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阿蘇惟時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
阿蘇惟時
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不明
死没 正平8年/文和2年(1353年
別名 宇治惟時
氏族 阿蘇氏
父母 父:阿蘇惟国
惟直坂梨孫熊丸阿蘇惟澄室、
惟成[1]惟定
養子:惟澄恵良惟資子)、
惟村(阿蘇惟澄子)
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阿蘇 惟時(あそ これとき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将阿蘇大宮司

略歴

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阿蘇惟国の子として誕生[2]

1319年には、大宮司に任命されていた(『神道体系』阿蘇・英彦山所収)。

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇綸旨を受けて、南朝に帰す。六波羅探題攻略や足利尊氏との戦いに参戦した。その後、長男・惟直に家督を譲って隠居した。(南朝)

延元元年/建武3年(1336年)に惟直が多々良浜の戦いに敗れて自害したため、再び家督を継ぐ事となった。北朝方の足利尊氏の調略で惟時の庶子・坂梨孫熊丸が相続者として大宮司に選ばれたため、阿蘇氏内部で内紛が発生する。惟時は北朝側に寝返った。(北朝)

1344年10月28日、征西府が惟時を北朝方に帰したことを心配し、阿蘇惟澄宛てに令旨写を送る。(北朝)

正平4年/貞和5年(1349年)9月26日、惟時は、再び南朝側に帰順する(五条頼元書状写)。(南朝)

同年、10月28日、惟時は、再び北朝方へ寝返る(征西将軍令旨写)。(北朝)

1350年7月19日、足利将軍家御判御教書により、北朝幕府方から北朝大宮司として任命される。(北朝)

同年、11月8日、惟時は、再び南朝へ帰順する(五条頼元言上状写)。(南朝)

正平6年/観応2年(1351年)、家督を養嗣子・惟村に譲る。足利直義が惟時に御教書を下し、阿蘇大宮司を認める。(北朝)

しかし、惟村の実父・惟澄が当主となって実権を握っていた。正平8年/文和2年(1353年)に死去。

脚注

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  1. ^ 惟直の長男とも。
  2. ^ 『熊本県大百科事典』18頁中段

出典

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  • 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年
  • 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年、38-39頁
  • 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年