写真提供:京セラ

 20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー客員教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。

 今回は、京セラが異分野の新規事業を一気に展開し、事業構造をどう変革したかに迫る。新規事業は時に企業の命運を左右するが、稲盛氏はどのように成功へと導き、安全かつ着実に組織を成長させたのか?

「御用聞き」に徹し、事業を拡大していった創業期

 新規事業への展開は、企業の成長発展にとって不可欠である。しかし、至難の業でもある。多くの企業が挑戦するも、方向転換を迫られたり、ときに撤退を余儀なくされたりする。それは、新たなヒト・モノ・カネ(経営資源)の調達が困難な上に、既存分野への後発参入であれば先行企業との熾烈(しれつ)な競争に勝ち抜くことや、未踏分野の開拓であれば、先駆者が遭遇する困難や障害を突破することが求められるがためである。

 新規事業への挑戦が命取りになることさえある。基幹事業が衰退期を迎え、代替として新規事業に手を染めるような場合や、脆弱な財務状況にもかかわらず、融資を頼りに新規事業で形勢挽回を図るようなケースでは、新規事業の着手がさらなる企業衰退、ときに企業消滅の引き金を引きかねない。

 稲盛和夫は、京セラが中堅企業からさらなる成長発展を企図したとき、4つもの新規事業を一気に立ち上げ、自らが経営の第一線にあるときは、それらの事業を成功へと導いてきた。安全かつ着実に企業を成長発展へと導く、稲盛の新規事業展開を見ていこう。

 1975年、京セラは創立17年目を迎え、売上は200億円、経常利益は50億円を超えた。従業員は2000名に達し、9月には株価が日本一となった。しかし、稲盛は安住することなく、永遠に発展し続ける企業を実現すべく、機械加工、医療、ファッション、エネルギーといった異分野の新規事業を一気にスタートさせ、事業構造を変革した。