報社、1910年、115頁。全国書誌番号:40072559https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/854220/82 

参考文献

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